本研究はうつ病患者の中で高頻度に見られる人事異動を誘因として発症したうつ病について、その臨床特性と回復状況とを明らかにし、治療学的な示唆を得ることを目的として行われたものである。そのために、1大学病院に1年間に初診し気分障害を持つ疑いのある316例の全診療録を調査し、(1)18歳以上65歳未満の者で、(2)笠原・木村分類によってI型またはIII型に分類され、(3)研究用診断基準(RDC)のうつ病の診断基準を満たす非双極性の患者のうち、(4)うつ病相の誘因が明らかな症例、を抽出して調査を行い、以下の通りの結果を得ている。 1.上記(1)〜(4)の選択基準を満たずうつ病患者は130例(男58例、女72例)であった。うつ病の誘因を「仕事上の問題」と「仕事以外の誘因」とに分け、前者を「異動」と「他の仕事上の問題」とに分けると、男性患者では「仕事上の問題」を誘因として発症した者は約2/3であり、異動を誘因として発症した者は約3割と高頻度に見られ、先行研究の報告と概ね一致した。しかし、女性では「仕事上の問題」が誘因となった者は19%と少なく、異動を誘因として発症した者はわずか1例であった。 2.異動を誘因として発症した男性うつ病患者の個人的背景を他の誘因によって発症した男性うつ病患者のそれと比較することにより、異動を誘因として発症したうつ病男性の個人的背景の特徴として、年齢は40歳代前半を平均として比較的均質な年齢に集中していること、教育歴が高いこと、配偶者をもつ者が多いことが統計学的に明らかになった。 3.病型では異動を誘因として発症した男性うつ病患者は全例が笠原・木村分類のI型(性格反応型)に該当し、統計学的にも他の誘因によって発症した患者と比較してI型に分類された頻度が有意に高いことから、異動を誘因として発症したうつ病はうつ病の中核群に含まれることが示された。さらに2.とあわせて、異動を誘因として発症したうつ病は比較的まとまりのある1群としてみなし得ると考えられた。 4.誘因が明らかな男性うつ病患者全体の自殺企図率が14%であるのに対し、異動を誘因として発症した男性うつ病患者の自殺企図率は29%と高く、自殺に特に留意する必要があることが示唆された。異動を誘因として発症したうつ病患者が、欧米では一般に自殺の危険因子とされる社会的要因を持たないにも拘らず自殺企図率が高かったことの背景として、わが国の勤労者の集団帰属意識の高いことが関与している可能性があると考えられた。さらに、中堅世代のサラリーマンの自殺の原因として異動を含めた職場要因によって発症したうつ病が少なくないことが推定された。 5.異動を誘因として発症した男性うつ病患者17例のうち、継続して治療が行われた12例について3〜4年間の治療経過を調査し、治療開始後1年以内に完全寛解に至った者はわずか2例であるなど、慢性化例が多いことが明らかになった。そのような例では、症状の変動を見ると、身体的治療すなわち抗うつ薬と休養とにより、症状の軽減が得られて職場復帰を果たすが、完全寛解には至らずにうつ病相が持続していた。 6.異動を誘因としてうつ病を発症し完全寛解に至った9例の回復状況を調査したところ、5例が以前勤務していた馴染みのある職場への再異動がなされ、1例が再就職するなど、本人に有利な職場状況の変化を経た後には早期に完全寛解に至っていたことが示された。これにより、異動を誘因として発症したうつ病患者においては、患者が元の職場またはそれに準じた職場に戻る希望がある場合、職場の人事担当者と連携をとり、そうした再異動を積極的に考慮することが望ましく、慢性化の予防に役立つ可能性があるという治療学的示唆が得られた。 以上、本論文は誘因別にうつ病の臨床特性を明らかにするという新しい視点を用い、系統的な調査によって、これまで未知に等しかった異動を誘因として発症したうつ病の臨床特性と経過とについて明らかにした。さらに、従来のうつ病の状況論研究は発病状況に焦点を置くものが殆どであったが、本研究では回復状況についての調査を行い、寛解に至る際の状況を明らかにし、治療学的示唆を得ている。これらは、うつ病の臨床において重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。 |