学位論文要旨



No 211946
著者(漢字) 小林,和彦
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,カズヒコ
標題(和) イネ(Oryza sativa L.)の生長と収量に及ぼすオゾンの影響に関する数理モデルの開発
標題(洋) Modeling the effects of ozone on growth and yield in rice Plants (Oryza sativa L.
報告番号 211946
報告番号 乙11946
学位授与日 1994.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11946号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 秋田,重誠
 東京大学 教授 松崎,昭夫
 東京大学 教授 高倉,直
 東京大学 助教授 上村,賢治
内容要旨

 オゾンは地球を取り巻く成層圏と対流圏に存在しているが、近年、人間活動の影響で対流圏のオゾン濃度は上昇を続け、都市近郊や郊外では人体や植物に対して有害となるレベルにまで達しつつある。

 植物に及ぼすオゾンの影響については、オゾンによって光合成速度や乾物生産が低下し、その結果作物収量が減少することが報告されている。特にアメリカにおいては多くの圃場実験の結果から、オゾン濃度と作物収量との間の定量的関係を表すモデルが得られており、それを用いて作物生産に及ぼすオゾンの影響が地域的・国家的規模で評価されるまでになっている。我が国でもイネについて、オゾンによって生長と収量が低下するという報告がいくつかなされているが、オゾンの影響を定量的に評価するまでには至っていない。これは、日本における従来の研究が、圃場とはかなり異なる実験条件下で行われたため、実際の圃場に適用できるモデルがまだ確立されていないことによる。

 本研究では、日本のイネ生産に及ぼすオゾンの影響の評価・予測を行うために、水田におけるイネ群落のオゾン濃度を制御する施設を開発し、同施設を用いた圃場実験の結果を解析することによって、イネの生長と収量に及ぼすオゾンの影響に関する数理モデルを開発することを目的とした。

I.水田条件下でのオゾン曝露チャンバーシステムの開発

 上記のような研究目的を達成するための実験施設に要求されるのは、イネを実際の水田条件で栽培できること、多数の植物体のサンプリングが可能となるような均一で大きな面積を有すること、実際の外気オゾン濃度の変動を反映した濃度制御ができること、施設自体が環境を大きく変えないことなどである。これらの要求を満たすようなオゾン曝露チャンバーシステムを新たに開発し、水田に設置した。同システムは、曝露チャンバー5棟とオゾン発生制御装置から成り、各チャンバーあたり2基の送風機で多量に(約4m3m-2min-1)外気を導入することにより、内部の空気を充分撹拌してオゾン濃度の均一化を図るとともに、日射による気温上昇を防ぐようにした。またチャンバー内のオゾン濃度は、独自に開発したソフトウェアを用いてコンピュータで計測・制御した。このオゾン曝露チャンバーシステムについて、チャンバー内のオゾン濃度の制御精度と分布の均一性、チャンバー内の環境変化を調べたところ、次のような結果を得た。

 1.チャンバー内のオゾン濃度を外気の濃度の0.5倍から2.75倍まで、合計5段階の濃度に制御したところ、1日の中でも、また1シーズンの間でもほぼ目標の濃度レベルに制御できた。

 2.チャンバー内のオゾン濃度は、中央部と両端で低くそれ以外で高い水平分布を示したが、その差は±10%程度であり、充分な均一性が得られた。

 3.チャンバー内の気温は外気温よりも高かったが、その差は日中平均気温で約1℃、日平均気温で0.34℃に止まった。

 4.チャンバー内の光入射量はチャンバー外の約75%で、比較的高い日射透過率を示した。

 5.以上の結果から、本研究で新たに開発したオゾン曝露チャンバーシステムは、水田の光・温度環境を大きく変えることなく、イネ群落のオゾン濃度を外気に対応させて精度良く制御できることが分かった。

II.イネの生長と収量に及ぼすオゾンの影響

 水田に設置した前記のオゾン曝露チャンバー内で、1987年から1989年までの3年間イネ(品種:1987・1989年はコシヒカリ、1988年は日本晴)を栽培し、その生長と収量に及ぼすオゾン濃度の影響を調べ、以下の結果を得た。

 1.全乾物重はオゾン濃度が増加するにつれて減少した。全乾物重に及ぼすオゾンの影響は、特に出穂後に顕著であった。

 2.オゾン濃度の変化によって植物体内での乾物の分配が変化した。オゾン濃度が高いと全乾物重に占める葉身重の比率が増加し、他の部分特に葉鞘の重さの比率が低下した。

 3.オゾンは葉面積には影響を及ぼさなかった。また、オゾン曝露によって枯死葉が多くなることもなかった。

 4.玄米収量はオゾンによって有意に減少した。年度によって収量の絶対値は異なったが、オゾン濃度に対する相対的な収量反応には3年間で有意差が認められず、平均オゾン濃度と相対収量との関係は、Yを玄米収量(gm-2)、Ocを日中7時間(9:00-16:00)の平均オゾン濃度(ppb)、Obをバックグラウンドのオゾン濃度(ppb)、YbをObの時の玄米収量(gm-2)とすると、次式で表せることが判った。

