学位論文要旨



No 211881
著者(漢字) 大豆生田,稔
著者(英字)
著者(カナ) オオマメウダ,ミノル
標題(和) 近代日本の食糧政策 : 対外依存米穀供給構造の変容
標題(洋)
報告番号 211881
報告番号 乙11881
学位授与日 1994.09.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第11881号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高村,直助
 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 西田,美昭
 東京大学 助教授 加瀬,和俊
内容要旨

 1900年前後の食糧需要の拡大を画期に,豊作でない限り,国内および植民地の米穀供給による国内需要の充足が困難になった。このため,外国産米・植民地米輸移入が活発化して主穀の対外依存が本格化し,「食糧問題」が多様な形で出現するとともに,それに応じて「食糧政策」が形成された。日本資本主義は,その外縁に位置する日本農業と多面的・構造的に関連しながら急速な展開を遂げた。本論文は日本農業を,生活資料のなかでも最も基本的な商品である米穀を供給する産業としてとらえ,食糧問題を以下のように把握する。食糧問題はまず第一に,国内米穀供給の相対的不足に基因するものであり,この現象は1900年前後から20年代末まで続いた。しかし第二に,このことは食糧問題の性格がこの間一定不変であったことを意味するものではなかった。なぜなら食糧問題は,相対的供給不足という現象に基因しながらも,それをとりまく社会的・経済的諸条件の変化に応じて,具体的性格を変貌させていったからである。

 つまり,需給の不均衡は輸移入によって調整されたから,食糧問題は貿易を媒介として具体化した。対外依存度が高まって輸入量・額が増加するにしたがい,一般に次のような具体的問題が派生する。すなわち,(1)輸入額の膨張による国際収支の圧迫,(2)輸出産地・輸送などの諸条件の動揺がひきおこす供給の「確実性」「安定性」の低下,(3)内地種導入成功後の植民地米移入増加による国内米作の圧迫である。これらの諸問題は,同時に複層的に現われる可能性があったが,そのどれにウェイトがかかるかは,食糧問題を認識する主体とそれをとりまく諸条件に規定された。本論文では,これらの諸問題が,単に一定のグループの利害に限定されるものではなく,貿易を媒介にして日本経済全般に影響を及ぼすことに留意し,多様に存在した食糧問題認識が一定程度調整・総括された「一国レベル」の認識,すなわち政府内部の認識によってその具体像を把握したい。

 食糧政策は,具体的に現われた食糧問題の解決を課題として形成され,展開を遂げた。したがって,食糧政策分析の前提として,食糧問題の性格をみきわめる作業は決定的に重要である。さらに食糧政策は,米価の高騰・低落だけを対象とする「米価政策」分析だけではとらえきれず,米穀生産・流通の両過程にわたる政策体系の「総体」として把握されなければならない。

 食糧問題と食糧政策を以上のような方法でとらえようとするとき,関連する先行研究は戦前期から数多く存在するが,それらの多くは米価問題ないしは米価政策を対象とするものであった。また近年の研究は,米価政策決定過程における「資本」「地主」など諸階層の利害対立とその妥協・調整を対象にして,一定の成果を収めた。ただし,前提となる食糧問題の性格分析が等閑に付されたままであるため,食糧政策の性格とその変貌の具体的解明も,大きな限界が与えられているといわざるをえない。また,食糧政策の体系・構造の分析も意図的にはなされていない。総じて研究の現状は,政策の制度的変遷とそれをめぐる階層利害の実態については一定の蓄積をみたが,それらの前提条件,政策の立案・実施過程で生じた諸問題については比較的手薄である。

 したがって,本論文は次の方法により課題に接近したい。すなわち,(1)食糧政策の前提となる食糧問題の具体的性格を画期を探りながら検討する,(2)その作業を前提として,食糧政策を生産・流通両過程にわたる諸施策の総体としてとらえ,その形成・展開・解消の過程を分析することである。

