学位論文要旨



No 211895
著者(漢字) 浦尾,剛
著者(英字)
著者(カナ) ウラオ,タケシ
標題(和) 植物の乾燥ストレス応答に関する分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 211895
報告番号 乙11895
学位授与日 1994.09.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11895号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,秀夫
 東京大学 教授 児玉,徹
 東京大学 教授 森,敏
 理化学研究所 主任研究員 篠崎,一雄
 東京大学 助教授 河村,富士夫
内容要旨

 植物は乾燥ストレスに対して、個体、組織、細胞レベルのみならず遺伝子レベルでも応答していることが知られている。植物が感知した環境情報は、細胞内のシグナル伝達経路を介して核内に到達され、様々な遺伝子の発現を誘導し、環境変化に適応した生理作用を発現するようになる。乾燥ストレスの受容から遺伝子発現に至るシグナル伝達経路には、植物ホルモンのアブシジン酸(ABA)を介する経路とABAを介さない、おそらく2次メッセンジャーを介する経路があると考えられている。さらに、ABAを介したシグナル伝達系には、タンパク質合成を必要とする経路と必要としない2つの経路が存在することも知られている。

 ABAを介する経路に関しては、ABA誘導性の遺伝子を用いてABA応答に関わる複数のシス・トランス因子が同定されており、これらの因子群が複雑に作用した遺伝子発現調節の機構が明らかにされつつある。一方、ABAを介した経路でタンパク質合成を必要とする経路やABAを介さない経路を経て遺伝子発現に至る機構に関しては、詳しく解析されていない。動物の細胞増殖の研究から、細胞周期の進行調節に必須な後期遺伝子群は、その転写に新規のタンパク質合成を必要とすることから、初期遺伝子群にコードされる一部の転写因子によって制御されていると考えられている。同様に、もし乾燥ストレスまたはABAによって誘導される転写因子が存在するならば、それはABAとタンパク質合成を必要とする経路で重要な役割を果たしていると考えられる。また、光やエチレンによる遺伝子発現にCa2+が関与していることが示されていることから、乾燥ストレス下の遺伝子発現にもCa2+が2次メッセンジャーとして関与している可能性がある。細胞内Ca2+濃度の上昇は、カルモジュリンやプロテインキナーゼ等のカルシウム受容タンパク質を活性化し、様々な酵素活性の変化や遺伝子発現を誘導し、刺激に応答した生理作用を発現するようになる。このようなCa2+を介したシグナル伝達系において、Ca2+の作用点のひとつであるプロテインキナーゼは、その中心的役割を担っていると考えられる。

 本研究は、植物の乾燥ストレス応答に関与するシグナル伝達経路を分子レベルで明らかにすることを目的として、シグナル伝達系を構成する転写因子やプロテインキナーゼに注目し、乾燥処理したシロイヌナズナのcDNAライブラリーからMYB相同性遺伝子およびカルシウム依存性プロテインキナーゼをコードするcDNAを単離した。さらに、これらの遺伝子の環境ストレスによる発現誘導、遺伝子産物の機能および乾燥ストレス下のシグナル伝達系への関与を解析した。

1.シロイヌナズナのMYB相同性遺伝子の解析

 植物のMYB相同性遺伝子であるトウモロコシC1,P1,Pは、アントシアニン色素合成系の酵素遺伝子の発現を調節している。特に、C1遺伝子の種子特異的発現にABAが関与していることから、植物体の乾燥ストレス応答におけるABAを介した遺伝子発現調節にもMYB相同性遺伝子が機能している可能性が考えられた。そこで、PCR法を用いてシロイヌナズナから2種のMYB相同性遺伝子(Atmyb1とAtmyb2)をクローニングし、その発現と機能をこついて解析した。

