学位論文要旨



No 211942
著者(漢字) 相澤,俊
著者(英字)
著者(カナ) アイザワ,タカシ
標題(和) 遷移金属炭化物および金属の表面上に形成された単原子層グラファイトのフォノン及び電子構造の研究
標題(洋) Phonon and electronic structure of monolayer graphite formed on transition-metal carbide and metal surfaces
報告番号 211942
報告番号 乙11942
学位授与日 1994.09.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第11942号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 教授 村田,好正
 東京大学 教授 寿栄松,宏仁
 東京大学 助教授 藤森,淳
 東京大学 教授 小間,篤
内容要旨

 グラファイトは典型的な層状構造を持つ常温常圧下で安定な炭素の同素体である。六角格子状に結合した1枚1枚のシートは切れた結合手を持たず、化学的に非常に安定である。このため、電極材料や炉壁材料としてよく用いられている。一方、NiやPtなどの遷移金属は触媒反応にとって重要なため、その表面での炭素の振舞いについては盛んに研究されている。その過程で、これらの表面上に単原子層のグラファイトができることは知られていたが、その性質については電子状態が純グラファイトに近いという実験結果が報告されている以外ほとんど知られていなかった。

 われわれは遷移金属炭化物の単結晶表面上に簡単に単原子層のグラファイト相を作ることができることを、低速電子回折(LEED)、オージェ電子分光法(AES)、高分解能電子エネルギー損失分光法(HR-EELS)、角度分解紫外線光電子分光法(ARUPS)を用いて見いだし、そのフォノン分散関係と電子バンド構造を測定した。

 超高真空中で遷移金属炭化物や金属の単結晶表面を清浄化し、試料を高温に保ったままエチレンガスを露出すると、表面の触媒作用によりガスが分解して表面にグラファイトが形成される。このグラファイトの格子定数をLEEDで見積もると、岩塩型構造の炭化物の(111)表面上やNi表面上では純グラファイトに比べて1〜3%伸びていた。これに対して、同し炭化物でも(001)表面上の場合や、Pt(111)上では格子定数は純グラファイトからほとんど変化していなかった。遷移金属炭化物上では純金属上に比べ、かなり高い温度(800〜1500℃)でグラファイトが形成できるので、できたグラファイトはドメイン構造ではあるがかなり良く方位の揃ったエピタキシャル超薄膜となり易い。

 HR-EELSによりこれらのグラファイト層のフォノン分散関係を測定した。図1に結果の一例を示すが、炭化物(111)やNi上のグラファイトでは純グラファイトに比べてフォノンがかなりソフト化していることがわかった。特に表面垂直方向に変位する光学モード(ZO)でソフト化が著しい。これに対して、炭化物(001)上やPt(111)上では純グラファイトからさほど変化していなかった。新たに力定数モデルを構築して測定したフォノン分散を解析すると、単原子層グラファイトでは結晶体グラファイトに比べ長距離力は弱まる傾向にあること、短距離力には前述のフォノンソフト化に対応しておおきな下地依存性があることがわかった。なかでも面に垂直方向の曲げに対する力は、炭化物(111)やNi表面上のソフト化しているグラファイトでは結晶体グラファイトに比べ50〜60%も選択的に弱化していた。グラファイトの結合は面内でsp2混成軌道による結合、面の上下でpZ軌道による結合である事を考えると、面に垂直な方向への曲げには結合の寄与が大きいことが期待され、この力定数の選択的弱化は結合の弱化に対応するものと考えられる。

図1.単原子層グラファイトのフォノン分散

 次にARUPSを用いて電子バンド構造を測定した。その結果、グラファイトのバンドが、フォノンが弱化したグラファイトではそうでないグラファイトに比べ1〜2eV結合エネルギーの深い方にシフトしていることがわかった。さらにいくつかの例では表面ブリリアンゾーンの端付近で、反結合性軌道が観測された。図2に測定された電子バンド分散の一例を示す。

図2.HfC(111)上の単原子層グラファイトの電子バンド構造

 同じ遷移金属炭化物(111)表面に他のガス(O2,CO等)を吸着させた表面をHR-EELSで観測した。解離吸着した原子状吸着種だけでなく、分子状吸着種も見つかった。これらの分子状吸着種では、分子内の結合が気体のときに比べてかなり弱化している事がわかった。

 これらの実験結果をグラファイト層間化合物の場合と比較してみよう。グラファイト層間化合物では電荷移動モデルが広く受け入れられてきた。それによると格子の拡大、フォノンのソフト化、およびバンドの高結合エネルギー側へのシフト全てが、反結合性軌道への炭素1原子当たり0.1〜0.3個の電子流入で説明できる。また、同じ下地での酸素の分子状吸着種の分子内結合弱化と単原子層グラファイトの結合弱化を比較しても、表面での結合の密度を考慮すれば上述の電荷移動量は良い値といえる。

 しかし、最近のX線光電子分光の実験や理論計算の結果によると、単原子層グラファイトでは大きな電荷移動はおこっていないと結論されており、単純な電荷移動モデルは疑問視されている。この場合、下地との軌道混成が重要な要素となり、グラファイト層全体として受け入れ電荷量がほとんど無くても、層内各軌道での電荷の再配分が可能であると考えられている。実験で確かめられた様に、確かに反結合性バンドには電子が入っており、フォノン分散より結論された面垂直方向の特徴的なソフト化はこの軌道の反結合性によるものであることは間違いない。

