学位論文要旨



No 211806
著者(漢字) 前田,太郎
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,タロウ
標題(和) 空間位置知覚のための感覚統合過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 211806
報告番号 乙11806
学位授与日 1994.05.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第11806号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 舘,すすむ
 東京大学 教授 北森,俊行
 東京大学 教授 鈴木,良次
 東京大学 教授 森下,巌
 東京大学 教授 藤村,貞夫
 東京大学 助教授 中野,馨
内容要旨

 従来,脳の機能解明の研究としては行動や知覚として現れる現象や脳障害の臨床例をもとにしたトップダウン的なアプローチを行う医学及び心理学の研究と,信号処理要素としての神経回路の反応や結合を調べるボトムアップ的なアプローチを行う生理学及び解剖学の研究がその中心をなしてきた.これらの研究は,どうしても前者は現象単位,機能単位といったマクロレベルの議論が中心になるのに対し,後者は神経において特定の情報を担う信号の形態や神経活動の時空間パターンといったミクロレベルの議論が中心となり,得られたこれらの知見を統一的に扱うことが極めて困難である.神経回路網の数理モデルによって生体の機能モデルを構築する研究ではこうした異なるレベルの知見の隔たりを埋めるような情報処理のモデルを仮定し,計算機シミュレーションによってその振る舞いを検証することによって,これらの知見を統一的に説明できるモデルを求める.こうした研究はそうして得られたモデルの数理的な特徴から脳の情報処理機能を構成的に解明しようとする試みであり,本論文もこの立場に立つ研究の一つである.

 本論文では脳の情報処理機構の機能解明の手がかりとして,空間位置知覚における知覚空間と物理空間のずれに着目して信号処理のモデルを構築する.こうした空間位置の知覚過程には適応的な可塑性があり,反転眼鏡等の極端な対応関係の変化にも適応が可能であるにもかかわらず,知覚空間と物理空間の間には万人に共通な普遍的な傾向を持った定常的なずれが存在する.このことから,これらの対応関係を学習する信号処理過程において,その学習能力に先天的な制約が働いているものと考えられる.そこで,本論文では脳内の信号表現形態と誤差情報の伝播に関して生理学的知見から見て自然ないくつかの先天的な制約を神経回路において仮定して神経回路網モデルを分類し,計算機シミュレーションを行うことによって,心理物理的な計測結果を説明するのに最適なモデルを同定した.

 こうして得られたモデルにおける情報処理上の制約を数理的な観点から一般化することによって,スカラ学習則を提案した.これは「単一のスカラ出力から得られた誤差情報はそのスカラ信号を出力した神経細胞の入力荷重のみを変化させ他に伝播することはない」という制約を与えるもので,これによって神経回路の学習機構として出力誤差として得られたスカラ量を教師信号とし,それによって結合荷重を変化させる結合層を1層だけ持つ構造を想定したことになる.さらにこの学習則を用いて,先に得られた神経回路網モデルを一般化した学習モデルとして数理的解析が容易なスカラ加算モデルを提案した.このモデルとともに本論文で重要な役割を果したのが測定における水準の考え方である.学習すべき情報の持つ尺度に合わせて規範関数の尺度を決定することによって,規範関数の尺度ごとにモデルを分類し,これによって,学習の結果,学習機能上の制約を持つスカラ加算モデルの学習の限界によって現れた誤差が,人間の傾向と一致することだけにとどまらず,情報処理において何を意味しているのかを規定することができた.

