学位論文要旨



No 211843
著者(漢字) 千葉,芳江
著者(英字)
著者(カナ) チバ,ヨシエ
標題(和) 金属表面での分子の反応及び散乱過程における分子振動のダイナミクス
標題(洋)
報告番号 211843
報告番号 乙11843
学位授与日 1994.06.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第11843号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 教授 村田,好正
 東京大学 教授 矢崎,紘一
 東京大学 助教授 高田,康民
内容要旨

 表面触媒反応や結晶成長などの表面現象の解明には、系の電子的・化学的性質のみならず、動的過程の基礎的な理解が必須である。そのため、最近、固体表面と分子線の相互作用の研究が盛んに行われるようになってきた。表面動的過程は一般に非常に複雑で多様であるが、本研究では2原子分子-金属表面反応素過程における分子振動の役割に焦点をあてて研究を行った。近年のめざましいレーザ技術の発達により、分子をある特定の振動や回転の状態に励起したり、反応生成分子の振動や回転状態を決定することが可能になってきている。分子内部状態制御の実験解析が可能になったことにより、分子の並進エネルギーのみでなく、振動や回転などの内部状態が気相や表面での分子反応過程に大きな影響を及ぼしているという事実がだんだんと知られるようになってきた。実際、いくつかの活性型解離吸着系や散乱系において、1eV程度の分子線の場合には分子振動が並進運動と並んで分子の動的挙動を大きく支配していることが実験で確かめられている。

 早急な理論的裏付けが待ち望まれているが、反応を記述するポテンシャル・エネルギー面が広域的に知られている系はほとんどないため、数多くの試ポテンシャル・エネルギー面を用いて数値解析ができるような、コンピュータ計算時間やメモリのあまりかからない実用的な計算手法の確立が大切である。数値解析法としては、古典トラジェクトリー法、時間に依存するシュレディンガー方程式を解いて波束の時間発展を追う方法、時間に依存しないシュレディンガー方程式の定常解を解くカップルド・チャンネル法などがある。水素分子などの軽い分子の場合、分子振動エネルギー準位が非常に大きいため、いま興味ある1eV程度のエネルギー領域では量子効果が大きく、さらに、トンネル効果も効くので、古典論では不十分である。また、波束の時間発展を追う方法は、コンピュータ計算時間やメモリが膨大にかかるため実用上問題が大きい。その点、カップルド・チャンネル法は非常に効率的な手法であり、未知の反応機構の様々な可能性を試すのに最適である。しかし、分子振動に関わる従来のカップルド・チャンネル法には、深刻な問題点が含まれている。

 本研究の目的は、従来のカップルド・チャンネル法のもついくつかの問題点を解決し、従来は正しく扱えなかった難しい系に対しても適切な計算手法を確立することである。具体的には、次の3点を中心に改良を行った。

 (1)表面付近での分子振動数の変化を正確かつ簡潔に計算に取り入れる:実際、分子振動数は表面付近で大きく変化し、そのダイナミクスに対する影響は大きいと考えられる。しかし、従来の方法では振動数変化を正確に取り入れると、連立方程式の係数行列要素が大変複雑になってしまうため、振動数一定などの近似をせざるを得なかった。

 (2)反応経路座標系のもつ問題点を解決する:カップルド・チャンネル法に必須の反応経路座標系(局所曲線座標系)においては点と座標が一対一対応をしない領域があり、そこではポテンシャルや波動関数の値が一意に定まらない。このことは解析上大きなエラーを与える。

 (3)数値的に安定な手法を確立する:特に、閉じたチャンネルの数が多い場合、閉じたチャンネルの成分は漸近領域で指数的に発散するため、波動関数の値から遷移行列を求める通常の方法は数値的に非常に不安定である。数値的に安定な解法がぜひ必要である。

 ポイント(1)の解決には、はじめに振動座標を振動ベースの波長でスケールして無次元化する手法を用いた。それにより、振動数が変化するベースを用いても、そのベースが変数変換後の反応座標には依存しないため、従来のように行列要素が煩雑にならない。方程式に現れるいずれの項も無視せずに済み、正確な結果が得られることになる。また、ポイント(3)で述べた数値的に安定な手法として、波動関数を解く代りに、波動関数行列のLogarithmic Derivativeから導かれるLocal Reflection Matrixという数値的に取り扱い易い量を解いて、反射行列を求める新しい手法を開発した。実際、数値的に非常に安定であることが確かめられた。

