学位論文要旨



No 211837
著者(漢字) 功刀,浩
著者(英字)
著者(カナ) クヌギ,ヒロシ
標題(和) 人事異動を誘因として発症したうつ病 : 臨床特性、回復状況と治療について
標題(洋)
報告番号 211837
報告番号 乙11837
学位授与日 1994.06.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第11837号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 末松,弘行
 東京大学 教授 荒記,俊一
 東京大学 助教授 関根,義夫
 東京大学 助教授 中安,信夫
内容要旨

 人事異動(以下異動)がうつ病を発症した者の中で頻度の高い誘因であることは広く知られている。しかし、従来の状況論研究やライフ・イベント研究は、誘因別にうつ病患者の個人的背景の特徴や臨床特性を調査したものは少なく、さらに発病に至る状況に焦点を置いた研究は多いが、治療経過や回復状況を調べ治療学的示唆を求めたものは少なく、今後の課題とされている。産業構造の変化に伴って異動は増加しており、異動を誘因として発症したうつ病について探ることは産業精神保健の観点からも重要な課題である。

 本研究の目的の第一は、高頻度に見られる異動を誘因とした患者を、個人的背景、病型などの点において他の誘因によって発症したうつ病と比較し、ある程度まとまりのある特性をもっているか否かを調査することであり、もし比較的均一な特性があるとすればそれはどのようなものであるか、という問いに答えることである。第二に、治療経過について調査する。また、発病状況において異動が誘因となったとすれば、その後の職場状況の変化が回復に影響するか否か、回復状況においてどのような職場状況の変化が生じているかを調査し、治療学的な示唆を得ることである。

I.研究方法

 昭和63年1月から12月までの1年間に帝京大学医学部付属病院精神科外来を初診した患者のうち、初診時に「うつ状態」、「うつ病」、「躁うつ病」などの臨床診断を受け、気分障害の疑いがある316例の全診療録を調査し、笠原・木村による病型分類を行い、さらにfalse positiveな患者が対象に含まれないようにすることを目的として精神医学研究用診断基準(Research Diagnostic Criteria、以下RDC)による診断を行った。これにより、(1)初診時の年齢が18歳以上65歳未満の者で、(2)笠原・木村分類によってI型(性格反応型)またはIII型(葛藤反応型)に分類され、(3)RDCのうつ病の診断基準を満たす非双極性の患者のうち、(4)うつ病相の誘因が明らかな症例を対象とした。

 異動がうつ病相の誘因となった症例とそれ以外の症例との比較を行うために、対象について、教育歴、職業、配偶者の有無、及び初診時の病相における自殺企図(自殺未遂または自殺既遂)の有無について調査した。

 さらに異動がうつ病相の誘因となった症例は、職場状況との関連に注目して経過、回復状況について調べた。

 誘因となった出来事については、「仕事上の問題」かそれ以外かにまず分類し、その中で、配置転換、昇進、転勤、出向を「異動」に含め、仕事量の増加、上司や同僚との関係悪化、失業などは「他の仕事上の問題」とした。「仕事上の問題」以外の誘因は、「仕事以外の誘因」として分類した。

II.調査結果

 初診時に気分障害の疑いがある316例のうち、対象の選択基準の(1)〜(4)を満たした患者は130例(男58例、女72例)であり、平均年齢は41.0歳(男41.8±11.5、女40.4±15.5)であった。笠原・木村分類と、各誘因によって分類された患者数を表1に示す。

(1)個人的背景

 (1)頻度と男女差:表1に示されるように、誘因が明らかな単極性うつ病の男性患者では、64%が「仕事上の問題」を誘因として発症しており、29%が異動を誘因としていた。一方女性では、「仕事上の問題」は19%で、異動は1例のみであり、異動によって発症したうつ病は男性に圧倒的に多かった。

 従って、以下の結果は男性例だけを問題とする。

 (2)年齢分布:男性患者の年齢について比較すると、異動が誘因となった患者は、43.2±8.1歳であり、それ以外の患者全体は41.2±12.6歳で、前者は比較的に近い年代に集まっていた(F=2.44,df=40.16,P<0.05)。

 (3)教育歴:教育歴を高校卒業までと短大卒業以上とに分けて比較すると、「仕事上の問題」で発症した患者は、「仕事以外の誘因」で発症した患者と比較して有意に教育歴が高かった(2=4.15,P<0.05)。

 (4)配偶者の有無:「仕事上の問題」で発症した患者の配偶者を持つ率は89%で、「仕事以外の誘因」では62%であり、前者が有意に高かった(P<0.02,Fisherの直接確率)。

(2)病型(I型とIII型)の比較

 笠原・木村分類でI型に分類される群は、病前性格が執着気質またはメランコリー型で、高い社会的機能を持つ者が多いとされる。一方III型は未熟な病前性格を持っており、持続的対人葛藤の状況の中で発病する。従って両者を誘因となる出来事の種類で比較すると、その頻度は異なっている可能性がある。男性58例の中でI型とIII型とを比較すると(表1)、「仕事上の問題」で発症した患者と「仕事以外の誘因」で発症した患者との間に有意差は見出せなかったが、「仕事上の問題」で発症した患者の中では、異動によって発症した患者は全てI型に分類されており、「他の仕事上の問題」で発症した患者と比較して有意にI型が多かった(p<0.05,Fisherの直接確率)。