 ノーザン解析の結果から、Atmyb2遺伝子は乾燥、高塩濃度、ABA処理によって誘導されるが、低温、高温には応答しないことが示された。さらに、プロモーター/GUS融合遺伝子を導入したトランスジェニック植物を用いて、乾燥ストレス応答時のAtmyb2プロモーターの作用を調べたところ、乾燥処理によって内在のAtmyb2の誘導と同様にGUSmRNAの蓄積も認められ、Atmyb2の乾燥ストレスによる発現誘導が転写レベルで調節されていることが明らかになった。また、GUS活性の組織化学的解析で、成熟種子や乾燥前の根端でGUS活性が検出された。この事は、Atmyb2は乾燥ストレス応答のみならず、種子成熟や細胞増殖などの発生・成長のプログラムにも関与している可能性を示唆している。塩基配列の解析の結果、ATMYB1およびATMYB2タンパク質ともN末端側には動物のc-Mybと相同なDNA結合ドメインが、C末端側には転写活性化ドメインと推定される酸性領域が存在し、転写因子として機能しうる構造的特徴を持っていた。しかしながら、c-Mybの塩基配列特異的な結合に重要なDNA結合ドメインの第3リピートのヘリックス・ターン・ヘリックス(HTH)領域と比較すると、ATMYB2では一部のアミノ酸残基に置換が見られるのに対し、ATMYB1のこの領域はc-Mybと極めて高い相同性を示したことから、両者の間でc-Mybの認識配列に対して異なるDNA結合特性を示す可能性が示唆された。これを確かめるために、大腸菌を宿主として遺伝子組み換えタンパク質を作製し、ゲルシフト法でDNA結合活性を調べた。大腸菌で発現させた組み換えATMYB1およびATMYB2タンパク質とも、塩基配列特異的にc-Mybの認識配列(TAACTG)と結合することが示されたが、ATMYB1とATMYB2とでは結合の親和性が異なっていた。この違いは、第3リピートのHTH領域におけるc-Mybとの両者の相同性の違いによるものと推察される。ATMYB2のDNA結合能が乾燥ストレスを受けていない植物の核抽出液中のリン酸化活性により抑制されることが示され、ATMYB2の活性は転写レベルのみならず、翻訳後修飾レベルでも調節されている可能性が示唆された。リン酸化による翻訳後修飾レベルの活性調節は、乾燥ストレス以前に発現している活性の抑制、またはストレス回避後の速やかな活性消失に関与しているものと考えられる。

 Atmyb2の発現が乾燥、高塩濃度、ABA処理によって誘導されることから、植物が乾燥ストレスという環境変化を細胞内の浸透圧変化として感知し、ABAの合成を介してAtmyb2の発現に至ると考えられる。さらに、ABAを介して遺伝子発現に至る経路には、タンパク質合成を必要とする経路と必要としない経路が存在することから、ATMYB2は前者の経路に必要な新規に合成されるタンパク質因子のひとつで、この経路を介して誘導される遺伝子群の発現調節に関与しているものと考えることができる。

2.シロイヌナズナのカルシウム依存性プロテインキナーゼの解析

 乾燥時の気孔の開閉にABAとともにCa2+が重要な役割を果していると考えられている。Ca2+を介した植物のシグナル伝達系には、カルモジュリンやカルモジュリン依存性プロテインキナーゼ等の他に、カルシウム依存性プロテインキナーゼが機能していると推定されている。そこで、乾燥時のシグナル伝達におけるカルシウム依存性プロテインキナーゼの機能を解析するために、PCR法を用いて乾燥植物由来のcDNAライブラリーから3種のカルシウム依存性プロテインキナーゼをコードするcDNA(cATCDPK1,2,3)をクローニングし、その発現と機能について解析した。

 ノーザン解析により、ATCDPK1およびATCDPK2は乾燥、高塩濃度によって発現が誘導されるが、ABA処理、低温、高温には応答しないことが示された。特に、乾燥ストレスに対しては、30分以内に誘導される速い応答性を示したことから、これらの乾燥誘導性カルシウム依存性プロテインキナーゼは、一過的な細胞内のCa2+レベルの変動に対応するために転写レベルでも非常に速く誘導されるものと考えられる。塩基配列の解析から、3種のATCDPKともN末端側のラットCaMキナーゼIIと相同な触媒ドメインと、C末端側の4個のE-Fハンドを有するカルモジュリンと相同な調節ドメインからなる構造を持っていた。また、触媒ドメインと調節ドメインの結合部には、ラットCaMキナーゼIIの自己阻害ドメインと相同な塩基性アミノ酸に富む領域と自己リン酸化部位と推定されるSer残基が存在し、これらのATCDPKにもカルシウム依存性の活性化機構が存在していることが示唆された。これを確かめるために、大腸菌を宿主とした遺伝子組み換えタンパク質を作製し、試験管内リン酸化反応でカルシウム依存的活性化を調べた。大腸菌で発現させた組み換えATCDPK2タンパク質は、カルシウム依存的にカゼイン、ミエリン塩基性タンパク質、ヒストンをリン酸化することが示された。また、自己リン酸化を示す活性も検出された。以上のように、ATCDPK2は構造的にも機能的にもカルシウム依存性プロテインキナーゼであることが確かめられた。

 乾燥誘導性のカルシウム依存性プロテインキナーゼの存在は、植物の乾燥ストレス応答にタンパク質リン酸化を介したCa2+シグナル伝達系が作用していることを示唆している。細胞内Ca2+濃度は、ABAや浸透圧ストレスよって一過的に上昇することが知られていることから、ATCDPK1およびATCDPK2は、乾燥ストレス時に細胞内に動員されたCa2+を検知し、様々な生理的変化に関与する酵素や乾燥誘導性遺伝子の発現調節に関与する転写因子の活性をリン酸化によって調節しているものと思われる。