 食糧問題が本格化した1900年前後から,20年代末の「自給」達成にいたる食糧政策の展開過程は,当初の輸入依存を断ち切って植民地米供給に依存する供給構造を構築する過程にほかならず,とりわけ第一次大戦末から直後にかけての食糧問題の性格の急激な変貌は,外米依存から脱却し植民地米依存へと特化して,食糧「自給」政策が確立する契機となった。

 すなわち,1870年代に輸出が解禁された米穀は,生産の拡大に支えられて80年代後半に輸出がめざましく展開した。1870〜80年代の米穀は重要輸出品であり,正貨獲得と国内市場拡大への一定の寄与は,産業革命のはじまりを告げる企業勃興を可能にした主要な条件の一つであった。しかし,資本主義の発達は食糧需要を急速に増大させ,国内米作の着実な発達傾向を凌駕して食糧問題を台頭させた。1890年代の国内米作は「外貨獲得産業」の位置から転落し,さらに国内需要をもみたせなくなったのである。国際収支が悪化した日露戦後において,米穀輸入額の急増は,食糧問題を国際収支の問題として顕在化させた。このように,食糧問題の第一の局面は,輸入の拡大が正貨を流出させるという問題の具体化にほかならなかった。

 それに対応して食糧政策は,はじめてその姿を明確に現わした。植民地台湾・朝鮮の対日米穀供給能力は,1920年代半ば以降と比較すれば未だ限界があったが,日露戦後の食糧政策は,可能な限りそれを国内に吸収すると同時に,最終的不足を外米輸入に依存するという供給構造を確定させたのである。つまりそれは,不足量の補填をさしあたり植民地米に,次いで最終的には外米に依存するという,二重に対外的に依存した供給構造であった。外米の供給能力は強力であったから,正貨流出という「犠牲」を払いさえすれば,「安全」な供給構造が形成されたのである。

 日露戦後に形成された,外米依存を前提とする供給構造を根底から覆したのが,第一次大戦末から直後にかけての外米供給の「途絶」であった。米騒動をひきおこした米価の暴騰は,まさに,外米供給の安定性が崩れ,日露戦後の供給構造が瓦解したことに基因するものであった。ひとたび停止状態に陥った外米への依存を継続することは,「供給の確保」という観点からきわめて「危険」なものとなった。外米供給の「不確実さ」は1920年代の食糧問題の基底に位置しており,米騒動の記憶は政策担当者の脳裏に長く鮮烈にとどまった。食糧問題はここに第二の局面に移行し,食糧政策も一転して食糧自給を模索しはじめた。食糧自給は現実的には植民地を含む「自給」であったが,その実現はたやすいものではなく,米価が上昇するにもかかわらず外米消費が後退した20年半ばには,再び「危機的」と認識されるような状況をむかえた。

 食糧「自給」達成を目指す国内・植民地双方の増産は,米穀生産をめぐる両地の環境の相違,および関税障壁が存在しないという条件のもとで,両地の米作の競合をより直接的なものとした。「国内農業保護」を標榜する農林省の成立は,その「調整策」としての国内米価維持政策を実施する主体が形成されたことを意味した。1925年の米穀法の第一次改正はそれを現実のものとし,増産と米価維持の有機的結合が食糧「自給」をはかる具体策となった。ただしこの「調整策」は,移入税が存在しないもとでは大きな限界を背負っていた。つまり1920年代後半の食糧政策は,結果として大量の植民地米移入を国内にもたらし,食糧「自給」の達成を促進した。食糧供給構造はここに二重の対外依存から植民地依存へと急速に傾斜して外米依存を克服したが,この「自給」達成の過程は,食糧供給構造のなかに植民地を組み込み,国内の米価が「構造的」に低位に安定する過程でもあった。食糧政策は,植民地米移入を促進する機能を果たしたものの,国内米価を維持する効果には乏しかったのである。

