学位論文要旨



No 211851
著者(漢字) 堀,正敏
著者(英字)
著者(カナ) ホリ,マサトシ
標題(和) 平滑筋におけるリチウムイオンの薬理作用機序に関する研究
標題(洋)
報告番号 211851
報告番号 乙11851
学位授与日 1994.06.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第11851号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 助教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 局,博一
内容要旨

 リチウムイオン(Li+)は周期律表の第I族元素(アルカリ金属)に属する陽イオンであり、量子論上Na+と類似していることから、多くの興奮性細胞におけるイオン透過機構の研究にNa+の代替イオンとして用いられてきた。しかし、近年Li+がNa+と異なり独自の薬理作用を有することが明らかにされた。Li+はイノシトールリン脂質(PI)代謝回転のイノシトール1,4-二リン酸(1,4IP2)脱リン酸化酵素とイノシトール1,3,4-三リン酸(1,3,4IP3)脱リン酸化酵素を阻害し、イノシトール1,4,5-三リン酸(1,4,5IP3)およびイノシトール1,3,4,5-四リン酸(1,3,4,5IP4)の分解を抑制する。さらにアデニル酸シクラーゼを直接阻害する作用や、GTP結合蛋白質へのGTPの結合を阻害する作用などが、神経細胞や腎臓由来の細胞で報告されている。一方平滑筋においてもLi+は細胞のNa+の役割を研究するうえで、その代替イオンとして用いられてきた。そのなかで、Li+が腸管平滑筋の収縮を抑制することがみいだされ、この作用は、Na+の減少によるものではなく、Li+自身によることが知られている。

 以上の様にLi+は他の1価の陽イオンには見られない薬理作用を有する。本研究では、腸管平滑筋におけるLi+の収縮抑制作用について検討し、その作用機序について明らかにすることを目的とした。また、あわせてその作用の動物種差ならびに臓器差についての検討を加えた。

[実験成績]1:Li+の収縮抑制作用と細胞内Li+量([Li+]i)の関係

 モルモット回腸縦走筋における高濃度K+収縮は、外液のLi+濃度に応じて抑制された。しかし、低濃度のLi+を長時間作用させた場合と高濃度のLi+を短時間作用させた場合では、前者の方が高濃度K+収縮抑制作用は強かった。また、カルバコール、ヒスタミンおよびA23187による収縮もLi+により抑制された。Li+による収縮抑制作用と[Li+]iは高い正の相関を示した。以上の成績からLi+の収縮抑制作用は、収縮薬の種類を問わず一様であり、その作用は細胞内に蓄積されたLi+に起因し、収縮張力を50%抑制する[Li+]iは約10mmol/kg wet wt.であることが示された。

2:Li+による収縮抑制作用の機序

 CA2+蛍光指示薬fura-2を負荷したモルモット回腸縦走筋において、高濃度K+、カルバコールおよびヒスタミンはいずれも細胞内Ca2+量([Ca2+]i)の増加を伴って収縮張力を発生した。Li+は[Ca2+]iの増加に影響を与えずに収縮張力のみを抑制した。また、高濃度K+の適用により45Ca2+取込みは増加するが、この増加もLi+によって抑制されなかった。高濃度K+収縮はミオシン軽鎖のリン酸化を伴い、Li+はこれを有意に抑制した。以上の成績から、Li+による腸管平滑筋収縮の抑制はCA2+動態に影響を与えずにミオシンのリン酸化量の減少を伴うことが示された。

 次に、スキンドファイバーを用いてLi+の収縮蛋白系に対する作用について検討した。トライトンX-100処理スキンドファイバーにCa2+を投与すると持続的な収縮が発生した。Li+(6-30mM)はこのCa2+収縮を濃度依存性に抑制した。この抑制はCa2+またはカルモジュリンの添加によって一部回復した。スキンドファイバーをとCa2+で処置すると、ミオシン軽鎖キナーゼ(MLCK)によってミオシンはチオリン酸化され、これは脱リン酸化酵素によって脱リン酸化されない。この様にミオシンをチオリン酸化させた筋にCa2+不在下でATPを投与すると、アクチンとチオリン酸化ミオシンの相互作用による持続性収縮が得られる。Li+はこの収縮を全く抑制しなかった。以上の成績から、Li+の収縮蛋白系に対する作用点はミオシンのリン酸化機構、すなわちCa2+-カルモジュリン-MLCK系の抑制か、あるいはミオシンの脱リン酸化の機構、すなわち脱リン酸化酵素の活性化によると考えられた。