表1 誘因が明らかな130例の笠原・木村分類と誘因となった出来事( )内%
(3)自殺企図と入院治療の頻度

 全体の自殺企図率が14%であるのに対し、異動が誘因となった患者の自殺企図率は29%と高く、自殺企図者は全例が「仕事上の問題」が誘因となっており、「仕事以外の誘因」で発症した者と比較して有意に自殺企図率が高かった(p<0.025,Fisherの直接確率)。異動が誘因となった症例を「望ましい出来事」と考えられる昇進を伴った異動によって発症した群(5例)とそうでない者との群(12例)とに分けて自殺企図率を比較してみたが、有意差は見出されなかった。自殺企図の手段は、異動が誘因となった症例5例のうち、縊首によるものが3例であるなど既遂率の高い手段が多く、1例は治療経過中に死亡していた。

 入院治療を要した症例の頻度は、異動が誘因となった患者では35%であり、全体の21%と比較して高い数字であったが、有意差を認めなかった。

(4)経過と回復状況

 異動が誘因となった患者17例のうち、5例は中途で他の病院に転院するなどにより、経過に関する情報が不十分であった。それらを除いた12例の平成3年12月までの3〜4年間の経過と回復状況との概要を呈示した。

 呈示した12例の経過では慢性化例が多く見られた。当院での治療開始後1年以内に完全寛解に至った症例は僅か2例で、5例が1〜2年、3例は2年以上の治療を要していた。残る2例のうち、1例は自殺既遂で死亡し、1例は治療開始7ヶ月で不完全寛解のまま治療を終了していた。さらに、症状の変動を見ると、身体的治療すなわち抗うっ薬と休養により、ある程度の症状の軽減が得られ職場に復帰するものの、完全寛解に至らずにうつ病相が持続する症例が多かった。

 回復状況では、完全寛解に至る時点の少し前に再異動になった例が多かった。12例のうち、完全寛解に至った症例は9例であったが、そのような症例は5例存在し、そのうち4例は以前勤務していた職場への再異動であった。さらに1例は再異動ではないが、再就職によって完全寛解に至っていた。すなわち完全寛解に至った症例9例のうち6例は寛解に至る前に再異動または再就職がなされていた。

 異動が誘因となった症例を「望ましい出来事」と考えられる昇進を伴った異動によって発症した群(5例)とそうでない者との群(6例)とに分けて、完全寛解までに要した治療期間と自殺既遂の有無によって予後を比較してみたが、有意差はなかった。回復状況に関しても両群で明瞭な差は見出されなかった。

III.考察

 まず本研究が回顧的方法による調査であることなどによる方法論的問題点について述べた。次に異動を誘因として発症したうつ病の頻度と臨床特性について(1)、(2)のように考察した。

(1)異動が誘因となった者の頻度とその男女差について

 誘因が明らかな男性患者のうち、「仕事上の問題」で発症したものは全体の約2/3であり、異動が誘因となった者は29%と高頻度にみら札、従来の諸外国やわが国での研究の結果と概ね一致した。一方女性では、「仕事上の問題」が誘因となった者は19%と少なく、異動が誘因となった者はわずか1例であった。女性は異動の頻度が少ないことや、責任や負担の重い地位への異動が少ないことが推測されるため、男性の方が異動に対して脆弱性があるとは結論できない。しかし、この男女差は欧米の報告では見られず、今後わが国において女性の職業意識が高まっていく中で変化を見守る必要があると思われた。

(2)個人的背景と臨床特性について

 年齢分布では、比較的均一な年齢に集中しており、平均年齢は43.2歳で、企業や組織の中では、現場の仕事から中間管理職に移って職務内容が大きく変化したり、より責任が重い職に配置される年代に一致する。教育歴は比比較的高く、配偶者を持つ者が多いこととあわせて、他の誘因によるうつ病と比較して個人的背景における特徴が見出された。

 病型では、全例が笠原・木村のI型(性格反応型)に分類され、異動が誘因となった群は均質にうつ病の中核群に含まれることが明らかになった。

 以上、異動を誘因として発症したうつ病は、個人的背景や病型においてある程度まとまりのある特性を持っていることが明らかになった。

 自殺企図の頻度は、異動が誘因となったうつ病では29%と高率であり、自殺の危険に特に留意する必要があることが示唆された。自殺企図率が高かった点は、古くからわが国に特有な社会的背景として存在してきた集団帰属意識の強さと関連がある可能性があると考えられた。さらに、自殺企図者の自殺手段は縊首などの既遂率の高いものであったことから、医療につながる前に死亡している者も少なくないことが推定され、中年サラリーマンの自殺の要因として、職場環境の変化に基づくうつ病の発症が重要であることが推測された。

