学位論文要旨



No 211786
著者(漢字) 加瀬,良明
著者(英字)
著者(カナ) カセ,ヨシアキ
標題(和) 戦後日本の小麦経済に関する基礎的研究
標題(洋)
報告番号 211786
報告番号 乙11786
学位授与日 1994.05.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11786号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今村,奈良臣
 東京大学 教授 森島,賢
 東京大学 教授 荏開津,典生
 東京大学 教授 田中,学
 東京大学 助教授 谷口,信和
内容要旨

 「食料」の生産から流通・消費にいたる全一連の諸活動を、『食料供給システム』として概括する場合、戦後のわが国においては、なによりもまず、それが、高度経済成長の進展過程で、次のような二系列相互の対立的な展開を自らの核心部に包蔵しつつドラスチックに構築されてきたものである点に著しい特徴をみとめることができる。

 もちろん、その二系列の一極は、歴史的・伝統的な主食であるとともに、いわゆる戦後自作農の基幹作物たる米-この《米》系列の、国内自給を志向する体制の堅持である。そこでの政策価格も、主に、かかる志向にもとづくかたちの形成・実施であった。いまひとつの極は、戦後的な『食料供給システム』の構築と展開のなかでますますそのウエイトを高めてきた食品工業部門-その主柱となる、飼料・畜産品と素材型加工の両系列=分化工程における、前者とは対照的な、原料農産物の輸入依存を志向する資本蓄積体制の進展と、さらにそれを許容し推進せしめる政策(価格)体系の選択・実施がそれである。以上の帰結が、一方での、食生活の大変貎をともなった、戦後世界例外的な高度経済成長に対して、他方での、そのもとにおける世界最大の農産物純輸入国への転化、というコントラストが著しく印象的な戦後日本の形成にほかならない。

 したがって、すでに周知に近い「食料自給率の二重構造」や、さらに、兼業型の「稲作モノカルチャ」に対する「加工型畜産」、また、米の「構造的過剰」に対する「日本型食生活」といった常用の諸規定なども、これら二系列相互の対立的な結合関係を基軸とする『食料供給システム』総体の特質をそれぞれの側面、あるいは、次元において表出するものととらえてこそ、その本来の含意もいっそう明確になるといえる。

 そして、さらに進んで、こうした『食料供給システム』総体の基本的特質を集約的に表現する典型が何にもとめられるのかといえば、それは、いうまでもなく、国家管理(=「食糧管理法」)に包括された、その主食領域での、《米》系列と《小麦》系列との相互間にみられる、あのきわめて特異な関係の存在以外にはないだろう。つまり、「米自給と麦輸入」の政策路線がそれである。「主食」のもつ"重み"が重ければ重いほど、その特異性が際立つのである。

 周知のとおり、その一極の《小麦》系列に関しては、これまで、輸入小麦(=外麦)との関係から、ほかならぬ国内産小麦(=内麦)の経済が、昭和40年代末のいわゆる「食糧危機」を一大画期に、それ以前の長期にわたる"安楽死"=解体と、その後の"復興"=増産推進というきわめて特徴的な経過を経験してきたところである。ある意味では、こうした内麦経済が、わが国農業一般の性格を象徴的に代表する位置にあるとさえいえる。というのも、そうした特異な経過そのものによることもさることながら、農産物の販売面において、原料利用を媒介とする農業と食品工業(資本)との連関関係が、より広くより深くその比重をいっそう増大させてきているといえるからである。

 したがって、本研究の「課題」も、こうした国内産小麦経済の解体・復興という特異な経過に具体的に即しながら、とくに、その「復興」の基礎的経済的条件の重層的性格の内容をあらためて検討・整理してみること、におかれている。具体的にいえば、内麦の経済は、「食糧危機」後の復興の進展途上で早々と、実需者側(製粉企業団体)から「三つの基本課題」(物流の合理化、品質の改善向上、生産体制の合理化)の早期の改善を提起されることとなったのだが、本研究においては、そうした「三つの基本課題」の実際面での現実的意味合いとそのうえでの改善の方向性の如何を、内麦主産地を対象にした実態調査による具体的な分析をふまえて検討し、そのことを通じて内麦復興の基礎的条件の性格如何を考察してみることが課題である。なお、その場合にも、本研究では、内麦生産体制の構造的問題性の側面・次元での検討を主としつつも、他方で、小麦の実需者=製粉企業の企業活動の基底的条件の形成にかかわる、わが国の産業構造の問題性への言及もなされている。いうまでもなく、「課題」の存立の構造が、そうしたものとしてあるからである。

