学位論文要旨



No 211897
著者(漢字) 川崎,安亮
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,ヤスアキ
標題(和) イヌの聴性脳幹誘発電位に関する基礎的および応用的研究
標題(洋)
報告番号 211897
報告番号 乙11897
学位授与日 1994.09.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第11897号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 助教授 局,博一
 東京大学 助教授 西原,真杉
内容要旨

 イヌにとって聴覚は重要な感覚のひとつであり,その正常な機能および難聴における病態生理学的研究は重要であると考えられる.音刺激によって聴覚求心性経路上に誘発される電位変化のうち,内耳から脳幹までに由来すると考えられているものが,聴性脳幹誘発電位(Brainstem Auditory Evoked Potentials:BAEPs)である.イヌのBAEPsに関しては,BAEPsそのものに関する基礎的研究のほかに聴器毒性への応用や聴力の発達過程の指標に用いた報告などがある.しかしながら,イヌのBAEPsの陽性頂点の命名は混乱しており,BAEPsの成分に影響をおよぼす要因についての基礎的検討が必要とされる.一方,獣医臨床における耳科学的な応用のためには,刺激音の周波数との関連性についても検討する必要がある.

 そこで本研究では,BAEPsの構成周波数成分を解析し,波形に影響をおよぼす要因,初期陽性頂点の発生源と両耳間相互作用およびBAEPsに関与している音の周波数成分に関する基礎的検討を行い,さらに老年性難聴のイヌに応用することで,BAEPsが聴力の客観的指標となりうるかどうかを評価することを研究目的とした.

1)BAEPsの構成周波数成分の解析

 イヌのBAEPsの構成周波数成分と2重構造を明らかにする目的で,パワースペクトル解析およびデジタルフィルタリングを行った.また,アナログフィルターの設定における最適な遮断周波数を明らかにする目的で,その遮断周波数がBAEPsにおよぼす影響を検討した.

1-1)パワースペクトル解析およびデジタルフィルタリング

 イヌのBAEPsに含まれている周波数成分は四つの周波数帯域,A(30-390Hz),B(390-680Hz),C(680-910Hz)およびD(910-1960Hz)に分けられた.各陽性頂点の振幅が有意に減少したデジタルフィルターの遮断周波数の上限と下限は,P1:1170〜1270Hz,P2;290〜1170Hz,P3:290〜980Hz,P4:290〜980Hz,P5:200〜880Hzであった.各陽性頂点および陰性頂点を形成している高周波数成分は主に周波数帯域DおよびCから,slow deflectionは主に周波数帯域AおよびBから形成されていた.また,各陽性頂点は,P1を除き,かなり幅の広い周波数成分から成っており,これらの頂点が複数の発生源由来の電位から合成されたものであることを示唆していた.

1-2)アナログフィルターの影響

 アナログLPフィルターが位相の遅延をもたらすことが確認された.この影響が現れた遮断周波数が各陽性頂点で異なっていたことは,デジタルフィルタリングの結果を裏付けていた.アナログHPフィルターは,P4の振幅に有意に影響したが,これは低周波数成分であるslow deflectionが除去されたためであると考えられた.

 以上の成績より,イヌのBAEPsを記録する場合のアナログフィルターの最適な遮断周波数は,HPフィルターが53Hz以下,LPフィルターが3kHzであることが明らかとなった.

2)BAEPsの波形に影響をおよぼす要因の検討

 BAEPsの波形の変異や命名における混乱の原因を明らかにする目的で,電極配置ならびにクリック音の極性と音圧がBAEPsにおよぼす影響を検討した.さらに,クリック音の音響特性を明らかにする目的で,ヘッドフォンから出力されている音波形を記録した.

 2-1)電極配置ならびにクリック音の極性と音圧の影響

 Vertex-Ai誘導でalternating刺激による波形を基準とした場合,大きな谷の前の四つの陽性頂点(P1〜P4)と,それに続く5番目の陽性頂点(P5)が容易に識別できた.基準電極を頭部外に置く(Vertex-Nape誘導)か,クリック音の極性を単一(rarefaction刺激あるいはcondensation刺激)にする,あるいはその両方で,P1-P3までの陽性頂点が分裂し,出現する陽性頂点の数が増加した.分裂した陽性頂点の命名は,先行するものに"a"を,後に続くものに"b"を付けた.電極配置は頂点潜時およびP1a-P4頂点間潜時には影響をおよぼさなかったが,クリック音の極性は影響をおよぼした.一方,peak-to-peak振幅は電極配置とクリック音の極性の両方の影響を受けた.また,クリック音の刺激強度を低下させると,P5の頂点振幅を除き,全ての頂点潜時は有意に遅延し,peak-to-peak振幅は有意に減少した,

 2-2)クリック音の分析

 持続時間100sの矩形波をヘッドフォン(TDH-49P)に通したときに得られるクリック音の周波数成分には.約6kHzまでの音かほぼ均等に含まれていた.また,矩形波と音波形の極性が一致していたことが確認された.

