No | 211907 | |
著者(漢字) | 赤木,美智男 | |
著者(英字) | Akagi,Michio | |
著者(カナ) | アカギ,ミチオ | |
標題(和) | 非線形システム論による正常成人の呼吸リズムの解析 | |
標題(洋) | An analysis of respiratory rhythm in normal subjects using nonlinear dynamics | |
報告番号 | 211907 | |
報告番号 | 乙11907 | |
学位授与日 | 1994.09.14 | |
学位種別 | 論文博士 | |
学位種類 | 博士(医学) | |
学位記番号 | 第11907号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 安静時の呼吸は、周期的運動ではあるが、それぞれの呼吸は厳密には同一ではない。この、一呼吸ごとの呼吸のゆらぎ(以下単にゆらぎ)が、決定論的な機序によって生ずるのか、それとも単にランダムな動揺なのかということは、スペクトル解析や自己回帰モデルなど、様々な解析法を用いて研究されてきた。しかし、これらの方法では、このゆらぎの機序を十分に説明することはできなかった。 非線形システム論、すなわちカオス理論は、様々な生体システムの複雑なふるまいを、決定論的機序で説明できる理論として、広く応用されるようになってきているが、正常の呼吸リズムを、この理論を用いて解析した研究は、未だ少ない。 本研究の目的は、非線形システム論の解析法を用いて、呼吸のゆらぎが呼吸調節システムの決定論的機序に由釆するものか否か、すなわち(このゆらぎは非周期的なので)カオス的であるか否かを明らかにすることである。 6名の健康な非喫煙者(男性5名、女性1名)を対象とした。外的および内的(心理的)外乱を最小限にするために、実験は夜間、被検者の睡眠中に行われた。 呼吸パターンへの影響が最も小さいと考えられる、誘導プレティスモグラフ(RespitraceTM、以下RIP)を用いて、肺容量の変化を連続測定した。RIPの出力信号は12ビットのA/D変換器を通してサンプリング周波数100Hzにて量子化し、パーソナルコンピューターシステムに記録した。RIPのキヤリブレーションは等容量法によった。睡眠ステージの同定のために、脳波と電気眼位図を同時記録した。 RIP出力の全記録のうち、およそ10分以上同一睡眠ステージが持続し、かつ体動のない区間(1つのステージにつき1区間とは限らない)を選び、分析の対象とした。量子化効果を平滑化するため、多項式適合法を用いた。肺容量の一次微分として瞬時の流量を求め、その符号の変わる時点より吸気相と呼気相を同定した。 分析の対象としたデータセットは、過渡状態を過ぎて定常状態にある時のデータであると考えられるので、システム変数は相空間内のアトラクタ上を運動していると仮定できる。このアトラクタを、実験で得られたただ1つの変数、すなわち肺容量(の変化分)から、相空間内に再構成するために、「埋めこみ」の技法を用いた。 カオスの有無を調べるために、5種類の分析法を用いた。すなわち、 (1)吸気時間、呼気時間、全呼吸時間、一回換気量のリターンマップ (2)Grassberger-Procacciaのアルゴリズムによるアトラクタの相関次元 (3)Wolf、Swift、Swinney、Vastanoらのアルゴリズムによる最大リアプノフ指数 (4)Sugihara-Mayのアルゴリズムによる非線形予測法 (5)Kaplan-Glassの平均方向ベクトル法 カオスを同定するための非線形システム理論の分析法では、時にカオスとそうでないデータとの両方で類似した結果が出ることがあるので、実験データがカオスであると結論づけるためには、実験データの分析結果と、帰無仮説として導入されたカオスでないデータの分析結果との間に、明確な差があることを示すことが必要である。そこで、実験データから選んだ一周期分の典型的な波形を、横軸(時間)と縦軸(肺容量)の方向にランダムに変形させてつなぎあわせ、見ただけでは実験データと区別できないが、そのダイナミクスはカオスではなく「雑音の交じった周期性(noisy limit cycle)」であるシミュレーションデータを作った。 シミュレーションデータは当然であるが、実験データから描いたリターンマップも、例えば「V」型のように決定論的ダイナミクスを示唆するような特別のパターンを示さなかった。 実験データもシミュレーションデータも、scaling region、すなわち相関積分C(r)の対数がInrに対して直線となるようなInrの領域を特定することが困難であった。