学位論文要旨



No 211804
著者(漢字) 富田,俊郎
著者(英字)
著者(カナ) トミダ,トシロウ
標題(和) 過冷却液体中の配向秩序
標題(洋) Orientational order in supercooled liquids
報告番号 211804
報告番号 乙11804
学位授与日 1994.05.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第11804号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 竹内,伸
 東京大学 教授 井野,博満
 東京大学 助教授 前田,康二
 東京大学 講師 時弘,哲治
内容要旨

 非晶質物質の構造は、並進対称性を持つ結晶と違い秩序度が低いために、言い替えれば自由度が大きく複雑であるために、現在に於いても十分に理解されていない。この構造に対する知識の欠如は、非晶質物質の特性の原子レベルでの理解だけでなく、非晶質状態の本質、即ち液体や結晶に対比して如何なる状態にあるのかをを解明する上での最も大きな障害となっている。本研究では、分子動力学を用いた計算によって非晶質構造中に潜む配向秩序を探求することで、液体→非晶質遷移や疑弾性変形の微視的機構について調査した。

 ある原子とその回りの最隣接原子で定義されるクラスターのトポロジーやクラスター間の方位相関を調べるために、以下に示す表す形状因子変数と方位相関関数を導入した。即ち、まずi番目の原子を中心としその最隣接原子を頂点とする多角形をi番目のクラスターと定義し、そのクラスターの方位を中心原子iとその回りの最隣接原子の間の結合と外部座標系の角度(,)で規定される球面調和関数、Yla(,)、の和,qiaで表す。

 

 ここにi及びjはそれぞれ中心原子及びその最隣接原子の位置座標を表す。またクラスターの位置を中心原子の位置で表し、クラスター間の距離の関数として相関関数Jt(r)を下記のように定義する。

 

 これはクラスター間の方位相関を表すが、それに加えてそのr=0での値

 

 はクラスターのトポロジーを表す因数として用いることができる。

 さらにFig.1に示す連結した二つの正二十面体がこれらの正二十面体の中心を結ぶ直線の垂面に対して互いに鏡映対称の関係にあることに着目し、この方位関係を表す以下のような相関関数、Ktを導入した。

 

Fig.1 正二十面体型クラスターの間の二種類の単純連結

 ここでRij=R(i-j)i-jはの方向に対する垂面に対してクラスターの座標を鏡映反転するオペレーターであり、RR…RRはi番目のクラスターとj番目のクラスターが複数の単純連結によって接続されている場合、各連結に対応するRを連結の順に乗ずることを意味する。これによって、上述のような鏡映対称を含んだ方位相関があれば、正の大きな相関として観測されるはずである。

 Modified Johnson Potentialを用いた分子動力学による1000もしくは4394個の粒子からなるの単原子非晶質構造模型について、上述のクラスターの形状因子と方位相関を計算した。その結果、非晶質遷移温度(Tg)以下の温度では、各クラスターについてのiであるの分布にはFig.2に示すように二つのピークがあり、が0.3以上の小さなピークに対応するクラスターが正二十面体に近いトポロジーを持っていることがわかった。そこで、このが0.3以上の正二十面体型クラスターの間の配向の相関を計算した。正二十面体型クラスターについての(2)式のJt(r)は距離rによって符号を反転しながらrの大きなところで急速に減衰する関数となるが、一方(4)式のKt(r)はFig.3に示すように、符号の反転もなく、長距離においても大きな正の値を示す。Onsagerの減衰式、exp(-/r)/r、を用いてFig.3のKt(r)をフィットすると、その相関距離変数、、は15Åにも達する。ここでKt(r)は、互いに第一及び第二隣接となった正二十面体型クラスターが接続もしくは連結されていると定義し、これらの連結によって決まる経路に沿って鏡映反転操作を行ない求めたものである。したがって、一見無秩序にみえる非晶質の構造の中には多数の正二十面体型のトポロジーを持つクラスターが集団化、連結し、この集団の中には鏡映対称性に関連した強い配向秩序がある。また、正二十面体以外のクラスターの場合でも、隣接するクラスター間にはこの鏡映対称性に関連した配向秩序があり、この配向秩序にクラスターのトポロジーを越えた普遍性があることもわかった。

Fig.2 Tg以下の温度(700K)における非晶質模擬構造に対して計算したの分布(折れ線)とフィットにより求めた6次元のガウス分布(実線)

 次に、このような正二十面体型の対称性に関与した配向秩序の温度による変化を調査した。上述の構造モデルに対して計算した(2)式のfの温度変化には、Tg(約900K)とそれよりかなり高い1600K近傍の温度(Tg2)に異常点が認められた。この現象は、Fig.4に示すように、の値が0.3以上の正二十面体型のクラスターの数がTg2以下の温度で急速に増加し、この増加がTgで突然凍結することによっている。Tg以上の温度においても、Fig.3に示したものと同様に、正二十面体型クラスターの間には鏡映対称性に関連した強い配向秩序が存在する。つまり、高温における過冷却液体の構造の変化は、正二十面体型クラスターの集団化とそれに伴う鏡映対称性に関連した配向秩序の発達であり、非晶質遷移はこの集団化の凍結として理解される。