 まず、はじめの「第1章=食品工業の展開と《小麦》系列」では、農産物の市場=需要者としていっそうその重みを増し、その面から国内農業の"動向"に甚大な影響を及ぼす関係にある「食品工業」の戦後的な経済構造の概括的な分析と、さらに、われわれが直接の対象とする《小麦》系列が、そうした食品工業の多様な諸業種といかなる関連のもとにいかなる性格で位置づけられる関係にあるのか、したがって、それを通じて、《小麦》系列がいかなる内容で国内農業と食品工業との相互関係の形成の基盤的位置にあるのか、これらの点が分析されている。そして、1985年秋のプラザ合意によって設定された急激で著しい円高レートのもとで、食品工業の戦後に形成された経済構造も新たな再編にみまわれていることの背景が検討されている。

 それを受けて「第2章=小麦粉製造業の経済構造」では、あらためて《小麦》系列の中核をなす小麦粉製造業の経済構造の分析がおこなわれている。前章で検出された、《飼料・畜産品》系列との主・副産物の双方を通じた特徴的な構造的関連性、ならびに、いまひとつの主柱たる《米》系列との関連性=対立性、をふまえながら、「外麦による小麦粉の国内供給」編成とでもいうべき政府の小麦管理政策のもとで、いかに製粉企業の資本蓄積の追求が、結局のところ、外麦依存の寡占支配体制の帰結にいたるのか、そして、低成長下の近年、とくに1985年秋のプラザ合意以降の著しい円高条件の設定下で、70年代初めのいわゆる「食糧危機」を転機にした内麦増産が、政府管理下での寡占支配体制のなかに包摂されるに際してはいかなる諸課題(「三つの基本課題」)に当面することとなるのか、こうした基本的な点をめぐって具体的な分析・検討がおこなわれている。

 次の「第3章=政府管理下の内麦需給構造の性格」は、そうした増産局面の内麦経済が当面している、「三つの基本課題」(物流合理化、品質改善向上、生産体制合理化)の背景、あるいは、その構図についてである。つまり、ここでは、内麦の増産局面でみられた主産地化(北海道、北関東、北九州)の性格を検討したうえで、それと小麦経済を「主導」する、前述の寡占支配体制との「接合」が、ほかならぬ内麦経済にこうした基本課題を何故に提起することになるのか、そうした点の状況が明らかにされている。

 つづく「第4章」と「第5章」は、内麦主産地での現地実態調査をつうじて、その「三つの基本課題」の現実的な意味合いと改善の方向性を、それぞれ農業構造条件の異なる、「大規模・専業の畑麦作」の北海道・十勝畑作地帯(第4章)と、北海道のなかでは相対的に小規模・集約的な畑麦作の事例(訓子府町、第4章・補論)、さらに「零細・兼業深化の田麦作」の北関東・米麦二毛作地帯(第5章)とにおいて、できうるかぎり実証的に検討したものである。ここでは、麦作の組織化にかかわって、両地帯における「カントリーエレベータ」と「普通型コンバイン」の組織的・集団的な利用運営の基本問題が、ひとつの論点として重視されている。

 最後の「第6章=総括と展望」では、以上のような検討結果の総括とともに、内麦経済復興の基礎的条件の明確化を目処に、「三つの基本課題」の改善の方向性と条件の具体的内実を、各主産地の現状と性格にそくするかたちでまとめている。その際、「課題」の存立の階層性(=重層性)に照応して、その改善の方向性と条件も立体的な性格、つまり、第一に、農業構造的要因((a)技術的要因と(b)農業内社会関係的要因)と、第二に、産業構造的要因((c)食品工業編成と(d)戦後型"蓄積定型")、以上のおおきく二つの次元・側面で構成されることとなる。

審査要旨

 第二次大戦後の食糧政策の展開過程において,小麦ほど劇的な政策的位置づけの変化した作物はない。かつては高い自給率を誇っていた小麦は,いわゆるMSA小麦を経て,農業基本法における選択的拡大政策の中で海外からの安価な輸入依存の方向つまり安楽死の方向へと決定的な転換をみた。しかるに,1972〜73年のいわゆる世界食糧危機の激発の中で,国内小麦増産政策へと大転換が行われるとともに,折りからの稲作の転作政策の中心作物と位置づけられ,安楽死を目前にしていた国内産小麦の増産がみられることとなった。