 大恐慌と,1930・33年産米の記録的豊作による30年代はじめの供給過剰は,「構造的低米価」を決定的にした。政治問題化した米価問題への対処は恐慌対策の主要な一環となり,米穀統制法の施行を画期として米価維持政策はようやく本格化していく。ただし,確固とした供給過剰認識が形成されるとともに,「自給」課題を達成した食糧政策は,植民地米移入規制構想を具体化させる一方で,増産と米価維持の有機的結合を,後者が前者を圧倒する形で解き放ち,それ自体「消滅」していった。ところでこの「消滅」は,食糧問題が第三の局面,すなわち植民地米移入圧力のもとで,国内米作を如何に保護し発展させて食糧「自給」を維持するか,という具体的問題としては認識されなかったことを意味する。いったん成立した食糧「自給」政策は,植民地への依存を前提条件としたにもかかわらず,「自給」を雑持するプランを内包するものではなく,継続性・安定性に乏しかったのである。

 ところで,食糧政策が変容し「消滅」する一方で,1930年代半ばの需給関係は,客観的には「過剰」から「不足」へと転じつつあった。このように,1920年代後半に増産態勢を確立した食糧「自給」政策は,30年代はじめから限界を露呈していた。さらに日中戦争が本格化しても,なお過剰認識が支配するもとでは,増産態勢が本格的に再編されることはなかった。したがって,戦時期に植民地米供給が収縮して対外依存の前提が急速に崩れはじめると,戦時食糧問題は構造的な性格を帯びて,にわかに表面化することになった。厳格な供出制度,二重米価制など格段に強化された戦時食糧政策の登場は,対外依存に立脚した米穀供給構造が根底から動揺・崩壊したことに基因するものであった。

審査要旨

 近代日本における米を中心とした食糧に関する政策史の分野には、戦前以来かなり多数の研究の蓄積が存在しているが、1880年代から1930年代にかけての食糧政策を対象とする本論文は、次の諸点において新たな研究水準を画すものである。

 1 従来の研究は米価問題に視野を限定するものが多かったのに対して、本論文は、米価だけではなく、米を中心とする食糧需給をも含めて、政策の前提となる「食糧問題」をとらえる。そして、1900年頃を画期とする外米依存にともなって生じた正貨流出問題、第1次大戦末から明確化した外米供給の不安定性の問題、1930年代初の植民地米増産にともなう構造的低米価問題など、食糧問題の最重要課題が時期によって変転していった過程を、国際米穀市場をも視野に入れつつ解明している。

 2 従来の政策史研究は、米価政策に視野を局限することが多かったのに対して、本論文は、「食糧政策」をより広く、食糧問題の最重要課題の変転に対処して重点を変化させつつ展開された、米穀の生産・流通両過程にわたる諸施策の総体としてとらえ、「内地」・植民地での米増産、米穀輸移入税、米穀買上げ・払下げなどをめぐる政策の、曲折に満ちた展開過程を、明快に整理しつつ解明している。

 3 米価問題に主眼をおく従来の研究は、低米価を求める資本家勢力と高米価を求める地主勢力が、帝国議会や審議会を舞台に対立を繰り返し、政府・官僚がそれを調停・調整する過程で政策が決定されるという図式を前提に、進められる場合が多かった。これに対して、戦前日本における政策決定過程においては、政府・官僚の主導性が極めて強かったと考える立場から、本論文は、政府・官僚の食糧問題に対する認識・政策構想・政策立案と政策実施過程を、分析の中心に据えている。その結果、従来は視野の外におかれていた側面を含めて、食糧政策の歴史的展開を、広い視野から体系的に明快に解明することに成功している。

 4 従来の研究は、上記のような視野の限定のため、その使用史料においても、帝国議会や審議会関係史料などに限られがちであった。しかし上記のような観点に立つ本論文は、農商務省(農林省)史料や台湾所在の台湾総督府史料などを発掘・活用し、その結果、極めて実証性の高い議論の展開に成功している。

 一方、本論文の問題点として、食糧政策を供給量保証政策中心にとらえたため、供給過剰時の政策課題が軽視されていないか、また、前半部に比べて、米穀需給調節特別会計の財政的分析が不十分であるなど、後半部の実証密度がやや手薄ではないか、といった点を指摘せねばならない。

 しかし上記のような成果を上げていることを考慮すれば、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当する論文であると判断する。

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