 Y/Yb=exp[-0.00235(Oc-Ob)]

 5.本研究で得られたオゾン濃度と収量との関係を、カリフォルニアのイネについて過去に得られた関係と比べると、両者は実験誤差の範囲で同等とみなせた。また、アメリカのダイズについての実験結果から導かれた関係と比べると、同一オゾン濃度ではイネの減収はダイズの減収よりも明らかに小さかった。

 6.オゾンは収量構成要素のうち、単位面積あたり穂数を増加させ、1穂あたり粒数を減少させたため、両者の積である単位面積あたり粒数には大きな影響を与えなかった。登熟歩合はオゾンの増加につれて減少する傾向を示したが、統計的に有意ではなかった。玄米1000粒重はオゾン濃度の上昇に伴って有意に減少した。

 7.オゾンは子実収量と全乾物重に同程度の影響を与えており、両者の比である収穫係数はオゾンの影響を受けなかった。

III.イネ群落の光吸収と光利用効率に及ぼすオゾンの影響

 チャンバー内の日射量と、イネ群落の光透過率及び反射率からイネ群落の光吸収量を算出した。この結果と乾物重の測定から光利用効率(日射吸収量に対する乾物増加量の比)を推定し、これらに及ぼすオゾンの影響を調べた。その結果以下のことが判った。

 1.全生育期間を通じてイネ群落の光透過率、反射率はともにオゾンに影響されず、従って光吸収量もオゾンの影響を受けなかった。

 2.イネの光利用効率を、移植期から出穂期までと出穂期から収穫期までの2つの期間に分けて推定すると、光利用効率は出穂前に比べ出穂後に低くなった。オゾンは両期間とも、有意に光利用効率を低下させたが、特に出穂後の光利用効率を顕著に低下させた。

 3.オゾン濃度(Oc,ppb)と光利用効率(、g mol-1)との関係は、出穂前と出穂後でそれぞれ次のように表すことができた。

 出穂前:=1.057-1.302×10-5Oc2

 出穂後:=0.908-3.733×10-3Oc

 4.光利用効率に及ぼすオゾンの影響が出穂後に大きくなる機構は、次のように考えられた。個々の葉の光合成速度に及ぼすオゾンの影響は、オゾン曝露の期間が長くなるほど増大するが、出穂以前は群落上に次々と新しい葉が展開し、群落全体の光合成速度はそうした上部の新しい葉によって支配されるため、群落の光利用効率は大きく低下しない。しかし出穂後は新しい葉が群落上に展開せず、最上部の葉(止め葉)の光合成速度はオゾン曝露期間が長くなるほど低下するので、群落の光利用効率もそれにつれて大きく低下する。

IV.イネの生長に及ぼすオゾンの影響のモデル

 3年間のオゾン曝露実験の結果に基づき、オゾン存在下でのイネの生長をシミュレートするモデルを開発した。このモデルは日射量、気温、オゾン濃度を入力データとして、1日単位の葉面積の拡大と乾物重の増加をシミュレートすることができる。モデルによる推定値と実際の測定データとを比べた結果は次の通りであった。

 1.モデルの開発に用いたオゾン曝露実験の結果について、モデルによる推定値と実測値とを比べた。3年間では気象や栽培時期が異なったため、イネの生長も変動したが、モデルで推定した全乾物重と葉面積指数は、いずれの年にも実測値とよく一致した。ただしチャンバー外のイネの生長をシミュレートするためには、光利用効率を始め一部のパラメータをチャンバー内とは異なる値にすることが必要であった。

 2.モデル開発に用いなかった、圃場でのしゃ光実験の結果(1988年実施)について、モデルによる推定値と実測値を比較した。同実験は、圃場に栽培したイネに2段階のしゃ光処理を加え、無処理を対照として、しゃ光がイネの生長と収量に及ぼす影響を調べたものである。実際の気象とオゾンのデータをモデルに入力して生長過程をシミュレートしたところ、葉面積、全乾物重とも実測値と一致した。その際、しゃ光処理区の生長は、チャンバー内の光利用効率を用いた方が、チャンバー外の光利用効率を用いた場合よりも実測に近い値が得られた。

 3.モデルをさらに、1986年に実施した圃場実験の結果と比べた。同実験は、4月から6月にかけて3回田植をし、異なる作期の間での気象の違いがイネの生長に及ぼす影響を調べたものである。実際の気象データを用いて乾物重の増加と葉面積の拡大をシミュレートしたところ、4月植えの場合にはモデルの推定値が実測値よりも小さく、過小評価することになったが、5月植えと6月植えについては、モデルで推定した全乾物重の推移は実測した値に比較的良く一致した。

 4.以上の結果から、本研究で開発したイネ生長モデルは、圃場における葉面積の拡大と乾物重の増加を概ね適切にシミュレートでき、オゾンの影響評価に利用し得ると考えられた。