 本論文ではこのモデルを他の心理物理現象にも適用し,その妥当性を検証した.この際に用いた現象としては,ホロプタと同様の視空間上のずれの現象として平行アレイと距離アレイ及び主観的等距離面について,また,手先位置感覚においては,ホロプタやアレイに相当する主観的平行面のずれの現象,さらに,これらの異種感覚間の位置感覚を統合する際のずれについても視覚性到達運動において開ループ指示動作を行った場合のずれ用いて取り上げた.これらのいずれの現象においてもスカラ加算モデルによるシミュレーション実験の結果はヒトの空間知覚におけるずれの傾向に良く一致し,各現象の発生の機序を説明することができた.また,これらの現象にモデルを適用する際に得られた知見から,スカラ加算モデルによるシミュレーション実験をもとにこれまで語られることのなかった心理物理現象の存在を予測し,心理物理実験によってその存在を確認した.すなわち,視覚による空間知覚においては,アレイにおける平行と等距離の違いから,従来のホロプタが平行ホロプタと呼ぶべきものであること,これとは異なる曲線を描く距離ホロプタが存在することを予測し,心理物理実験によって,距離ホロプタの存在と2種のホロプタ相互の位置関係が確認された.また,同様に,上肢固有受容感覚に基づく主観的前額平行面の空間的な形状について予測し,心理物理実験によって,その形状が確認された.さらに,異種感覚間統合においては,視覚性到達運動と主観的には同じ知覚過程と見なされている上肢先端の固有受容感覚に基づく注視点定位動作において視覚性到達運動において見られるずれの傾向からは説明できないずれが生じることを予測し,心理物理実験によってこれを確認した.さらに,これらの現象を解析していく過程において学習による知覚の獲得過程についてさらに詳細な知見が得られている.まず,平行アレイと距離アレイの現象における考察からは,この現象的な平行と等距離の概念の違いは,これらの知覚を獲得する際に用いる感覚的手がかりの測定水準の違いであり,平行の知覚は順位尺度,距離の知覚は間隔尺度を満たす手がかりによって学習された結果であることが判明した.また,視空間幾何学としてホロプタやアレイの現象を記述するのに用いられてきたLuneburgのモデルにおいて,実験結果の個人差を表すために用いられてきた個人定数は,ホロプタやアレイを後天的学習によって獲得する際に手がかりとした学習点の分布を反映していることがわかった.

 さらに,視覚性到達運動と固有受容感覚性注視点定位動作におけるずれ現象の考察から,両眼注視による位置知覚と固有受容感覚による上肢先端位置の位置知覚という異種感覚間の空間位置知覚情報の統合過程においてもいくつかの知見が得られた.まず,これらの心理物理実験の結果,主観的には同じ判断を要求されるこれらの課題において,その感覚統合による結果をどの運動に反映するかによって異なる感覚尺度に基づく異なった信号処理機構によって処理されていることが明らかになった.さらに,これら2つの実験課題に対応するモデルの構造と測定の水準から,人間の感覚運動制御系においては,異種感覚からの情報を統合する処理系はそれらの情報をもとに制御する部位ごとに独立に存在し,制御すべき部位の運動指令により直結した信号空間内で統合することによって情報処理を最小手順で構成するように合理化及び高速化された運動制御系の構造をもつこと,この際の位置情報の変換については間隔尺度の水準まで満たした規範関数で学習を行っていると見なせることが分かった.これは,こうした感覚運動制御においてはフィードバック要素よりもフィードフォワード要素が支配的に働いているとする説を支持する結論となり,これは従来の随意運動における研究の知見に符合するものである.本論文の最後では空間位置知覚過程において共通に見られる学習と信号処理の特徴をもとに,一般的な生体の学習のメカニズムの特徴について考察し,これから脳の高次機能に関わる学習能力の限界について予測した.また,これにともなって今後の脳機能解明研究において生理学,心理学の分野において有効なものになると考えられる課題を提案した.

 本論文におけるスカラ加算モデルのような生理学的知見による制約を持った信号処理モデルによって,その制約故に脳の情報処理機能を,数理的な情報処理機能としてだけではなく生物の特性としての特徴から解明しようとするアプローチはその萌芽は古くから提案されていながら,本格的な研究の進んでいない,恐らくは,まだ新しいともいえる研究方向であるといえる.今回用いたような古くから知られているような心理現象からでさえ,多くの知見を得ることができる点からも,将来性に満ちたアプローチであるといえよう.こうした生理学的知見から心理学的現象までを統一的に記述できる工学モデルの存在は,生理学,心理学において今後の研究のシステマティックな方向性を示唆するばかりでなく,バーチャルリアリティなどマンマシンインターフェイスに関する研究において感覚提示の基礎理論としても応用の余地のあるモデルであり,これらの分野の発展に貢献するところがきわめて大きいと考えられる.

審査要旨

 本論文は「空間位置知覚のための感覚統合過程に関する研究」と題し、6章からなる。ヘルムホルツのホロプタ現象に代表されるように人間の空間位置知覚において、対象物の実際の状態を表わす物理空間と人間が対象物を知覚した知覚空間との間に不一致が生じる現象は多く知られていたが、従来は心理現象として記述されるにとどまっており、生体の神経系にまで遡り、その発生の機序が論ぜられることはなかった。

 本研究は、従来心理現象としてしか記述がなされてこなかった空間位置知覚における物理空間と知覚空間の不一致の現象を、生体の学習系に課せられた先天的な制約を考慮し工学的にモデル化することにより解明し、神経系まで遡ってその機序を論じ、提案したモデルに基づき幾つかの予測を行いそれを実験的に検証するという方法を用いて、モデルの妥当性を実証するとともに、広く空間位置知覚の感覚統合過程に適用して、本モデルの普遍性を示したものである。