 本研究結果は、植物のMYB相同性遺伝子群のひとつが乾燥ストレス応答性遺伝子群の発現調節に関与していること、および乾燥ストレス下の細胞応答にタンパク質リン酸化を介したCa2+-シグナル伝達系が存在することを示唆するものであり、大きな遺伝子ファミリーを形成し、多彩な機能を果たしていることで知られているMYB相同性遺伝子やカルシウム依存性プロテインキナーゼに新たな機能を見い出した。さらに、これらの乾燥誘導性のシグナル伝達系構成分子の存在は、植物が乾燥ストレスを受けるとシグナル伝達系を構成するメンバーを変化させ、乾燥ストレスに対する細胞応答の特異性を生みだしている可能性を示唆しており、植物独自の環境適応戦略と考えることができる。

審査要旨

 植物はさまざまな環境からの刺激に対して,個体,組織,細胞,遺伝子のレベルで応答する。植物が感知した環境情報は,細胞内のシグナル伝達系を経由して核内に伝わり,種々の遺伝子の発現を誘導あるいは抑制する。乾燥ストレスの受容から遺伝子発現に至るシグナル伝達系には,植物ホルモンのアブシジン酸(ABA)を介する経路と2次メッセンジャーを介する経路があると考えられているが,その詳細な機構についてはまだ十分に解明されていない。

 本研究は,植物の乾燥ストレス応答に関与するシグナル伝達系を分子レベルで明らかにすることを目的とし,シグナル伝達系を構成する転写因子やプロテインキナーゼの解析を行ったものである。

1.シロイヌナズナmyb相同性遺伝子の解析

 トウモロコシで同定されたmyb相同遺伝子の一つC1の発現にABAが関与していることが示された。このことは,乾燥ストレス応答におけるABAを介した遺伝子発現調節にmyb相同遺伝子が関わっている可能性を示唆している。そこで本研究では,シロイヌナズナよりmyb相同遺伝子を単離・解析し,乾燥ストレス応答系における役割について検討を行った。

 シロイヌナズナのcDNAライブラリーより,8種のmyb相同性遺伝子(Atmyb1〜Atmyb8)をクローニングした。これらのクローンの中で無処理植物由来のAtmyb1ならびに乾燥植物由来のAtmyb2についてそれぞれのcDNAの全長を単離し,塩基配列を決定した。その結果,Atmyb1とAtmyb2は,それぞれ393,274アミノ酸のポリペプチドをコードするORFを含むことが分かった。これらのアミノ酸配列にはMyb蛋白質に特有なTrpを含むヘリックス・ターン・ヘリックスが保存されていた。大腸菌で発現・精製したATMYB1,ATMYB2蛋白質ともにc-Myb蛋白質の認識配列(TAACTG)と結合することが確認されたが,結合親和性には違いが認められた。

 次に乾燥ストレスによるAtmyb2遺伝子の発現調節を明らかにするためノーザン解析を行った。その結果,乾燥時ならびにNaClやABAの処理によってもAtmyb2遺伝子の発現誘導が認められた。Atmyb2は,乾燥や高塩濃度などの水ストレスに応答性を示す遺伝子であり,この発現にABAが関与していることが示唆された。Atmyb2遺伝子の発現調節領域にレポータとしてGUS遺伝子を連結した融合遺伝子をシロイヌナズナに導入したトランスジェニック植物を作成し,乾燥時にGUS遺伝子の発現誘導が起こることを確認した。

2.シロイヌナズナのカルシウム依存性のプロテインキナーゼの解析

 乾燥植物由来のcDNAライブラリーよりカルシウム依存性プロテインキナーゼ遺伝子,ATCDPK1〜ATCDPK3をクローン化し,塩基配列の決定と発現調節の解析を行った。これらの遺伝子産物は,いずれもN末端側に触媒ドメインを,またC末端側にE-Fハンドを有するカルモジジュリン様の調節ドメインを持つことが明らかにされた。

 ノーザン解析の結果,ATCDPK1とATCDPK2は,乾燥時,高塩濃度時に誘導発現されるが,ABA添加によっては誘導されないことが明らかになった。このことはATCDPK1とATCDPK2の発現誘導は,ABAに非依存的に短時間に起こることを示している。次にATCDPK1とATCDPK2遺伝子を用いて大腸菌での過剰発現を行った。このようにして精製したATCDPK2蛋白質にはカルシウム依存性プロテインキナーゼ活性が認められた。

 以上を要するに本研究では,植物のmyb相同性遺伝子の一つが乾燥ストレス応答性遺伝子群の発現調節に関与していること,さらに乾燥ストレス下の細胞応答に蛋白質リン酸化を介したカルシウム-シグナル伝達系が存在することを示したものであり,学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判定した。

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