学位論文要旨



No 211874
著者(漢字) 加藤,聡
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,サトシ
標題(和) 糖尿病による血液眼柵破綻の定量的検討
標題(洋)
報告番号 211874
報告番号 乙11874
学位授与日 1994.07.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第11874号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 折茂,肇
 東京大学 助教授 新家,眞
 東京大学 助教授 水流,忠彦
 東京大学 講師 岡,芳知
内容要旨

 糖尿病による失明者の数は年々増加し、先進諸国では糖尿病の眼合併症が中途失明原因の第一位となっている。糖尿病により様々な眼合併症が発症するが、その病態の基盤となっているのは血液眼柵の破綻であると考えられている。血液眼柵は血液房水柵と血液網膜柵よりなっている。糖尿病眼では、その両方が破綻することが知られている。網膜では、循環障害が引き起こされ、網膜症の発症の原因になる。また、血液房水柵が白内障手術により正常人より強く障害され、手術結果に悪影響を与える。これまでは、血液眼柵の破綻の程度を測定することは、臨床的に種々の制約があり、糖尿病の全身、局所諸因子の柵機能との関連についての検討は充分になされていなかった。

 そこで本研究では、近年開発されたフレアー・セルメーターを用い、糖尿病眼における血液眼柵の病態を検討した。この装置は、他覚的、非侵襲的に前房内蛋白濃度を測定する検査方法である。前房内の房水は毛様体で産生され、隅角部からSchlemm管に入り、眼外にでてゆくが、その性状は毛様体無色素上皮細胞、虹彩血管内皮細胞に存在する血液房水柵により血液成分とは異なる状態で維持されている。しかし、前眼部に炎症等が生じたときは、血液房水柵の破綻を生じ、大きな分子量の蛋白、血球成分が房水内に漏出し、その程度に応じて蛋白濃度が上昇する。本研究では、フレアー・セルメーターを用いて測定した前房蛋白濃度を指標として、糖尿病眼における血液眼柵の破綻の定量的検討を行った。

 はじめに糖尿病眼での前房蛋白濃度の測定条件の統一を試みた。既に我々は、正常眼での前房蛋白濃度の測定条件を明らかにしていたので、散瞳の影響に対してのみ、糖尿病眼で新たに検討を行い、散瞳後30分から1時間の間に測定すれば、散瞳の影響は考慮せずに前房蛋白濃度の検討が行えることを明らかにし、正常眼での測定条件と併せて以後の検討の測定条件を決定した。

 まず、血液眼柵の破綻による一つの病態の総合的重症度を示す網膜症の程度と前房蛋白濃度との関係について検討した。

 図1に示すように、網膜症の程度が進行すればする程、前房蛋白濃度が上昇するという結果が得られた。経時的変化をprospectiveに検討したところ、網膜症の進行にともない前房蛋白濃度の上昇がみられた。これらの結果より、血液網膜柵の破綻と関連した網膜症の重症度が、前房蛋白濃度の上昇に関連していることが示された。

図1 各病期の前房蛋白濃度

 次に、前房蛋白濃度の上昇に関連する全身または眼局所因子の検討を行った。初めに全身因子(年齢、性別、糖尿病罹病期間、血糖コントロール状態、内科的治療法、高血圧、尿蛋白の程度)と前房蛋白濃度の関連について検討した。その結果、全身因子の内、前房蛋白濃度と関連があるのは尿蛋白の程度であるということが明らかになり、次の眼局所因子の検討を行う際に考慮すべき因子とした。また、全身因子が同一である同一患者の左右眼の前房蛋白濃度を比較したところ、網膜症の程度と前房蛋白濃度の間に相関があることが再確認された。

 次に、糖尿病眼の病態と前房蛋白濃度の上昇との関連について検討した。初めに、血液網膜柵破綻と前房蛋白濃度の上昇の関連について考えた。血液網膜柵が強く破壊されている増殖性網膜症のなかで、網膜新生血管が出現する福田分類BII期以降で、前房蛋白濃度が急激に上昇するのは、新生血管から硝子体中に大量の蛋白が漏出したことによる原因が考えられる。そこで、良性初期網膜症期より進行しており、なおかつ網膜新生血管が出現していない福田分類AII期、BI期において、血液網膜柵の破綻と関連のある病態である網膜血管床閉塞領域の広がりと前房蛋白濃度の関係について検討した。その結果、網膜血管床閉塞領域と前房蛋白濃度との間には有意の正の相関(r=0.69,P<0.001)が認められた。このことは、網膜血管床閉塞領域より何らかの因子が放出されて血液房水柵機能に影響を与えていること、および血液網膜柵の破綻により網膜血管から蛋白が大量に硝子体中に漏出していること等の可能性が考えられた。