 以上の成績から,これまでに報告されているイヌのBAEPsの波形や命名の相違は,電極配置とクリック音の極性がおよぼす影響により,すべて説明できることが明らかとなった.

3)初期陽性頂点の発生源と両耳間相互作用の検討

 初期陽性頂点であるP1aおよびP1bの発生源を明らかにする目的で,第8脳神経の伝導遮断および脳幹ならびに第8脳神経表面からの細胞外電位の記録を行った.さらに両耳間相互作用についても検討することで,動物種間での各陽性頂点の対応関係について考察した.

3-1)伝導遮断の影響と細胞外電位の記録

 内耳孔の部位で第8脳神経の伝導を遮断すると,P1aは残存したが,P1b以降の全ての陽性頂点は消失した.蝸牛神経核外側端から記録された細胞外電位であるN1の潜時とP1bの頂点潜時がほぼ一致した.第8脳神経の表面から記録されたN1の潜時から算出した第8脳神経の伝導速度は11.5m/sとなり,実測した第8脳神経の長さ(3.5mm)と伝導速度から計算した伝導に要する時間(304s)は,P1aとP1bの頂点間潜時(340s)に近い値となった.したがって,イヌのP1aは頭蓋外の神経性の電位を,P1bは頭蓋内の電位で,シナプス前における電位変化,おそらく蝸牛神経核内の第8脳神経の活動電位を反映したものであることが示唆された.

3-2)両耳間相互作用

 両耳間相互作用により生じた波形の最初の大きな陽性頂点は,P4とほぼ同じ頂点潜時を示し,その立上りの潜時は,P3a付近であった.

 以上の成績より,イヌのP1aおよびP1bはネコのP1aおよびP1bと相同の成分であり,ヒトのI波およびII波にそれぞれ対応していること,および,イヌのP4以降の波形がネコのP4以降およびヒトのV波以降の陽性頂点に対応していることが示唆された.

4)強大純音負荷がBAEPsにおよぼす影響の検討

 クリック音刺激によるBAEPsに関与している音の周波数成分について明らかにする目的で,強大純音負荷(124dBSPL)がBAEPsにおよぼす影響について検討した.また,BAEPsが消失した個体の有毛細胞を,走査型電子顕微鏡(走査電顕)により観察した.

4-1)BAEPsにおよぼす影響

 4kHz純音の負荷が最も著しい影響をおよぼし,負荷開始15分後でBAEPsのすべての陽性頂点は識別できなくなった.また,変形した波形が残存する個体も観察された.4kHz純音に次いで影響が大きかったのは,3kHzおよび5kHz純音であった.6kHz純音はP3aとP4を除きほとんど影響をおよぼさなかった.8kHz純音もP3aとP4を除き,ほとんど影響をおよぼさなかった.一方,P5は他の陽性頂点がほとんど影響を受けなかった2kHz負荷でも振幅は25.0%まで減少した,

4-2)走査電顕による所見

 走査電顕で有毛細胞のsurface preparationを観察したところ,4kHzの純音負荷によりBAEPsが消失した個体の蝸牛では,蝸牛窓から頂回転に向かって1/8回転から3/8回転までの有毛細胞が障害を受けていた.とくに3/8回転付近で,内および外有毛細胞の消失が観察され,4kHzの純音負荷による限局性の障害が確認された.

 以上の成績より,クリック音刺激により誘発されるイヌのBAEPsの形成に主に関与している音の周波数帯域は4kHzから6kHzまでであり,次いで3kHzから4kHzまでの音も部分的に関与していること,およびP5は他の陽性頂点に比べて,より低周波数成分に依存している割合が大きいことが示唆された.

5)老年性難聴のイヌにおけるBAEPsの応用例

 他覚的聴力測定法としてのBAEPsの有用性を明らかにする目的で,老年性難聴のイヌにおけるBAEPsの変化を検討し,合わせて走査電顕により有毛細胞を観察した.実験には,騒音や聴器毒性を示す薬物の投与経験など,聴力障害を引き起こすことがわかっている原因の関与がないイヌを用いた.このイヌは16歳齢において,行動学的に部分的な難聴を示していた.

5-1)BAEPsの所見

 行動学的に難聴を示した時点で,BAEPsの全ての陽性頂点,とくにP1aの頂点潜時は遅延した.また,振幅は減少し,電極配置によっては潜時の早い陽性頂点が識別できなかった.しかし,Vertex-Ai誘導,alternating刺激では,P4は難聴前の約40%,P5は約84%の振幅を示した.