審査要旨

 作物生産に及ぼすオゾンの影響については,特にアメリカにおいて多くの圃場実験がなされ,その影響が国家的規模で評価されるまでになっている。我が国でもイネに対するオゾンの影響に関する報告がいくつかなされているが,いずれも定性的なもので,オゾンの影響を定量的に評価するには至っていない。これは,日本における従来の研究が,ガラス室内でのポット栽培など,圃場とは異なる実験条件下で行われたため,実際の圃場に適用できるモデルがまだ確立されていないことによるものと考えられる。

 そこで本研究では,水田におけるイネ群落のオゾン濃度を制御する施設を開発し,同施設を用いた圃場実験を実施して,イネの生長と収量に及ぼすオゾンの影響を数理モデルによって解析した。

I.水田条件下でのオゾン曝露チャンバーシステムの開発

 実際の水田で栽培したイネに,外気オゾン濃度の変動を反映した濃度制御ができるオゾン曝露チャンバーシステムを新たに開発した。このチャンバー内のオゾン濃度の制御精度と分布の均一性,チャンバー内の環境変化を調べたところ,このシステムは外の光・温度環境をほぼ維持したまま,チャンバー内のオゾン濃度を外気に対応させて精度良く制御できることが示された。

II.イネの生長と収量に及ぼすオゾンの影響

 水田に設置した前記のオゾン曝露チャンバー内で,1987年から1989年までの3年間イネを栽培し,その生長と収量に及ぼすオゾンの影響を調べ,以下の結果を得た。

 (1)オゾン濃度が増加するにつれて全乾物重は減少したが,その影響は特に出穂後に顕著であった。

 (2)オゾン濃度が高くなると,全乾物重に占める葉身重の比率が増加し,他の部分特に葉鞘重の比率が低下した。

 (3)オゾンは葉面積に影響を及ぼさなかった。

 (4)玄米収量はオゾンによって有意に減少した。平均オゾン濃度と相対収量との関係は,Yを玄米収量(gm-2),Ocを日中7時間(9:00〜16:00)の平均オゾン濃度(ppb),Obをバックグラウンドのオゾン濃度(ppb),YbをObの時の玄米収量(gm-2)とすると,

 Y/Yb=exp〔-0.00235(Oc-Oc)〕で表せることが判った。

 (5)このオゾン濃度と収量との関係は,カリフォルニアのイネで得られた関係と実験誤差の範囲で同等であった。しかし,アメリカのダイズについての実験結果と比べると,イネはダイズよりも明らかに耐性が強いことが判った。

 (6)収量構成要素についてみると,オゾン濃度の増加は単位面積あたり穂数を増加させたが,1穂粒数を減少させたため,粒数には影響を与えなかった。登熟歩合はオゾン濃度の増加につれて減少する傾向を示し,玄米1000粒重も有意に減少した。

 (7)オゾンは子実収量と全乾物重に同程度の影響を与え,その結果,両者の比である収穫係数はオゾンの影響を受けなかった。

III.イネ群落の光吸収量と光利用効率に及ぼすオゾンの影響

 イネ群落の光吸収量と光利用効率(日射吸収量に対する乾物増加量の比)に及ぼすオゾンの影響を調べ,以下の結果を得た。

 (1)イネ群落の光透過率,反射率は,ともにオゾンに影響されず,従って光吸収量もオゾンに影響されなかった。

 (2)オゾンはイネの光利用効率,特に出穂後の光利用効率を顕著に低下させた。

 (3)オゾン濃度(Oc,ppb)と光利用効率(,gmol-1)との関係は,出穂の前後でそれぞれ次のように表すことができた。出穂前:=1.057〜1.302×10-5Oc2,出穂後:=0.908〜3.733×10-3Oc

 (4)光利用効率に及ぼすオゾンの影響が出穂後に大きくなる機構としては,出穂後は新しい葉が群落上部に展開せず,最上部の葉の光合成速度はオゾン曝露期間が長くなるほど低下するので,それにつれて群落の光利用効率も大きく低下することが考えられた。

IV.イネの生長に及ぼすオゾンの影響のモデル

 3年間のオゾン曝露実験の結果に基づき,オゾン存在下でのイネの生長をシミュレートするモデルを開発した。

 (1)モデル開発に用いなかった圃場実験の結果(1988年実施)について,実際の気象とオゾンのデータをモデルに入力して生長過程をシミュレートしたところ,葉面積,全乾物重とも実測値と一致した。

 (2)1986年4月から6月の間に3回田植をした圃場実験の結果につき,気象データを用いて乾物重の増加と葉面積の拡大をシミュレートしたところ,4月植えの場合にはモデルは実測値を過小推定したが,5月植えと6月植えについては,モデルの推定値は実測値に比較的良く一致した。

 以上,本研究は,水田条件下でのオゾン曝露チャンバーシステムを開発し,そこで得られたデータからモデルを構築して,オゾンの影響解析を行ったものであり,学術上,応用上貢献するところが大きい。ようて審査員一同は,本研究が博士(農学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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