学位論文要旨



No 211833
著者(漢字) 山田,啓文
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,ヒロフミ
標題(和) 原子間力顕微鏡の開発及び同装置による有機分子観察に関する研究
標題(洋)
報告番号 211833
報告番号 乙11833
学位授与日 1994.06.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第11833号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河津,璋
 東京大学 教授 菊田,惺志
 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 合志,陽一
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 田中,肇
内容要旨

 STMを用いた有機分子試料の高分解能観察例が近年報告されているが、電気伝導がない一般の有機分子試料の場合、STMには、試料がトンネル電流観察が可能な大きさ以下の分子系に限られること、導伝性基板が必要なことなどの制約があり、こうした制約のない原子間力顕微鏡(AFM)に対して期待が持たれている。しかしながらAFMにおいてはその探針は試料表面に接触しているため、有機分子試料に対しては必ずしも高い分解能の観察は容易でない。

 本研究では、接触モードのAFMを用いて有機分子を観察することを目的として、まずAFMに必要な要素技術を明らかにするとともに、探針-試料間の相互作用について考察し、原子・分子分解できる像を得るための観察条件を探り、有機分子の高分解能観察を試みた。有機分子系はそのサイズがかなり小さいものから大きいものまであり、分解能の検証に適している。また分子構造は一般的に閉殻構造であり、安定で不活性なものが多く、AFM探針が接触しても比較的安定であることが予想される。さらにグラファイト上の液晶分子及び直鎖脂肪酸分子などの有機分子薄膜はSTMによってその構造が比較的よく理解されており、STM像とAFM像の比較が行える。

 開発した装置は光学顕微鏡と組み合わされ、対物レンズは試料上10mmまで接近可能で、比較的開口数の大きい対物レンズの使用が可能となっている。これにより試料への5mまでの位置合わせが可能になった。また液体下で動作可能ように設計された。カンチレバーの変位の検出方式は光てこ法で、最小検出感度はDC〜5kHzの帯域で、0.01nm rmsであった。

 大気中におけるAFM測定においては、探針表面/試料表面上の水の吸着層に起因する毛管凝縮力が大きく、10-8N以上に達する。一方、ファンデルワールス力も大きな背景力となり、典型的な値としては10-8〜10-9Nになる。これらの力は、探針最先端の原子の斥力をスクリーニングしてしまい、AFMのイメージングの障害となることが明らかになった。

 これに対して水中下での動作では、界面がないことから毛管凝縮力の影響を排除すること可能であり、またファンデルワールス力も1/5〜1/10程度に下がることが分かった。どちらの力もその大きさは探針半径Rに比例するため、探計の先鋭化が必要である。

 次に有機分子観察を目標として高分解能動作の条件を考察した。現状では接触動作によってしか高分解能観察は実現していない。接触動作では所望の信号は探針最先端の感じる力であるが、上述したようにこの僅かな斥力信号は大きな長距離力によってスクリーンされている。したがって探針は強い接触状態にありながらも全体としては引力となっている。したがってAFM動作は接触後の引力領域で行わなければならない。実際の観察として、有機分子薄膜、ポリジアセチレン結晶、蛋白質分子についてAFM観察を行った。ベヘン酸分子、液晶分子、ポリジアセチレン結晶についてはそれぞれ構成分子をほぼ解像できた。特に液晶分子系ではSTMと対比できる程度の高分解能の像を取ることに成功した(図1参照)。STM像との比較によりAFMではより分子の形を反映することが分かった。蛋白質分子に関しては個々の蛋白質分子は解像できたものの、サブユニット構造は分離できなかった。蛋白質のような分子では容易にそのコンフォメーションが変化するためと考えられる。

図1 8CB液晶分子のAFM像
審査要旨

 有機分子材料の分子レベルでの表面構造・配向制御を行う上で、その微視的評価技術の確立は不可欠のものとなりつつある。本論文は、原子間力顕微鏡(AFM)により有機分子を直接観察することを目的として、まずAFMに必要な要素技術を明らかにするとともに、探針-試料間の相互作用について考察し、分子分解できる像を得るための観察条件及び実験結果について述べたものである。本論文は全部で5章から構成されている。

 第1章は、序論である。AFMが登場した背景を説明するとともに、本研究の必要性と目的について述べている。

 第2章は、AFMの動作原理と開発された装置について述べている。著者はまず走査型プローブ顕微鏡及びSTMの原理に触れ、これらの装置と対比しながらAFMの動作原理を説明している。さらにAFMの性能を決める要素技術として、探針・カンチレバー及びカンチレバーの変位測定系について述べ、その性能限界を明らかにした。次に開発されたAFM装置についての構成とその性能について詳しく述べている。液体下で動作可能な装置は、開口数の大きな対物レンズをもつ光学顕微鏡と組み合わされ、試料の位置合わせが容易であることを特徴としている。カンチレバーの変位の検出方式は光てこ法を採用しており、その最小変位検出感度は、DC〜5kHzの動作周波数帯域で0.01nm rmsであることが示された。さらに著者は新しい試みとして、動作雰囲気や微動走査系の動特性を制限する複雑な変位測定系を避けるため、半導体ピエゾ抵抗を利用した微小変位センサー内蔵のモノリシックカンチレバーを開発・試作し、その基本性能を明らかにしている。