そのうえ、適当にscaling regionを決めて算出した相関次元は、埋め込み次元が増加するにしたがって増加し続け、一定値に漸近するようには見えなかった。 正のリアプノフ指数は、初期値に対する鋭敏な依存性を示しており、それゆえ理論的にはカオスを直接表すパラメータである。しかし、実際の計算においては、結果はevolution timeや埋め込み次元などの計算パラメータの選びかたによって影響されるので、その解釈には慎重でなくてはならない。 実験データとシミュレーションデータの結果は、類似していて、いずれのデータからも正の値が得られたが、evolution timeや埋め込み次元などを変化させると計算結果も変化した。これは、アルゴリズムに問題(適応の限界)があることを示しており、正の値が得られたことをもってカオスの証拠と考えることはできない。 実験データは、おそらくその強い周期性(一種のdeterminism)のために、短時間の予想は正確であったが、予想時間が大きくなるにつれて正確さは低下した。しかし、シミュレーションデータもまったく同様の傾向を示したので、必ずしもカオスを示してるとはいえない。 実験データとシミュレーションデータの∧は、時間遅れ 呼吸の時相と深さは、被検者が定常状態にあり、外乱がほとんどない場合でも、非周期的なゆらぎを示す。このゆらぎは、以下の理由により、単にランダムなものではなく、カオスあるいは準周期運動であると仮定しうる。 (1)ゆらぎの存在にもかかわらず、血液ガスのレベルは非常に狭い範囲にユントロールされている。 (2)呼吸調節システムは、多重フィードバックループ構造をもち、これは、カオス的ふるまいを示すシステム構築の典型的なもののひとっである。 (3)過去の研究で、連続する二またはそれ以上の呼吸のパラメータ間に有意の相関を認めたものがかなりある。 実験データの波形から容易にわかるように、呼吸は強い周期性をもった運動である。しかし、一呼吸ごとのゆらぎに注目すると、そのゆらぎの程度は周期性を持たないように見える。このようなふるまいを示すものは、カオス、準周期性、ランダムなゆらぎを含む周期性(noisy limit cycle)の3種のカテゴリーが考えられ、そのうちのどれが呼吸運動をもっともよく表しうるかを検討するのが本研究の目的であった。カオスと準周期性との鑑別は時に極めて困難であるので、我々は、noisy limit cycleにカテゴライズされるシミュレーションデータをつくり、実験データと比較することによって、実験データのゆらぎの中に決定論(カオスまたは準周期性)を見出そうと試みたわけである。 結果に示したように、実験データとシミュレーションデータの間には、我々の用いたいずれの分析法でも有意な差を見出し得なかった。このことは、つぎの4つの可能性を示唆する。 (1)測定ノイズのために、呼吸のダイナミクスが分析結果に反映されなかった。 (2)呼吸のゆらぎは呼吸調節システム内部の不規則な動揺のために生ずる。 (3)ゆらぎは決定論的機序によるものであるが、アトラクタの次元が高いため、限られた長さの実験データからは、それを証明し得なかった。 (4)睡眠ステージか一定の間は呼吸も定常状態であると仮定したが、この仮定が成立しなかった。 測定ノイズの許容範囲を決定することは困難である。なぜならば、許容レベルは、ノイズの種類、アルゴリズムの種類、データのサイズ、アトラクタの次元などによって異なるからである。RIPによる測定結果は、スパイロメータによって同時に測定した値と良好な相関(r=0.99)を示すので、RIPは肺容量の変化をかなり正確に測定できると評価しうる。しかし、アトラクタの性質が不明なので、ノイズ(誤差)が許容範囲かどうかは、やはり問題として残る。 より大きな(長時間の)データセットが得られない限り、(2)の可能性を否定することはできない。一方、(3)については、少なくともREM睡眠以外の睡眠ステージでは、呼吸調節システムのダイナミクスがそう頻繁には変わらないだろうと我々は考えている。データセットを2ないし8個のサブセットに分割して、それぞれのサブセットで相関次元を求めてみたが、サブセット間で有意に異なる結果は得られなかった。また、ステージIおよびIIの睡眠時では、換気のゆらぎは脳波のパターンと明らかな関連があったというPackらの研究から考えても、脳波が定常状態を示す間は、呼吸のダイナミクスも定常状態であると仮定して差し支えないと考えられる。 我々は、正常成人の呼吸における一呼吸ごとのゆらぎの成因として、決定論的な機序が関与している証拠を見出すことはできなかった。このことは、このゆらぎが、呼吸調節システム内部に由来するランダムなゆらぎか、あるいは高次元の決定論的機序によるものであることを示唆している。しかし、測定ノイズのために、低次元の決定論的機序を同定できなかった可能性も否定し得ない。我々の結論は、呼吸のゆらぎにもかかわらず、血液ガスのレベルか厳密にコントロールされているという事実に反するように思われるかもしれないが、ひとつひとつの呼吸よりも長い時定数を持つゆらぎに注目すれば、異なった結果が得られる可能性があり、今後の課題である。 | |