 ウサギ赤血球膜の(Ca2++Mg2+)-ATPase活性はカルモジュリン活性の指標となる。また、カルモジュリン分子はCa2+の結合によりその構造変化をきたすことから、その蛍光変化を調べることにより活性化状態を見ることができる。Li+は(Ca2++Mg2+)-ATPase活性およびカルモジュリン蛍光には影響を与えなかった。従って、Li+がカルモジュリン活性を直接阻害する可能性はないと考えられた。

 次にMLCKおよび脱リン酸化酵素に対するLi+の作用について検討した。前述のようにスキンドファイバーをCa2+で処置するとMLCKの働きによりミオシンがチオリン酸化される。この反応の際Li+を共存させると、その後のATP投与による収縮は有意に抑制された。さらに生筋より得た粗MLCKサンプルの活性と、筋胃より単離したMLCKの活性を、Li+は有意に抑制した。以上の成績から、Li+がMLCKの活性を阻害することが示唆された。一方スキンドファイバーの弛緩速度は、脱リン酸化酵素活性の指標になると考えられるが、この弛緩速度にLi+は影響しなかった。また、生筋より得た粗脱リン酸化酵素サンプルの活性に対してもLi+は影響しなかった。従って、Li+は脱リン酸化酵素活性に対して影響しないことが示された。

 Li+がCa2+動態を抑制せずに収縮を抑制する機序として、収縮蛋白系への抑制作用を明らかにしたが、それ以外に代謝系に対する抑制の可能性も考えられる。そこで、次に代謝系へのLi+の作用について検討した。栄養液中のブドウ糖をピルビン酸に置換し、解糖系の関与が無視できる条件下において、Li+の高濃度K+収縮に対する抑制作用は有意に減弱された。他方、窒素通気下で栄養液中のブドウ糖濃度を上げた状態で維持される高濃度K+収縮は解糖系に強く依存すると考えられる。この様な条件下で高濃度K+収縮に対するLi+の抑制作用は増強された。さらに、ミトコンドリアにおける呼吸動態を示す酸素消費量を測定したところ、高濃度K+収縮時の酸素消費量の増加はLi+により15-20%しか抑制されなかった。高濃度K+収縮時に筋の還元型ピリジンヌクレオチド(PNred)蛍光と酸化型フラビン蛋白質(FPox)蛍光はいずれも増加する。ブドウ糖を除去して解糖系を阻害することによりPNred蛍光の増加が減少し、窒素通気によって好気的代謝を阻害するとFPox蛍光は減少することから、両者はそれぞれ解糖系による嫌気的代謝系とクレブス回路による好気的代謝系の変化を反映することが示唆されている。Li+は高濃度K+収縮時に増加するPNred蛍光を減少させたが、FPox蛍光を逆に増加させた。以上の成績からLi+による収縮抑制作用の一部は解糖系の阻害に起因することが示唆された。

3:Li+による収縮抑制作用の動物種差・臓器差

 各種動物の回腸縦走筋において高濃度K+収縮に対するLi+の抑制作用を比較した。その抑制効果はモルモットとウサギにおいては同程度であったが、サルとラットでは前二者に比べて抑制効果は大きかった。[Li+]iの定量から、サルおよびラットはモルモットならびにウサギに比べて少ない[Li+]iで強い抑制を引き起こすことが示された。他方、モルモットの大動脈平滑筋や気管平滑筋の高濃度K+収縮をLi+はほとんど抑制せず、Li+による平滑筋収縮抑制作用には、臓器差があることが知られている。ラット大動脈において、生筋の高濃度K+収縮と毒素処理スキンドファイバーのCa2+収縮は、いずれもLi+により抑制されなかった。従って、Li+の収縮抑制作用の臓器差の一部は、収縮蛋白系におけるLi+の抑制作用の差に基づくと考えられた。また、各種摘出臓器におけるブドウ糖除去とLi+による高濃度K+収縮抑制作用の間に正の相関があることから、各摘出臓器の解糖系に対する依存度も臓器差の一因と考えられた。

[まとめ]

 以上の成績から、Li+による平滑筋収縮抑制作用は、細胞内のLi+の蓄積によるものであり、その作用は、[Ca2+]iに影響を与えずに収縮蛋白系の抑制と代謝抑制の両者によって引き起こされることが示された。収縮蛋白系に対する抑制作用は、MLCKのCa2+感受性を低下させることにより、また、代謝阻害作用は解糖系に関する酵素を阻害することによると考えられた。また、Li+の収縮抑制作用には臓器差が見られ、収縮蛋白系の機構や解糖系に対する依存性の差によって生じるものと考えられた。