Fig.3 Tg以下の温度における非晶質模擬構造に対して計算したKt(r)Fig.4 正二十面体型クラスターの数、NICSの温度変化

 さらに興味深いことに、この正二十面体型クラスターの集団化と高温における過冷却液体の比熱の変化には強い関連性があることが示される。正二十面体型クラスターのエネルギーがそれ以外のトポロジーを持つクラスターよりもEbだけエネルギーが低いとする二つのエネルギーレベルからなるモデルと、これらクラスターの完全混合を仮定する。これから正二十面体型クラスターの数(NICS)の温度変化を熱力学的に導出しえるが、これと分子動力学によるTg2以上の温度でのNICSの変化を比較することで、Ebが約0.7eVと求められる。Tg2以下の温度では、鏡映対称性に関連した配向秩序の発達が起こるので、完全混合を仮定することはできない。しかし、Eb・∂NICS/∂T(Tは温度)が比熱に寄与するとして、分子動力学により求めたNICSからTgとTg2の間の温度における正二十面体型クラスター発生の比熱への寄与を見積もることができる。その結果はFig.5に示すように液体金属の比熱変化の実験値に非常に近いものとなる。

Fig.5分子動力学によって求めた正二十面体型クラスターの数の温度変化から予測される過冷却液体の比熱変化

 以上のように、過冷却液体の構造中には正二十面体型のトポロジーを持ったクラスターが多数存在し、これらクラスターの間には鏡映対称性に関連した強い配向秩序があることがわかった。さらにこの正二十面体型クラスターの集団化は非晶質遷移や高温での液体における比熱変化と強く関連している。論文中では、これに加えTg以下の温度におけるクリープ変形がやはり正二十面体に関与した六次の球面調和項で表わされる構造異方性を誘導することや、この異方性の緩和と擬弾性変形の関連についても述べている。

審査要旨

 非晶質物質の構造は、並進対称性が無くたいへん複雑であるため現在でも充分に理解されていない。構造に関する理解の欠如は、非晶質物質の物性の原子レベルでの理解、特にその結晶相あるいは液体相との対比の上でも重大である。また最近では物質の急冷過程における原子レベルでの遅いダイナミックスが中性子回折実験などで詳しく調べられ注目されている。従来、非晶質物質の静的構造は実験的には原子密度・原子2体相関関数などから理解されたが、これらの量は1次元的であって充分ではない。計算機を用いたモンテカルロ・シミュレーションにおいてはガラス化過程での正20面体対称性の長距離秩序形成が報告された。ガラス形成過程で正20面体対称性を持った環境が形成されるのは局所的エネルギー安定性から理解できる。すでに述べた報告にも関わらず、それが長距離相関を示すかどうかについては必ずしも明確ではなかった。

 著者は本論文において、有限温度で相互作用している原子集団とその急冷過程に関する分子動力学法によるシミュレーションを行い、その構造と隠された秩序を明らかにした。さらにこれらの系でクリープ変形によって引き起こされる構造異方性と擬弾性変形について議論した。本論文は英文で書かれ第1章から第5章までと全体の結論との合計6つの部分からなっている。

 第1章は序論で、ここでは非晶質研究の重要性と隠された秩序である配向秩序についてに述べ、本論文の目的と意義および論文の構成について説明している。

 第2章は、非晶質構造とそこで用いられる概念であるボロノイ分割と正20面体配向秩序、およびガラス転移について、詳しく従来の研究結果が説明されている。

 第3章では、モデル・ポテンシャルとシミュレーションの過程を説明した後、原子を囲む近距離の幾何学的環境を示す形状因子とその方位相関関数を導入し、シミュレーションの結果を解析している。ガラス化に伴い形状因子は局所的な正20面体対称性の増大を示し、正20面体形成に関与する粒子数は全体の80パーセントに及ぶ。しかしその方位相関関数は距離の関数として符号を反転しながら急速に減衰することが示された。これらの結果は従来信じられてきた正20面体相関の長距離秩序の形成とは矛盾するが、系の大きさ(粒子数)やクエンチの仕方は注意深く充分信頼できる。さらに新たな方位相関関数として隣接した正20面体の間の鏡映対称性を考慮したものを定義した。これを距離の関数としてみると、符号の反転もないゆっくりと減衰する関数となっていて、その相関距離はガラス転移点以下で15オングストロームにも達することが示された。

 第4章では正20面体配向秩序の温度依存性が詳しく述べられている。その結果、正20面体対称性クラスター形成の異常がガラス転移温度Tgの2倍近い高温Tg2ですでに現れることが示された。ガラス転移温度より高い温度でもすでに正20面体クラスターの配向相関が成長し、ガラス転移はその凍結として理解できるとされている。さらに温度Tg2とTgのクラスター相関の違いが詳しく述べられている。高温側の正20面体の分布に対する簡単なモデルを提案し、クラスター数の温度依存性から正20面体クラスター形成エネルギーを見積っている。それらから結論づけられる比熱の温度依存性と現実の物質に関する実験結果との良い一致が示され、正20面体クラスターの凍結がガラス転移であると述べられている。

 第5章は非晶質金属のクリープ変形のシミュレーションを分子動力学で取り扱っている。その結果、クリープ変形によって生じる異方性の起源が、正20面体クラスターの変形にあることを示し、さらにこの異方性の緩和と擬弾性変形の関連について議論している。

 以上、本論文では相互作用する原子系の過冷却状態を分子動力学法によって取り扱い、その原子レベル構造の温度依存性、変形を系統的に明らかにした。その結果、従来云われてきた正20面体対称性クラスターの配向長距離秩序形成を否定し、有限相関長を持った中距離秩序形成を明らかにし、その性質を明確にした。これは今後の非晶質系の研究に多くの新しい視点と方法を与えるものでありその意義は大きく、物理工学の分野に貢献する事大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

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