5-2)走査電顕による所見

 基底回転において,内有毛細胞は残存していたものの外有毛細胞はほとんど消失していた.また,伝音性難聴の原因となる異常所見は,外耳および中耳において観察されなかった.

 以上の所見より,このイヌの難聴は,3kHzから6kHzまでの比較的高周波数領域における部分的な聴力異常が著しい,両側性の感音性難聴であり,行動学的に残存していた聴力は,より低周波数領域の音に対する聴力であったことが示唆された.

 以上の基礎的な検討,ならびに老年性難聴のイヌへの応用例の成績から,イヌの聴力の他覚的な評価にあたり,BAEPsは極めて有用な手法であると考えられた.

審査要旨

 五感からなる感覚器の中でも,聴覚はイヌにとっては極めて重要な意味をもっている。この聴覚機能をより客観的に評価する手段として,近年,聴性脳幹誘発電位(Brainstem Auditory Evoked Potentials:BAEPs)が注目され,獣医学領城においてもその基礎的,応用的研究が進められている。BAEPsは,音刺激によって聴覚求心性経路上に誘発される電位変化のうち,内耳から脳幹までに由来するものであるから,これを活用することによって,耳科学上のより適切な診断法として期待される。

 本研究は,イヌにおけるBAEPsの構成周波数成分の解析に始まり,BAEPsの波形に影響をおよぼす要因の分析,初期陽性頂点の発注源と両耳間相互作用の解明など,種々の基礎的検討を行った上で,実際に老年性難聴犬に応用し,これがイヌの聴力の客観的指標となり得るかどうかを評価しようとしたもので,研究の内容は5部に大別される。

 まず,イヌのBAEPsの構成周波数成分と二重構造を明らかにするために,パワースペクトル解析およびデジタルフィルタリングを,また,アナログフィルターの最適な遮断周波数を設定するために,その遮断周波数がBAEPsにおよぼす影響について検討をしている。その結果,各陽性頂点はP1を除き,かなり幅広い周波数成分から成っており,それらは複数の発生源由来の電位から合成されていること,イヌのBAEPsを記録する際のアナログフィルターの最適な遮断周波数はHPフィルターが53Hz以下,LPフィルターが3kHzであることを明らかにしている。

 つぎに,BAEPsの波形に影響をおよぼす要因を知るために,電極位置およびクリック音の極性と音圧がBAEPsにどのような影響をおよぼすかを検討するとともに,ヘッドフォンから出力されている音波形を記録してクリック音の音響特性を解析している。その結果,これまでに報告されているイヌのBAEPsの波形や命名についての成績の相違の原因は,電極の配置ならびにクリック音の極性の点から矛盾なく説明できることを明らかにしている。

 ついで,初期陽性頂点の発生源を調べるために,第8脳神経の伝導遮断と脳幹および第8脳神経表面からの細胞外電位の記録を行い,また,両耳間相互作用についても検討することにより,動物種間における各陽性頂点の対応関係について考察している。その結果,イヌのP1aは頭蓋外の神経性電位を,P1bは頭蓋内電位でシナプス前の電位変化(蝸牛神経核内の第8脳神経活動電位)を反映していること,イヌのP1aおよびP1bはネコの場合と同様にヒトのI波およびII彼にそれぞれ対応しており,イヌのP4以降の波形はネコのP4以降およびヒトのV波以降の陽性頂点に対応すると推察している。

 さらに,強大純音(124dB SPL)負荷がBABPsにおよぼす影響を機能と形態の両面から検討している。すなわち,クリック音刺激でBAEPsに関与する音の周波数成分を判別するとともに,BAEPsが消失した個体の蝸牛有毛細胞を走査電顕で観察した結果,クリック音刺激により誘発されるイヌのBAEPsの形成に関与する音の周波数帯域は主として4〜6kHzであるが,3〜4kHzの音も部分的に関与すること,P5は他の陽性頂点に比べてより低周波数部分に依存する割合が大きいことを推測している。

 最後に,上述のような種々の基礎的検討結果をふまえて,BAEPsを実際に老年性難聴犬に応用している。行動学的に部分的な難聴を示す16歳の老齢犬を対象に経年的にBAEPsを記録し,その波形変化の解析結果と死後の走査電顕による蝸牛有毛細胞の形態的変化結果を対比して,このイヌの難聴は3から6kHzまでの比較的高周波領域における部分的聴力障害が顕著な,両側性感音性難聴であり,行動学的に残存していた聴力はより低周波数領域の音に対するものであったと診断している。

 以上要するに,本論文はこれまで十分に検討されていなかったイヌのBAEPsに関する基礎的事項を種々の側面から解明した上で,老年性難聴犬に応用し,これがイヌの聴力の他覚的評価において極めて有用な手法となり得ることを実証したもので,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって,審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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