 この新しい手法を、いくつかの重要な系に適用した結果を紹介する。

 H2,D2/Cu解離吸着・会合脱離反応系に関する実験において、分子振動励起による吸着の促進効果と、脱離分子における異常に高い振動温度が観測されている。これらの実験結果は、表面側に0.7eV程度の高さの活性障壁をもつポテンシャル・エネルギー面を用いて統一的に説明することができた。次の事柄を理論解析によって確かめた。「(i)結合と脱離は表面上で起こる同一の過程である。(ii)H2分子の吸着では、分子の質量が軽いためトンネル効果が重要な役割を果たす。(iii)低い並進エネルギーであっても、振動励起された分子は吸着確率が高い。D2分子の振動数はH2分子のものに比べて小さいため、ノズル・ビーム中により多くの振動励起分子が存在する。このことが、D2ノズル・ビームの吸着の促進に大きく関係する。」この系に関する研究は現在も着々と進んでおり、典型的な活性型解離吸着系の詳しい反応機構が明らかになりつつある。高い障壁(1eV程度)をもつ活性型解離吸着系においては、一般に、反応の促進に分子の回転はあまり重要でない一方、振動は大きな役割を果たしている場合が多い。大きな並進-振動カップリングは、分子の解離や2原子の会合という過程が構成2原子間の距離の伸び縮みである分子振動と深く関連していることから直感的に予測できる。従って、1eV程度の入射分子線を用いる実験に対しては、分子の並進自由度のみでなく、最低でも振動自由度を含めた解析が必要である。入射分子線の並進エネルギーのみならず、振動などの内部自由度も制御することにより、反応を自在に制御することが可能になる。

 NO/Ag(111)散乱系の解析も行った。物理的に妥当な値のパラメータを含んだ断熱ポテンシャル・エネルギー面を用いて、実験結果で得られた散乱分子の振動励起確率の入射並進エネルギー依存性、及び、表面温度依存性を定性的に説明することができた。この散乱過程において、断熱効果あるいは非断熱効果のいずれが重要な役割を果たしているかという問いの答えはまだ出ていない。しかし、もし断熱過程であるならば、解析結果よりこの散乱における分子振動励起の主な原因は、表面との強い化学的相互作用による表面付近での分子振動数の変化であると考えられる。反応経路の大きな曲りを経験しないこのような散乱系においてさえも、ただ1回の衝突だけで数%という高い分子振動励起確率が得られるというこの結果は、表面付近での分子振動数変化が衝突のダイナミクスに大変重要であることを示唆している。

 反応経路座標系は、カップルド・チャンネル法に必須のものである。しかし、ポイント(2)にあるように、大きく曲がった反応経路をもつ系や、高い振動状態がみられる系は、反応経路座標では正しく記述できない。座標エラーをなるべく小さくするため、座標の定義にあたって、本来の反応経路の代りに、曲率の小さい技巧的な経路を用いる方法を検討・開発した。

 反応経路が非常に大きな曲率をもつH2/W Eley-Rideal型反応にこの方法を適用してみた。この系では、通常のLangmuir-Hinshelwood型反応においてみられるより、ずっと高い振動準位(=9まで)の分子が実験で観測されている。しかし、Eley-Rideal型反応の反応経路は鋭く曲がっているため、この系の数値解析はいずれの方法を用いても大変難しいものであった。ここでも数値的困難のため、結局計算結果は得られなかった。この反応系では波動関数の展開に多数の閉じたチャンネルが必要であり、その数があまりにも多いため計算精度が悪くなったのが不成功の原因である。しかし、カップルド・チャンネル法は多くの試ポテンシャル・エネルギー面を短時間でチェックできる優れた方法である。反応のポテンシャル・エネルギー面を、第一原理計算より正確に求めることが現実的でない現状のもとでは、より数値的に安定なカップルド・チャンネル法の開発が今後の課題である。

 以上まとめたように、本論文では、分子線と金属表面の相互作用における分子振動ダイナミクスの研究を行った。従来のカップルド・チャンネル法を改良して正確で実用的な手法を確立し、それを適用していくつかの重要な反応系の機構の理論的裏付けを行った。1eV程度の活性障壁をもつ解離吸着系や散乱系においては、分子振動が反応のダイナミクスに非常に大きな影響を与えていることが分った。

