分子から電子励起状態にあるフラグメントを生成する解離励起過程は反応動力学における基本的な問題である。希ガス準安定原子(Rgm)は長い自然放射寿命を持ち、解離反応に必要な高エネルギーを持っているために、反応の励起源としてよく用いられている。希ガス準安定原子の励起エネルギーは、光では真空紫外光が相当する。光励起は標的分子に与えるエネルギーを正確に見積もることができ、また、連続光源を用いることにより標的分子の高エネルギー状態について知ることができる。 シアン化合物は効率よく励起CNラジカルを生成することが知られており、解離反応の標的分子として最も良く調べられている分子の一つであるが、その反応ダイナミクスに関しては定説が得られていない。本研究ではシアン化合物の解離反応により生成した励起CNラジカルの発光の測定により、シアン化合物とRgmの衝突反応、発光スペクトルの圧力依存性、シアン化合物の光解離過程および高エネルギー状態について議論して解離励起過程のダイナミクスを明らかにする事を目的とした。 生成物の発光から反応過程を議論するためには、観測した発光スペクトルが生成直後の分布を反映していなければならない。フロー法は多量に希ガス準安定原子を生成できるが、フロー中の基底状態の原子により生成物が衝突緩和を起こすことが知られている。本研究では衝突緩和の影響を最小にするために、反応領域の圧力を抑える低圧フローイングアフターグロー装置を試作した。また、シアン化合物の高いエネルギー状態や光解離過程を調べるために、分子科学研究所の極端紫外光施設で極端真空紫外光を用いて実験を行った。 シアン化合物とRgmの反応では、以下の3種の解離経路が提唱されている。 (I)シアン化合物の励起状態(RCN)*を中間体とするエネルギー移動過程 (II)衝突会合体(RgRCN)*からの直接解離過程 (III)イオン対(Rg+CN-)*を中間生成物として生成する過程 希ガス準安定原子とハロゲン化物との反応では、(Rg+X-)*で表されるイオン対を生成することか報告されている。CN基はハロゲン原子よりも大きい電子親和力を持つことからシアン化物でも(III)の過程が支配的であると予想されていたが、分子線法を用いた衝突エネルギーの高い実験では(I)の経路が支配的であるという結果が得られている。バートAでは、低圧フローイングアフターグロー装置を用いて熱衝突エネルギー領域における希ガス準安定原子とシアン化合物の解離励起過程の反応機構について考察した。 第3章では、Rgmによるシアン化合物の衝突反応の典型的な例として、アルゴン準安定原子と臭化シアンの衝突によりCN(B2+)フラグメントを生成する解離励起過程をとりあげた。アルゴン圧9mTorrで観測したCN(B2+-X2+)発光スペクトルは、摂動による強度異常が消失するなど、高圧の測定結果と大きく異なるものであった。衝突緩和断面積から、この圧力で得られた振動回転分布は本質的に生成直後の分布とみなせることが示された。スペクトルのシミュレーション解析によって決定したCN(B)フラグメントの生成直後の振動分布は、2体解離を仮定した統計論による計算値とよく一致した。したがって、CN(B)フラグメントの生成反応ではエネルギー移動過程が支配的であると結論した。 第4章では、第3章の研究の発展としてアルゴン準安定原子またはクリプトン準安定原子の衝突により臭化シアンまたはヨウ化シアンからB状態のCNフラグメントを生成する励起過程を議論した。どの反応系においても、CN(B)ラジカルの振動回転分布は2体解離を仮定した計算値とよく一致した。したがって、B状態のCNラジカルを生成するハロゲン化シアンとRgmの解離励起過程は一般的にエネルギー移動過程が支配的であると結論した。 第5章ではアルゴン準安定原子によって臭化シアンからCN(A2i)フラグメントを生成する解離励起過程について議論した。反応領域の圧力45mTorrで観測したCN(A2i-X2+)発光スペクトルから得られた振動分布を解析し、A2i状態を生成する支配的な反応経路もB2+状態を生成する経路と同じくエネルギー移動過程であると結論した。 第6章では、アルゴン準安定原子と3つの直鎖飽和ニトリル-アセトニトリル,プロピオニトリル,プチロニトリル-の衝突でCN(B2+)フラグメントを生成する反応過程について議論した。