 第3章は、探針-試料間にはたらく力について考察し、AFM観察の測定条件を決める上で重要な情報となるForce-distance曲線について述べている。まず大気中におけるAFM測定においては、探針表面/試料表向上の水の吸着層に起因する毛管凝縮力が大きく、その値は10-8N以上に達すること、またファンデルワールス力も大きな背景力となり、典型的な値として10-8〜10-9Nになることが示されている。これらの力は、探針最先端の原子の斥力をスクリーニングしてしまい、AFM観察の障害となることが明らかにされた。一方、水中下での動作では、界面がないことから毛管凝縮力の影響を排除することが可能であり、またファンデルワールス力も1/5〜1/10程度に低減できることが示された。次に接触動作のAFMにより有機分子の直接観察を行うための高分解能動作の条件を考察している。接触動作では検出すべき信号は探針先端の感じる力であるが、この僅かな斥力は大きな長距離力によってスクリーンされており、探針は強い接触状態にありながらも全体としては引力となっていることが示され、結果としてAFM動作は接触しながらも引力領域で行わなければならないことが明らかにされた。

 第4章は、実際の観察結果として、有機分子薄膜、ポリジアセチレン結晶及び蛋白質分子の各々の試料について、試料準備法、観察条件、観察結果とその考察が述べられている。有機分子薄膜試料としては単結晶グラファイト上にLB法により堆積されたベヘン酸分子(CH3(CH2)20COOH)及び同じくグラファイト基板上に蒸着された液晶分子(4’-n-octyl-4-cyanobiphenyl)が使用された。ベヘン酸分子はグラファイト基板にエピタキシャル的に水平配向し、分子長とほぼ同じ長さである3nmの1分子列構造とその2倍の2分子列構造をとることが明らかにされた。液晶分子においても基板に水平配向する構造が観察されることを報告している。液晶分子では、STMでの観察結果と比較すると、アルキル鎖部分がシアノビフェニル部分に比べてトポグラフィーとして高くなっており、STMとは異なるコントラストを示すことが指摘された。このコントラストの違いは、ファンデルワールス半径を用いた空間充填モデルを考慮すると、アルキル鎖部分が芳香環に比べ25pm高くなることと整合することが示唆された。

 ポリジアセチレン結晶試料としては、X線構造解析によりそのバルク結晶構造がよく知られているpoly-PTSのへき開面(bc面)及びpoly-DFMPのへき開面(ab面)を取り上げている。poly-PTSのbc面のAFM像では、bc面最表面に突き出るtoluene-sulfonate側鎖の一部が作る周期的なジグザグ構造が観察され、バルク結晶構造から予想されるbc面構造によく一致していることが示された。また観察されたユニットセルの大きさも0.55nm×1.48nmで、バルク結晶パラメータの0.491nm×1.494nmにほぼ一致することもまた示された。poly-DFMPでは側鎖のtrifluoromethyl部分と芳香環の側面が露出する。観察された周期構造から得られるユニットセルの大きさは0.47nm×0.79nmで、バルクの結晶パラメータの0.489nm×0.740nmにこの場合もほぼ一致している。さらにpoly-DFMPの観察では、b軸方向の基本周期が3倍の長周期構造がしばしば観察されることを報告している。この構造は、ab面上の主鎖が3列おきに失われる構造に対応していることが示された。

 蛋白質分子では、光合成細菌Rhodopseudomonas viridisの内膜の光合成の機能を担うクロマトホワ膜を観察している。クロマトホワ膜は光反応中心蛋白質とアンテナクロロフィル複合体から成る光合成反応ユニット(PRU)及び脂質分子から構成される。試料は分離されたクロマトホワ膜をLB法によってガラス基板上に堆積して作られる。観察されたAFM像から得られるPRUの平均間隔は約12nmで、X線構造解析から得られた間隔と整合ある結果が示された。またPRUが比較的規則的に並ぶ領域と不規則に充填される領域の2つがあることもまた示された。さらに著者は材料の組成の差を検出することを目的として、表面の微視的な粘弾性的性質を検出できる表面力変調法によるイメージングを試みている。得られた変調観察像には、ガラス基板部分と蛋白質分子薄膜間に大きなコントラストの差が見られ、組成の違いを検出できることが示された。

 第5章は、本研究で得られた結論及び今後の課題と展望について述べている。

 以上要するに著者は、有機分子観察のための原子間力顕微鏡を開発し、その観察条件を考察するとともに、有機分子の直接観察に成功した。この成果は有機分子材料の配向制御技術に極めて大きな影響を与えるものであり、今後の機能性分子素子の発展に貢献をなすものである。よって博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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