審査要旨 | 本研究は正常成人の睡眠時の呼吸に認められる不規則なゆらぎに注目し、その成因が決定論的機序によるもの(すなわちカオス)か、あるいは呼吸調節システムに内在するランダムなプロセスによるものかを検討することによって、呼吸調節システムの論理構造についての理解を深める目的で行われたものである。対象とした正常成人6名の睡眠時の呼吸パターンを、誘導プレティスモグラフを用いて記録し、これを非線形システム理論(カオス理論)の手法を用いて解析した。解析結果は、カオスであることがわかっている数学モデル、および外見上実験データと区別できないが、連続する2つの呼吸のパラメータの間に全く関連の無いように作られた(つまりカオスでない)シミュレーションデータの解析結果と比較され、以下の結果を得ている。 6名の被検者の各睡眠ステージから選ばれた合計28のデータセットを、リターンマップ、相関次元解析、最大リアプノフ指数、非線形予測法、平均方向ベクトル法の5種の方法で解析した結果、いずれのデータセットもシミュレーションデータと有意に異ならず、呼吸の不規則なゆらぎの原因としてカオスや準周期性のような決定論的なプロセスの存在を証明することはできなかった。すなわち、 1.リターンマップでは、カオスの例のようにV字型のような特別なパターンを示さず、実験データ、シミュレーションともに平均値の周辺に散在するパターンで、少なくとも、低い次元の決定論は存在しないことが示唆された。 2.相関次元解析では、カオスの例では、二点間の距離rの対数とrに対応する相関積分C(r)の対数とが直線関係を示すrの範囲(scaling region)が存在し、その直線の傾きから計算される相関次元は文献に記載されている値と一致したが、実験データおよびシミュレーションデータでは、scaling regionが明らかでなく、相関次元を求めることができなかった。このような結果は、ノイズを含んだ周期関数(noisy limit cycle)に特徴的であり、実験データおよびシミュレーションデータはカオスではなく、noisy limit cycleの範疇に入ることが示唆された。 3.最大リアプノフ指数は、実験データ、シミュレーションデータともに正の数値として求められたが、埋め込み次元など、計算を行うためのパラメータを変えると最大リアプノフ指数の値も変化し、したがって真のリアプノフ指数ではないと解釈された。シミュレーションデータはカオスでないことが判っているデータなので、その最大リアプノフ指数は0でなくてはならず、それが正の値となるのは計算のアルゴリズムの問題と考えられた。 4.非線形予測法では、実験データ、シミュレーションデータともに、近未来の値の予測はある程度正確であるが、予測時間が長くなると正確さがしだいに減少してくるパターンを示した。これは、カオスよりもむしろnoisy limit cycleに合致する結果であると考えられた。 5.平均方向ベクトル法は、データに含まれる決定論的な要素をある程度定量的に評価できる方法であるが、実験データとシミュレーションデータの間には有意な差は認めなかった。これは、実験データには呼吸のゆらぎを生ずる原因として決定論的なプロセスは含まれていないことを示していると考えられた。 このように、5種類の解析法の結果はすべて、実験データとシミュレーションデータは本質的に同一のダイナミクスを持つことを示唆したが、厳密には、実験データがnoisy limit cycleの範躊に入るものであることをいうためには、測定ノイズのレベルがどの程度のものであるかを評価しなければならない。スパイログラムと誘導プレティスモグラフとで同時測定した予備実験では、両者の測定値はきわめて良好な相関を示したが、高次元のカオスほどわずかなノイズによって同定不能となりやすいので、測定精度やデータの長さの限界以上に高次元の決定論が存在する可能性は残されている。 以上、本論文は、negative dataではあるが、従来から研究されながらまだ結論の出ていなかった「呼吸のゆらぎの成因」ということに関して、カオス理論という、呼吸生理学の分野ではまだあまり応用されていない方法論を用いて、できる限り厳密に検討を加えた研究として、今後の呼吸生理および生体の示す複雑なリズムについての研究に寄与するものと考えられ、学位の授与に値するものと認める。 | |
UTokyo Repositoryリンク | http://hdl.handle.net/2261/50653 |