審査要旨

 原子配列や化学組成、電子状態といった固体表面の静的な物性は、実験技法や理論的手法の進歩によって、着実に解明されつつある。これに対して表面化学反応や触媒反応、吸着、脱離など表面における原子・分子のダイナミクスの問題は、物理的にも応用上もきわめて興味深い研究テーマでありながら、微視的な取り扱いということになると、いまだに研究手法上の困難が数多く残されている。本論文は、このきわめて難しいテーマに取り組み、2原子分子・表面反応における分子振動のダイナミクスの理論的取り扱いをめざして、新しい計算手法の開発と応用を行ったものである。

 論文は3部からなり、第1部は従来の理論的手法の概説と問題点の分析である。分子・表面ダイナミクスの理論解析法には、古典トラジェクトリー法、波束の時間発展を追う方法、そして本論文でとりあげるカップルド・チャンネル(CC)法がある。軽い分子では振動準位の量子化やトンネル効果が重要になるため、古典的な取り扱いは適さない。また波束の方法は計算時間が膨大になるため実用的でない。その点CC法は、未知の反応機構の様々な可能性を試してみるのに最適な手軽さと精密さを兼ね備えている。

 しかしながら分子の並進運動と分子振動とが強く結合した系では、ポテンシャルエネルギー面(PES)上の反応経路が曲がっていることにより、CC法といえども従来の計算法のままではいくつかの問題点を残している。1つは表面付近での分子の振動数変化を取り入れることが困難であること、2つ目はPES上の点とCC法で用いる反応経路座標が1対1に対応しないことがあり、これが解析上大きなエラーを与えること、3つ目は多数のチャンネルに対する連立微分方程式を計算機で解く際の数値的不安定性の問題である。

 第2部では第1の問題に対し、分子の振動数変化を取り入れたCC法の新しい構成法として、振動座標を振動ベースの波長でスケールする方法を提案した。この新しい方法では行列要素が簡単になり、CC方程式に現れるいずれの項も無視せずにすむため、正確な結果が得られる。さらに第3の問題に対して、波動関数行列の対数微分から導かれるLocal Reflection Matrixという数値的に取り扱いやすい量を解いて反射行列を求めるという手法を提案した。この方法は従来の波動関数を解く方法に比べて、はるかに数値的に安定であることが示された。

 続いてこれらの方法論を用いて、2つの系の解析を行った。

 まずH2、D2/Cu解離吸着・会合脱離系の実験では、分子振動励起によって吸着が促進されたり脱離分子の振動温度が異常に高いことが示されるなど、分子の内部エネルギーと表面化学反応との密接な関係が明らかになりつつある。本論文では、表面側に約0.7eVの活性障壁を持つPESを用いることで、これらの実験結果を統一的に説明・再現できることが示された。

 次にNO/Ag(111)散乱系の実験では、散乱分子の振動励起確率の入射並進エネルギー依存性と表面温度依存性が実測されている。本論文では、表面との相互作用による分子の振動数減少を考慮すれば、断熱近似の範囲で実測の入射並進エネルギー依存性を再現できることが示された。温度依存性については、熱振動によるPESのわずかな変化で説明できる可能性が示された。

 第3部では、問題点の第2にあげた反応経路座標の二価性を無くすため、曲率の小さい新しい反応経路を用いる方法を提案した。これにより大きく曲がった反応経路や高い振動状態を持つ系においても、CC法の応用がある程度可能になった。

 本論文の理論解析では、PESの関数形を仮定し、実験結果を再現できるようにポテンシャル・パラメータを決定するという手順が取られた。これは、実測や第一原理計算でPESを決定することの困難さを考えれば、現状では最善の方法であろうし、逆にこのような手続きによってPESの特徴を予測する道も考えらる。その際ここで開発された方法論により、さまざまなポテンシャル面条件で精密な反応確率の評価が比較的手軽に行えるようになったことは、本論文の非常に大きな寄与と言うべきである。

 以上のように本論文は、表面の動的過程というきわめて困難な対象を取り扱うための方法論の開発に多大の貢献を行った。よって審査員一同は、本論文を博士(理学)の学位論文として合格と判定した。

 なお本論文はミュンヘン工科大学のW.Brenig氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

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