 本論文は,こうした戦後における小麦政策の変転を背景に,(1)主流である輸入小麦を素材とする小麦粉製造業の構造と展開,(2)国産小麦の存立基盤とその生産構造の変貌,の解明に焦点を置きつつ,戦後日本の小麦経済の包括的,体系的分析を課題とするものである。

 以下,論文の構成に即しその内容を紹介しつつ評価を加えてみよう。

 本論文は6章および補論で構成される。

 第1章は「食品工業の展開と《小麦》系列」として,本論文全体を通じる課題と方法の提示,ならびに,農業物市場としての重要性をますます高めてきた食品工業の全容とその中における小麦及びその関連部門の位置づけを明らかにする。そこでは,(1)輸入農産物への依存の増大と小麦の位置づけ,(2)飼料・畜産品及び製粉業が基盤的位置を占めること,(3)寡占的装置産業型と非寡占的女性労働力依存型への両極への分化がみられることなど戦後食品工業の構造変化が考察される。

 第2章「小麦粉製造業の経済構造-特殊戦後的編成の形成・展開・再編」は小麦系列の中核をなす小麦粉製造業の経済構造の分析に当てられている。前章で検出された,(1)<飼料・畜産品>系列との主産物・副産物の双方を通じた構造的関連性を踏まえつつ,他方では<米>系列との非関連性=対立性を認識しつつ,政府の小麦管理政策のもとで,いかに製粉企業の資本蓄積の追求が,外麦依存の寡占支配体制へと帰結していくかということを,統計分析を通じ巨細に解明されている。とりわけ,輸入小麦依存政策のもと,(1)内陸工場から大型海工場への転換,(2)少数上位企業の技術革新(ニューマチック・ミル),(3)製粉資本の収益構造等にわたり構造的解明がなされている。さらに80年代後半以降の為替レートの円高の進行の中で,70年代初頭以降増産に転じた内麦が,いかにこの寡占体制の中に包摂されていくか,また,いかなる矛盾を生みだしているか分析される。従来問われなかった新たな知見を提示している。

 第3章「政府管理下の内麦需給構造の性格」では,70年代初頭以降増産政策のとられてきた内麦が当面してきた三つの基本課題,すなわち,物流の合理化,品質の向上改善,生産体制の合理化,が提起されてこざるをえなかった背景とその構図を示す。内麦の増産局面での主産地化(北海道,北関東,北九州)の性格,内麦流通の二重性(遠隔地流通と地場流通),物流の合理化(パラ化)と品種転換の経済的意義などの考察に当てられている。

 これに続く,第4章「北海道・十勝畑作地帯=大規模専業の畑麦作-士幌町と芽室町の場合」,第5章「北関東・米麦二毛作地帯=零細・兼業深化の田麦作-埼玉・熊谷市の場合」,及び補論「小麦の"良果・多収穫栽培"の実態分析-北海道・訓子府町のチホクコムギ栽培」は,それぞれ構造的に異なる内麦主産地における現地実態調査を通じて,上記内麦のもつ「三つの基本課題」にてらしつつ,その改善の方向性の解明を行なおうとしたものであり,内麦の存立基盤を問うものともなっている。この実態調査分析に当っては,特に(1)小麦の収穫と乾燥作業にかかわるカントリー・エレベータと大型コンバインの利用運営体制,その技術的側面と経済的側面の考察,(2)品質問題と効率性,(3)零細分散錯圃制と大規模技術適用における矛盾とそれを克服する生産組織化,などの諸点の解明が行われている。この実態調査分析は,内麦の今後の展望を示すうえで欠かせない論点を捐示していると言えよう。

 第6章「総括と展望-内麦経済復興の基礎的条件をめぐって」は,これまでの1〜5章にわたる分析の総括を行うとともに内麦の今後の展望を行うに当り,その問題点と政策的課題を提示する。

 以上,要するに,本論文は第二次大戦後の小麦をめぐる政府の管理政策,小麦をめぐる内外の政治・経済動向,製粉企業の展開構造の特質,小麦主産地の生産・流通構造などわが国小麦経済の包括的,体系的考察・分析を行ったものであり,学術上,応用上寄与するところが少なくない。

 よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位に値いするものと認めた。

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