観測された振動分布にはアルキル基依存性があり、この結果はアルキル基に分配されるエネルギーが異なっていることを示しているので、反応機構(I)により反応が進むことを支持している。また、アルキル基が長くなるに従って生成断面積が減少することが見いだされた。これはアルキル基による立体阻害、またはアルキル基への余剰エネルギーの分配により説明できる。 CN(B2+-X2+)発光スペクトルには、他の電子状態との摂動による強度異常が存在し、顕著な圧力依存性が知られている。Duewerらは4+状態と摂動しているB2+状態のv=11準位の回転分布の圧力依存性を定常状態モデルを用いて解析したが、彼らの観測は反応領域のアルゴン圧が150mTorr以上の範囲でなされたため、4+状態内の衝突緩和を明らかにすることはできなかった。第3章に詳述したように、9mTorr以下の圧力では摂動線の強度異常は消失する。パートBでは励起CNラジカルの衝突緩和過程を議論し、CN(B2+-X2+)発光スペクトルの圧力依存性を明らかにすることを目標とした。 第7章では、B2+(v=14)〜4(v=6)摂動による回転線の強度異常の圧力依存性を測定するために、反応領域にアルゴンまたはヘリウムガスを圧力9mTorrから2000mTorrの範囲で導入して発光スペクトルを観測した。摂動準位を解析するために、Duewerらのモデルを改良して二つの電子状態を扱うモデルを構築した。この解析から、低圧および高圧領域で観測される圧力依存性はそれぞれ4とB2+状態における衝突緩和によることを説明した。衝突パートナーをアルゴンからヘリウムに変えた測定結果から、この回転緩和過程において長距離の相互作用が重要な役割を果たしていることが示された。 第8章では、第7章で作ったモデルをCN(B2+-X2+)発光スペクトルに現れるその他の摂動[B2+(v=0)〜A2i(v=10)とB2+(v=11)〜4+]に当てはめた。どちらの摂動による回転線の強度異常も、このモデルにより圧力依存性を再現できた。さらに、CN(B2+-X2+)の15-15バンドの有効回転温度の圧力依存性を解析した。回転緩和の断面積のCNラジカルの励起状態に対する依存性は、回転緩和が双極子-誘導双極子相互作用に起因すると考えて定性的に説明できることがわかった。 反応ダイナミクスを議論するときには標的分子の高励起状態の性質が重要である。光吸収スペクトルおよび蛍光励起スペクトルは、分子の励起状態とそこからの解離に関して基本的な情報を与える。パートCでは、ハロゲン化シアン(XCN)の光解離反応をRgmのエネルギーに相当するシンクロトロン軌道放射光を光源として研究した。 CN(A2i-X2+)およびCN(B2+-X2+)の蛍光と透過光を励起波長の関数として観測した。また、偏光子を用いてCN(B2+-X2+)蛍光の偏光度をシンクロトロン放射光の電気ベクトルを基準として測定した。偏光度の解析により、前駆状態の対称性や自然寿命に関する情報を得た。 第9章では、105-150nmの波長範囲でCNラジカルのA2i,B2+状態を生成する臭化シアンの光解離過程について議論した。観測したスペクトル中には、臭化シアンの価電子状態間の遷移や高リュードベリ状態に帰属されるバンド構造が現れる。A2iあるいはB2+状態の生成する量子収率は、遷移に依存することが観測された。例えば、2→3s遷移ではCN(A2i)ラジカルの生成が有利であり、一方、6→3s遷移ではB2+状態にあるCNラジカルの生成が有利である。これらの依存性は、BrCNとCNラジカルの分子軌道の相関により定性的に説明できた。 第10章では、ヨウ化シアンの光吸収スペクトルと蛍光励起スペクトルを105-180nmの励起波長で測定した。180nmから第1イオン化ポテンシャルまでの吸収バンドをCN(B2+-X2+)蛍光の偏光異方性の波長特性に基づき、価電子状態間の遷移や第1および第2イオン化ポテンシャルに収束するリュードベリ遷移に帰属した。CN(A2i)とCN(B2+)を生成する量子収率は59000cm-1から第1イオン化ポテンシャルに相当する87000cm-1まで波数に従って増加するが、88000cm-1を超すと急激に減少することがわかった。臭化シアンの光解離と対照的にヨウ化シアンの光解離では、A2iとB2+の励起関数は似通った挙動を示すことが見いだされた。 |