 結論として、我々は単原子層のグラファイトが比較的容易に遷移金属炭化物単結晶表面上に形成できることを見いだし、そのフォノン及び電子バンド構造を測定した。測定されたフォノンは、下地により大きな結合のソフト化を示し、そのような試料では電子的にもバンドが高結合エネルギー側にシフトし、反結合軌道が占有されていた。下地との相互作用によって、単原子層グラファイトは大きな影響を受け、特に反結合性バンドが占有されることで結合が弱化する事が明らかになった。

審査要旨

 ニッケルや白金などの典型的な触媒作用のある金属表面では、表面の炭素がカーバイトを形成するかあるいはグラファイトとして吸着するかなどの性質が詳しく調べられてきた。これら研究の過程で、このような金属の表面にはある条件下で単層のグラファイトが形成することが、オージェ電子分光、低速電子回折、紫外線光電子分光などの実験により指摘されてきた。しかしながら、グラファイトが単層であるという証拠は、オージェ電子強度という半定量的な測定から推測されていたにすぎなかった。一方、表面分析の一手法である電子エネルギー損失分光法では、1980年代に種々の改良によりエネルギー分解能が向上し、表面フォノンの分散測定が精密かつ広いエネルギー領域にわたってに行えるようになってきた。表面に形成されるグラファイトのフォノンの分散を調べることは、グラファイトが単層であることを明確に示せるばかりでなく、下地との相互作用など詳しい物性を明らかにするためにも重要である。また、表面にグラファイトが形成される現象が、従来知られていたニッケルや白金表面上のみならず、遷移金属炭化物表面上でもおこることが発見され、各種表面上でのグラファイトを比較することにより、下地との相互作用などの性質を詳しく議論できるようになってきた。

 本研究は、このような状況の下に、遷移金属炭化物および金属上に形成されたグラファイトの性質を実験的に調べたものである。実験の内容は、高分解能電子エネルギー損失分光による表面フォノンの分散測定、角度分解紫外線光電子分光による電子バンド構造の測定、遷移金属炭化物上の分子吸着の測定である。これらの実験結果から、表面に単層のグラファイトが形成されていることを明確に示すと同時に、グラファイトと下地物質との相互作用により反結合性電子バンドの占有性が変化し、フォノンがソフト化することを明らかにした。

 論文は8つの章からなる。第1章では、序として研究の背景が述べられている。第2章では実験装置に関する詳しい記述がある。第3章では、基板の清浄化および表面にグラファイトを形成させる方法が述べられている。第4、5、6、7章が本論文の中心である。第4章では表面フォノンの分散測定結果を、第5章では電子バンド構造の測定結果を、第6章では分子吸着の測定結果を述べ、第7章では単層グラファイトが表面に形成されているというモデルにより、これら実験結果を議論している。第8章はまとめである。以下に本論文により明らかにされた主な新しい知見を記述する。

 1.単層グラファイトの形成:塩化ナトリウム型結晶の遷移金属炭化物TaC,HfC,NbC,TiCの(111)面および(001)面上に、エチレンガス雰囲気中で高温処理をすることにより、グラファイトを形成した。グラファイトの結晶性は、TiC(111)面上のものが最も良かった。これは、遷移金属炭化物のなかで、TiCが最も欠陥の少ない表面を作ることができるからである。金属表面として、Ni(111)面、Ni(001)面、Pt(111)面上に、エチレンガス雰囲気中で高温処理をすることにより、グラファイトを形成した。このなかでは、結晶格子定数が一致するNi(111)面上に、結晶性の良いグラファイトが形成できる。

 2.フォノンのソフト化:遷移金属炭化物(111)面およびNi(111)面上では、純粋なグラファイトに比べてフォノンがソフト化している。特に、表面垂直方向に変位する光学モードのソフト化が著しい。このようなソフト化は、力定数モデルで適当なパラメータを選ぶことにより再現できる。これにより、表面垂直方向の曲げに対する力が、純粋なグラファイトに比べて約半分になっていることがわかった。一方、遷移金属炭化物(001)面やPt(111)面上では、フォノンのソフト化はそれほど著しくはないことがわかった。

 3.電子バンド構造:遷移金属炭化物(111)面およびNi(111)面上では、グラファイトのバンドが純粋なグラファイトに比べて2eV程度深くなっている。このため、反結合性バンドの一部が電子で満たされている。一方、遷移金属炭化物(001)面やPt(111)面上では、グラファイトのバンドは純粋なグラファイトと同程度の深さにあることがわかった。

 4.単層グラファイトと下地表面との相互作用:単層グラファイトでフォノンのソフト化がおこる原因は、下地との相互作用によりグラファイトの反結合性電子バンドの一部が電子で満たされ、結合が弱くなったためである。グラファイトと下地表面との相互作用がどのようなものであるかは、今後の研究を待たねばならない。

 以上の研究に対し、審査委員会は、超高真空下での困難な測定が系統的に行なわれ、その結果が適切な方法で解析され、充分な考察の後に妥当な結論を得ていると判断した。特に、各種表面に形成されるグラファイトのフォノンと電子バンド構造を実験的に調べることにより、グラファイトが単層であり、そのフォノンのソフト化がグラファイトの反結合性バンドが電子で占有されていることに起因することを明らかにしたことは、高く評価できる。このような、表面に形成された新物質が同定されたばかりでなく、その物性も理解された意義は非常に大きい。このように、審査委員全員は、本論文が博士(理学)の学位論文として合格に相当するものと認めた。

 なお、本研究は、複数共著者との共同研究となる部分を含むが、著者が研究計画から実験及び解析・考察のすべての段階で主導的な役割を果たしており、主体的寄与があったものと認められた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53870