(3)回復状況と治療について

 抗うつ薬の登場以降うつ病は軽症化してきたが、完全寛解には至らず軽症のまま遷延する症例が増加しており、回復期うつ病の治療が重要となってきていることが従来の研究で指摘されている。薬物療法などの身体的治療に限界があるうつ病に対しては、精神療法ないし環境調整が重要な治療的戦略となる。

 本研究の経過と回復状況の調査において、異動を誘因として発症した症例には慢性化例が多く見られる一方、再異動によってすぐに完全寛解に至る例が多く見られた。従って、患者が元の職場またはそれに準じた職場に戻る強い希望がある場合、職場の人事担当者と連携をとり、そうした職場への再異動を機を逸せずに早期から積極的に考慮することが望ましく、それによって慣れた同じ秩序の中へ戻ることが病相の治癒の近道となり、慢性化の予防にも役立つものと考えられた。

 その実践例として、医療者による異動前の職場への再異動の勧告によって速やかに完全寛解に至ったうつ病の1自験例(51歳、男性)を示した。

 最後に、本研究の方法論的問題点を踏まえ、今後の課題について述べた。

審査要旨

 本研究はうつ病患者の中で高頻度に見られる人事異動を誘因として発症したうつ病について、その臨床特性と回復状況とを明らかにし、治療学的な示唆を得ることを目的として行われたものである。そのために、1大学病院に1年間に初診し気分障害を持つ疑いのある316例の全診療録を調査し、(1)18歳以上65歳未満の者で、(2)笠原・木村分類によってI型またはIII型に分類され、(3)研究用診断基準(RDC)のうつ病の診断基準を満たす非双極性の患者のうち、(4)うつ病相の誘因が明らかな症例、を抽出して調査を行い、以下の通りの結果を得ている。

 1.上記(1)〜(4)の選択基準を満たずうつ病患者は130例(男58例、女72例)であった。うつ病の誘因を「仕事上の問題」と「仕事以外の誘因」とに分け、前者を「異動」と「他の仕事上の問題」とに分けると、男性患者では「仕事上の問題」を誘因として発症した者は約2/3であり、異動を誘因として発症した者は約3割と高頻度に見られ、先行研究の報告と概ね一致した。しかし、女性では「仕事上の問題」が誘因となった者は19%と少なく、異動を誘因として発症した者はわずか1例であった。

 2.異動を誘因として発症した男性うつ病患者の個人的背景を他の誘因によって発症した男性うつ病患者のそれと比較することにより、異動を誘因として発症したうつ病男性の個人的背景の特徴として、年齢は40歳代前半を平均として比較的均質な年齢に集中していること、教育歴が高いこと、配偶者をもつ者が多いことが統計学的に明らかになった。

 3.病型では異動を誘因として発症した男性うつ病患者は全例が笠原・木村分類のI型(性格反応型)に該当し、統計学的にも他の誘因によって発症した患者と比較してI型に分類された頻度が有意に高いことから、異動を誘因として発症したうつ病はうつ病の中核群に含まれることが示された。さらに2.とあわせて、異動を誘因として発症したうつ病は比較的まとまりのある1群としてみなし得ると考えられた。

 4.誘因が明らかな男性うつ病患者全体の自殺企図率が14%であるのに対し、異動を誘因として発症した男性うつ病患者の自殺企図率は29%と高く、自殺に特に留意する必要があることが示唆された。異動を誘因として発症したうつ病患者が、欧米では一般に自殺の危険因子とされる社会的要因を持たないにも拘らず自殺企図率が高かったことの背景として、わが国の勤労者の集団帰属意識の高いことが関与している可能性があると考えられた。さらに、中堅世代のサラリーマンの自殺の原因として異動を含めた職場要因によって発症したうつ病が少なくないことが推定された。

 5.異動を誘因として発症した男性うつ病患者17例のうち、継続して治療が行われた12例について3〜4年間の治療経過を調査し、治療開始後1年以内に完全寛解に至った者はわずか2例であるなど、慢性化例が多いことが明らかになった。そのような例では、症状の変動を見ると、身体的治療すなわち抗うつ薬と休養とにより、症状の軽減が得られて職場復帰を果たすが、完全寛解には至らずにうつ病相が持続していた。

 6.異動を誘因としてうつ病を発症し完全寛解に至った9例の回復状況を調査したところ、5例が以前勤務していた馴染みのある職場への再異動がなされ、1例が再就職するなど、本人に有利な職場状況の変化を経た後には早期に完全寛解に至っていたことが示された。これにより、異動を誘因として発症したうつ病患者においては、患者が元の職場またはそれに準じた職場に戻る希望がある場合、職場の人事担当者と連携をとり、そうした再異動を積極的に考慮することが望ましく、慢性化の予防に役立つ可能性があるという治療学的示唆が得られた。

 以上、本論文は誘因別にうつ病の臨床特性を明らかにするという新しい視点を用い、系統的な調査によって、これまで未知に等しかった異動を誘因として発症したうつ病の臨床特性と経過とについて明らかにした。さらに、従来のうつ病の状況論研究は発病状況に焦点を置くものが殆どであったが、本研究では回復状況についての調査を行い、寛解に至る際の状況を明らかにし、治療学的示唆を得ている。これらは、うつ病の臨床において重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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