 次に、血液房水柵の破綻と前房蛋白濃度の関係を知るため、血液房水柵の障害を、臨床的に手術時に入手可能な唯一の組織である虹彩血管を電子顕微鏡により観察し、その障害の有無と前房蛋白濃度の関係を検討した。電子顕微鏡による観察の結果、糖尿病眼では、虹彩血管のtight junctionの離解、内皮細胞の変性、pericyteの変性、内腔閉塞の所見が認められた。その所見の有無のほかに、今までに前房蛋白濃度と関係があると判明している年齢、尿蛋白の程度、網膜症の程度を因子として取り上げ、一般線形モデルによる回帰分析を施行した。その結果、表1に示すように網膜症が福田分類AI期までの軽度の時(A群)は、虹彩血管の障害が前房蛋白濃度の上昇に大きな影響がある(P=0.03)ことが示されたが、更に進行した網膜症病期(B群)では、虹彩血管障害の前房蛋白濃度の上昇に与える影響は少なく、網膜症の程度の与える影響が強いこと(P=0.10)が示された。

表1

 以上の結果より、前房蛋白濃度の上昇は網膜症の初期の例では虹彩血管の障害による影響が大きく、網膜血管床閉塞領域が出現するほど進行した網膜症病期の例では、血液網膜柵の破綻の程度による影響が大きいと考えられた。

 最後に、糖尿病眼における治療と血液房水柵の病態への影響または治療効果についての検討結果を示す。糖尿病網膜症に対して広く一般に行われている網膜光凝固術の効果を検討した。観察期間が6カ月と限られたものであったが、その観察期間内では、前房蛋白濃度上昇を抑制する効果は認められなかった。このことから、糖尿病により一度破壊された血液網膜柵の破碇が網膜光凝固術にて治癒させられるものではないことが示唆された。次に、糖尿病眼における前房蛋白濃度の上昇に対するアルドースリダクターゼ阻害薬点眼の効果を検討したところ、前房蛋白濃度の上昇の原因がおもに虹彩血管障害である初期単純網膜症でのみ効果があり、点眼薬の機序からして糖尿病眼の血液房水柵障害に有効であることが示された。

 以上の検討より、糖尿病眼における血液眼柵の状態は、フレアー・セルメーターにより前房蛋白濃度を他覚的、非侵襲的に測定することによって、今まで知られていなかった知見が得られた。糖尿病眼における前房蛋白濃度が上昇する原因が網膜症の病期によって異なること、すなわち、初期単純網膜症期では、前房蛋白濃度の上昇は、血液眼柵のうち血液房水柵の破綻の影響をうけていることが示され、進行性網膜症期では、前房蛋白濃度の上昇は、血液網膜柵の破綻の影響を強く受けていることが示された。

審査要旨

 本研究では、糖尿病眼合併症の発症と関連すると考えられている糖尿病眼の血液眼柵の破綻の定量化を、フレアー・セルメーターにより測定された前房蛋白濃度を指標として行われた。前房蛋白濃度は、正常人眼では日内変動等を除けば、一定である事を鑑み、糖尿病眼で前房蛋白濃度を測定すれば、血液眼柵の破綻の程度を定量化できるであろうという考えから出発した。またその定量値の意義付けを行うこと、すなわち具体的にはどこから蛋白が漏出してきたかを知ることにより、その前房蛋白濃度の値を臨床で利用できるであろうと考えられ、以下の結果を得ている。

 はじめに網膜症の程度が進行すればするほど前房蛋白濃度が上昇することがわかり、その前房蛋白濃度は全身因子の中では、尿蛋白の有無及び程度との関連が判明した。次に糖尿病眼における前房蛋白濃度上昇の機序について検討したところ、網膜血管床閉塞領域が存在しない網膜症の初期では虹彩血管障害が前房蛋白濃度の上昇に関与しており、網膜血管床閉塞領域が存在する網膜症進行期では、網膜症の程度が前房蛋白濃度の上昇に関与していることが判明した。また網膜症の初期で、血液房水柵障害により上昇した前房蛋白濃度に対して、ARI点眼液が有効であることがわかった。

 今回の研究の臨床応用として、(1)蛍光眼底撮影を行わない網膜症の初期では、前房蛋白濃度を測ることにより血液眼柵の破綻が詳細に観察できる。(2)網膜症の初期であっても前房蛋白濃度が上昇している場合は、虹彩血管障害が存在していると考えられるので、虹彩炎の発症の予測および白内障手術時にはより慎重に対処すべきで、時には眼内レンズ挿入の禁忌となることもありうる。(3)網膜症の初期ではARI点眼等により、血液房水柵障害が改善する可能性がある。(4)網膜症進行期で、前房蛋白濃度が著しく上昇していれば、網膜血管床閉塞領域が広がっている可能性が高く、網膜光凝固術の適応となる。

 本論文の結果により以上のような臨床応用があり、糖尿病眼での前房蛋白濃度の測定は、糖尿病の眼合併症の今までになかった管理及び評価法として必須であり、学位の授与に値すると考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50894