 第1章は緒論で人間の空間知覚に関する従来の研究を掲げ、本研究の基本的考え方を説明し、その目的と立場と意義を明らかにしている。

 第2章は「空間知覚過程のモデル化」と題し、生体において空間知覚過程がどのように構成されるのかについて考察し、空間知覚過程を神経回路モデルを用いて記述するための基本的な水準と尺度を設定している。

 第3章は「ホロプタを生じる空間知覚モデル」と題し、視空間における前額平行面の知覚を学習によって獲得する知覚過程のモデルを神経回路モデルを用いて提案するとともに、そのモデルにおいて、生理学的知見から生じる様々な制約を反映させて、計算機シミュレーションを行い、人間の知覚系においてヘルムホルツのホロプタが発生するプロセスの機序を解明している。さらに、この過程で得られた知見から、人間の知覚過程の学習系において脳の神経回路における先天的な要素として予想される信号処理上の制約を一般化した学習則としてのスカラ学習則を提案し、これを用いた知覚系の学習過程の一般化モデルとしてのスカラ加算モデルを提案している。

 第4章は「空間知覚に関する心理物理現象のモデル」と題し、第3章で提案されたスカラ加算モデルを用いて、各種の空間位置知覚におけるずれの現象を説明することを試みた結果を述べたものである。まず、最初にホロプタと同様に視空間知覚におけるずれの現象として知られる平行アレイと距離アレイの知覚過程をモデル化し、本モデルを用いることにより現象が明快に説明できることを示している。また、同モデルの学習プロセスからの知見に基づき、平行と等距離の概念の違いによって生じる主観的位置関係の食い違いについてその発生の機序を解明している。すなわち、平行と等距離の概念の違いは、これらの知覚を獲得する際に用いる感覚的手がかりの測定水準の違いであり、平行の知覚は順位尺度、距離の知覚は間隔尺度を満たす手がかりによって学習された結果であるとしている。

 次に、従来ホロプタ及びアレイの現象の記述に用いられてきた視空間幾何学を、スカラ加算モデルを用いて数理的に解析し直し、従来ホロプタの形状の個人差を記述してきた個人定数が、視空間知覚獲得のプロセスにおいて持つ意味について明らかにしている。また、従来の視空間幾何学において実験事実との相違が問題点となっていた等距離面の問題をスカラ加算モデルによって説明している。さらに、アレイの議論から得られた平行と等距離の概念から予想される等距離ホロプタの存在を予測し、被験者を用いた心理物理実験によって検証している。この章の最後では、ここまでに述べてきた視空間上のずれと同様の現象が、上肢先端位置の知覚による触空間知覚においても生じることを、スカラ加算モデルによる計算機シミュレーションによって予測し、その形状について被験者を用いた心理物理実験を用いて検証している。

 第5章は「異種感覚における位置感覚統合過程」と題し、第4章までに述べてきた注視による視空間知覚と、上肢先端位置による触空間知覚に関する考察を通じて、異種感覚による位置知覚を統合した統一的な空間位置知覚の獲得過程について考察している。まず最初に統一的な空間位置知覚を獲得するための知覚過程のモデルを神経回路モデルを用いて記述するために必要となる基本的水準と尺度について設定し、次にこの観点から、視覚性到達運動における従来の研究の問題点を整理して実験計画を立て、被験者による心理物理実験を行っている。実験から得られた注視による位置知覚と上肢先端の位置知覚のずれについてスカラ加算モデルを用いたシミュレーション実験を行ない、その現象の機序を解明している。

 さらに、視覚性到達運動において得られた知見から、主観的にこれと等価な感覚統合を要求される課題として考えられる固有受容感覚性の注視動作を取り上げ、同課題において予想される空間的なずれを、スカラ加算モデルによる計算機シミュレーションによって予測し、その形状について被験者を用いた心理物理実験を用いて検証している。

 第6章は本論文全体の結論である。第5章までに得られた知見から、生体の感覚統合過程における信号処理の一般仮説と見なせる知見について整理し、その生体情報処理における意味と、そのことから示唆される生体の情報処理機能の特徴について考察している。

 以上これを要するに、本論文は、人間の空間位置知覚過程についての機能的モデル論の立場から神経回路網モデルを用いたシミュレーションによって心理物理的現象として計測される知覚位置の不一致の現象を説明し、それを一般化したスカラ加算モデルを提案し、その妥当性と普遍性とを予測と検証実験とにより示したものであって、計測工学と生体工学に貢献するところが甚だ大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50887