有機分子材料の分子レベルでの表面構造・配向制御を行う上で、その微視的評価技術の確立は不可欠のものとなりつつある。本論文は、原子間力顕微鏡(AFM)により有機分子を直接観察することを目的として、まずAFMに必要な要素技術を明らかにするとともに、探針-試料間の相互作用について考察し、分子分解できる像を得るための観察条件及び実験結果について述べたものである。本論文は全部で5章から構成されている。 第1章は、序論である。AFMが登場した背景を説明するとともに、本研究の必要性と目的について述べている。 第2章は、AFMの動作原理と開発された装置について述べている。著者はまず走査型プローブ顕微鏡及びSTMの原理に触れ、これらの装置と対比しながらAFMの動作原理を説明している。さらにAFMの性能を決める要素技術として、探針・カンチレバー及びカンチレバーの変位測定系について述べ、その性能限界を明らかにした。次に開発されたAFM装置についての構成とその性能について詳しく述べている。液体下で動作可能な装置は、開口数の大きな対物レンズをもつ光学顕微鏡と組み合わされ、試料の位置合わせが容易であることを特徴としている。カンチレバーの変位の検出方式は光てこ法を採用しており、その最小変位検出感度は、DC〜5kHzの動作周波数帯域で0.01nm rmsであることが示された。さらに著者は新しい試みとして、動作雰囲気や微動走査系の動特性を制限する複雑な変位測定系を避けるため、半導体ピエゾ抵抗を利用した微小変位センサー内蔵のモノリシックカンチレバーを開発・試作し、その基本性能を明らかにしている。 第3章は、探針-試料間にはたらく力について考察し、AFM観察の測定条件を決める上で重要な情報となるForce-distance曲線について述べている。まず大気中におけるAFM測定においては、探針表面/試料表向上の水の吸着層に起因する毛管凝縮力が大きく、その値は10-8N以上に達すること、またファンデルワールス力も大きな背景力となり、典型的な値として10-8〜10-9Nになることが示されている。これらの力は、探針最先端の原子の斥力をスクリーニングしてしまい、AFM観察の障害となることが明らかにされた。一方、水中下での動作では、界面がないことから毛管凝縮力の影響を排除することが可能であり、またファンデルワールス力も1/5〜1/10程度に低減できることが示された。次に接触動作のAFMにより有機分子の直接観察を行うための高分解能動作の条件を考察している。接触動作では検出すべき信号は探針先端の感じる力であるが、この僅かな斥力は大きな長距離力によってスクリーンされており、探針は強い接触状態にありながらも全体としては引力となっていることが示され、結果としてAFM動作は接触しながらも引力領域で行わなければならないことが明らかにされた。 第4章は、実際の観察結果として、有機分子薄膜、ポリジアセチレン結晶及び蛋白質分子の各々の試料について、試料準備法、観察条件、観察結果とその考察が述べられている。有機分子薄膜試料としては単結晶グラファイト上にLB法により堆積されたベヘン酸分子(CH3(CH2)20COOH)及び同じくグラファイト基板上に蒸着された液晶分子(4’-n-octyl-4-cyanobiphenyl)が使用された。ベヘン酸分子はグラファイト基板にエピタキシャル的に水平配向し、分子長とほぼ同じ長さである3nmの1分子列構造とその2倍の2分子列構造をとることが明らかにされた。液晶分子においても基板に水平配向する構造が観察されることを報告している。液晶分子では、STMでの観察結果と比較すると、アルキル鎖部分がシアノビフェニル部分に比べてトポグラフィーとして高くなっており、STMとは異なるコントラストを示すことが指摘された。このコントラストの違いは、ファンデルワールス半径を用いた空間充填モデルを考慮すると、アルキル鎖部分が芳香環に比べ25pm高くなることと整合することが示唆された。 ポリジアセチレン結晶試料としては、X線構造解析によりそのバルク結晶構造がよく知られているpoly-PTSのへき開面(bc面)及びpoly-DFMPのへき開面(ab面)を取り上げている。poly-PTSのbc面のAFM像では、bc面最表面に突き出るtoluene-sulfonate側鎖の一部が作る周期的なジグザグ構造が観察され、バルク結晶構造から予想されるbc面構造によく一致していることが示された。また観察されたユニットセルの大きさも0.55nm×1.48nmで、バルク結晶パラメータの0.491nm×1.494nmにほぼ一致することもまた示された。poly-DFMPでは側鎖のtrifluoromethyl部分と芳香環の側面が露出する。観察された周期構造から得られるユニットセルの大きさは0.47nm×0.79nmで、バルクの結晶パラメータの0.489nm×0.740nmにこの場合もほぼ一致している。さらにpoly-DFMPの観察では、b軸方向の基本周期が3倍の長周期構造がしばしば観察されることを報告している。この構造は、ab面上の主鎖が3列おきに失われる構造に対応していることが示された。 蛋白質分子では、光合成細菌Rhodopseudomonas viridisの内膜の光合成の機能を担うクロマトホワ膜を観察している。クロマトホワ膜は光反応中心蛋白質とアンテナクロロフィル複合体から成る光合成反応ユニット(PRU)及び脂質分子から構成される。試料は分離されたクロマトホワ膜をLB法によってガラス基板上に堆積して作られる。観察されたAFM像から得られるPRUの平均間隔は約12nmで、X線構造解析から得られた間隔と整合ある結果が示された。またPRUが比較的規則的に並ぶ領域と不規則に充填される領域の2つがあることもまた示された。さらに著者は材料の組成の差を検出することを目的として、表面の微視的な粘弾性的性質を検出できる表面力変調法によるイメージングを試みている。得られた変調観察像には、ガラス基板部分と蛋白質分子薄膜間に大きなコントラストの差が見られ、組成の違いを検出できることが示された。 第5章は、本研究で得られた結論及び今後の課題と展望について述べている。 以上要するに著者は、有機分子観察のための原子間力顕微鏡を開発し、その観察条件を考察するとともに、有機分子の直接観察に成功した。この成果は有機分子材料の配向制御技術に極めて大きな影響を与えるものであり、今後の機能性分子素子の発展に貢献をなすものである。よって博士(工学)の学位論文として合格と認める。 |