審査要旨

 リチウムイオン(Li+)は周期律表の第I族元素(アルカリ金属)に属する陽イオンであり,量子論上Na+と類似していることから,多くの興奮性細胞におけるイオン透過機構の研究に用いられてきた。しかし近年,Li+がイノシトールリン脂質(PI)代謝回転やアデニル酸シクラーゼの抑制など、Na+と異なり多くの薬理作用を持つことが明らかにされ,注目されている。平滑筋においても,Li+は腸管の収縮を抑制することがみいだされているが,その薬理作用機序は明らかにされていない。本研究は,平滑筋におけるLi+の収縮抑制作用機序について検討したものであり,論文の内容は次のように要約される。

 第1章では,まずLi+による収縮抑制作用が,細胞外のLi+によるのか,あるいは細胞内に蓄積したLi+によるのかを検討している。モルモット回腸縦走筋における高濃度K+収縮は,外液のLi+濃度に応じて抑制されたが,低濃度のLi+を長時間作用させた場合と高濃度のLi+を短時間作用させた場合では,前者の方が高濃度K+収縮抑制作用は強かった。また,カルバコール,ヒスタミンおよびA23187による収縮もLi+により抑制されたが,それらの抑制効果はいずれも同程度であった。さらに,これらの収縮におけるLi+の抑制作用と細胞内Li+量は高い正の相関を示した。従ってLi+の収縮抑制作用は,収縮薬の種類を問わず一様であり,その作用は細胞内に蓄積されたLi+に起因することを明らかにした。

 第2章ではLi+の平滑筋のCa2+動態への影響について検討している。その結果,平滑筋の収縮には細胞内のCa2+の増加が必須であるが,Li+による平滑筋収縮抑制作用が細胞内のCa2+動態には影響を与えずに生じていることを明らかにした。この成積は,Li+の収縮抑制作用が収縮蛋白系か代謝系にあることを示している。

 第3章では,収縮蛋白系への作用について検討している。まず,細胞膜を介面活性剤で処置した脱膜化標本(スキンドファイバー)を用いて,Li+の収縮蛋白系に対する作用について検討したところ,Li+はCa2+による収縮を濃度依存性に抑制したことから,Li+が収縮蛋白系を抑制することが明らかにされた。また,ATPSとCa2+によってミオシンをチオリン酸化させた標本において,ATPのみによって生じる収縮をLi+は抑制しなかったことから,Li+はアクチンとミオシンの相互作用を直接抑制しないことを示した。さらに,Li+は高濃度K+によって増加するミオシンのリン酸化を有意に抑制したが,ウサギ赤血球膜の(Ca2++Mg2+)-ATPase活性を指標としたカルモジュリン活性を抑制しなかった。生筋より得た粗ミオシン軽鎖キナーゼ(MLCK)標本の活性と,筋胃より単離したMLCKの活性をLi+は有意に抑制した。また,生筋より得た粗脱リン酸化酵素標本の活性に対してLi+は影響しなかった。以上の成績から,Li+は,MLCKの活性を阻害することにより,ミオシンのリン酸化を減少させ,収縮を抑制することを明らかにした。

 第4章ではLi+がCa2+動態を抑制せずに収縮を抑制する機序として,代謝系に対する抑制の可能性も考えられることから,代謝系へのLi+の作用について検討している。栄養液中のブドウ糖をピルビン酸に置換することにより解糖系の関与が無視できる条件下において,Li+の高濃度K+収縮抑制作用は有意に減弱された。ミトコンドリアにおける呼吸動態を示す酸素消費量を測定したところ,高濃度K+収縮時の酸素消費量の増加はLi+によりわずかしか抑制されなかった。さらに,解糖系の活性を示す,筋の還元型ピリジンヌクレオチド蛍光をLi+は抑制した。以上の成績からLi+による収縮抑制作用の一部は解糖系の阻害に起因することを明らかにした。

 さらに,第5章ではLi+の平滑筋収縮抑制作用の動物種差と臓器差に関して検討を加えている。その結果,Li+の作用の動物種差ならびに臓器差が,各動物および臓器における収縮蛋白系自身のLi+に対する感受性の差や,収縮の解糖系に対する依存性の差が原因となっている可能性を示した。

 以上,本論文はLi+の平滑筋収縮抑制作用機序が,収縮蛋白系のミオシン軽鎖キナーゼの活性を阻害することと,代謝における解糖系の阻害に起因することを明らかにしたものであり,学術・応用上貢献するところが少なくない。よって,審査員一同は本論文が博士(獣医学)の論文として価値のあるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク