学位論文要旨



No 211947
著者(漢字) 河村,知彦
著者(英字)
著者(カナ) カワムラ,トモヒコ
標題(和) 海産付着珪藻群落の変動機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 211947
報告番号 乙11947
学位授与日 1994.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11947号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 二村,義八朗
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 助教授 福代,康夫
 東京大学 助教授 寺崎,誠
内容要旨

 付着珪藻は多くの無脊椎動物の餌料であり、特にアワビやウニなど有用水産動物稚仔の主要な初期餌料として重要な役割を果たしている。また、付着珪藻はウニ類やナマコ類の幼生に対する着底・変態促進効果を持つことも知られ、幼生の採苗に利用されている。一方、珪藻は海中構造物に付着する汚損生物としても無視できないものであり、大型の汚損生物の付着に影響を与えることも示唆されている。このような重要性にも係わらず、付着珪藻の生理、生態に関する研究は少なく、特にアワビ等水産生物との係わりから重要と考えられる岩礁域での生態は殆ど明らかにされていない。

 本研究では、日本沿岸の岩礁域における付着珪藻群落の変動機構を明らかにするため、付着珪藻の生理・生態を調べるとともに、様々な環境条件下における群落構造の変化を解析した。まず、群落の構造を決定する珪藻の付着形態を8型に分類定義し、付着形態による生理・生態的特性の相違を検討した。この付着形態に着目して、環境の異なる4海域における付着珪藻群落の季節変動および水平・鉛直分布を観察し、それらの現象を引き起こした要因について解析した。また、日単位の時間経過に伴う基質上の群落の遷移を天然環境下および実験条件下で観察し、群落の形成、遷移機構を検討した。さらに、沿岸生態系の中で付着珪藻が果たす役割の一端を解明することを目的として、エゾアワビ浮遊幼生の着底、変態、およびその後の成長に対する付着珪藻の影響を調べ、エゾアワビ稚貝の成長に伴う食性の変化と付着珪藻群落の遷移との関係を検討した。

1.付着珪藻群落の構造と珪藻の付着形態

 珪藻の付着形態を群体形成の有無と群体の形状、粘液の分泌様式、運動性、および付着力によって以下の8型に分類した。各型の定義を以下に示す。

 (1).匍匐滑走型:単体。蓋殻の全面で基質に水平方向に付着。活発な滑走運動を行う。付着力は弱い。

 (2).匍匐固着型:単体。蓋殻の全面で基質に水平方向に付着。運動性を有するが滑走運動は活発ではない。付着力は極めて強い。

 (3).直立不動型:単体または付着部位を共有する小群体。細胞の一端で基質から立ち上がるように付着。運動性は持たない。付着力は比較的弱い。

 (4).帯状群体型:多細胞が連結した帯状やジグザグ状の群体。末端細胞で基質に付着。細胞自体には運動性を持つものもあるが、群体が移動することはない。付着力は比較的弱い。

 (5).付着柄単体型:単体または数細胞が連結した小群体。細胞の一端から分泌される粘液質の付着柄で基質に付着。細胞自体は運動性を持つが、付着柄を形成した細胞が移動することはない。付着力は強い。

 (6).付着柄群体型:多細胞が付着柄で連結した樹枝状群体。末端細胞から出る付着柄で基質に付着。細胞自体には運動性を有する種もあるが、群体形成時には運動性を持たない。付着力は強い。

 (7).管棲群体型:多細胞が粘液質のチューブに入った糸状または樹枝状群体。チューブの末端で基質に付着。細胞自体は運動性を持つが、群体が移動することはない。付着力は強い。

 (8).糸状群体型:多細胞が連結した糸状群体。末端細胞で基質に付着。運動性は持たない。付着力は弱い。

 付着珪藻群落の立体的構造は群落を構成する種が以上のような様々な付着形態を有するため形成される。群落構成種の付着形態に基づき、以下の変動機構の研究を行った。

2.付着珪藻群落の変動とその要因

 神奈川県油壷湾(1984年6月〜1985年7月、1987年2月〜10月)、宮城県泊浜地先(1988年12月〜1990年1月)、岩手県吉浜湾(1990年7月〜1992年7月)、沖縄県西表島仲間川河口(1986年6月、9月、1987年5月)において、一定期間海中に垂下した基盤あるいは海底に固定した基盤上に付着、増殖した珪藻の現存量および種組成の季節的変動を調べ、水温、塩分、栄養塩濃度、日照時間および摂食圧の変動と比較することによって各調査地点における群落の変動要因を解析した。また、これら4地点における主要出現種を比較するとともに、仲間川の河口から中流域までの砂泥底における種組成の変化を調べ、各種付着珪藻の生育に及ぼす環境要因の影響を解析した。

 4調査地点のいずれかで主要種であった37種のうち、4地点全てで出現が認められたものは15種あり、仲間川を除く3地点では主要種の半数以上が共通していた。共通する15種は仲間川においても広範囲に分布したため、増殖に適した水温、塩分、栄養塩濃度の範囲が広いものと推察された。4地点においては、摂食圧と光条件が付着珪藻群落の構造や現存量、種組成を支配する主な要因と考えられた。摂食圧が比較的低い場合には、光条件が付着珪藻群落の変動を引き起こす主要因となり、付着珪藻の現存量は概して日照時間が長いほど大きかった。特に匍匐滑走型の種は光条件の影響を強く受け、密度の増減が日照時間の増減とよく一致した。一方、匍匐固着型や付着柄単体型の種は光条件の影響を受けにくく、日照時間の短い場合に全体に占める割合が高かった。摂食圧が高い場合には、光条件に係わらず大きな群体を形成する帯状群体型、付着柄群体型、管棲群体型、糸状群体型の種は増加できず、立体的群落構遺は発達しなかった。また、付着力の弱い匍匐滑走型や直立不動型の種も摂食圧が高い場合には減少した。摂食圧が高いほど匍匐固着型の種の出現率が高まった。

3.付着珪藻群落の遷移機構

 油壷湾(1987年2〜3月、6〜7月、7〜8月、10〜11月)と北海道厚岸湾(1987年9月)の海中に垂下した基盤および宮城県江ノ島地先(1989年8〜10月)の海底に固定した基盤上に形成された付着珪藻群落の現存量、種組成および構造の経日変化を調べた。また、水温、照度、摂食圧をそれぞれ3、3、4段階に設定した実験水槽内の基盤上においても同様の観察を行い、群落の遷移系列および遷移に与える環境の影響を検討した。これらの結果と上記1、2で論議した結果をあわせて、付着珪藻群落の遷移機構を明らかにした。

 付着珪藻群落の遷移系列を優占する付着形態により示すと、概して匍匐滑走型→帯状群体型、付着柄群体型、管棲群体型、糸状群体型→匍匐固着型、直立不動型、付着柄単体型→匍匐固着型の順であるが、この進行過程は環境条件、特に光条件と摂食圧によって大きく変化することが明らかとなった。2の結果と同様、光条件が悪くなるとまず匍匐滑走型の種が減少し、光条件が悪いほど匍匐固着型の種の優占度が増加した。摂食圧が高くなると光条件に係わらず大きな群体を形成する種は減少した。匍匐滑走型や直立不動型の種も摂食圧の増加に伴い減少し、摂食圧が高いほど最も摂食されにくい匍匐固着型の種の優占率が高まった。また、水温が高いほど遷移は速く進行し、極相に至る時間は短かかった。この結果は、2で論議した付着珪藻群落の季節や場所による相違が、環境条件による遷移過程の違いを現わすものであることを示唆している。

 群落の遷移を進める主要因は、付着形態による増殖速度と光に対する増殖特性の相違であり、遷移過程における各付着形態の出現順位は概して増殖速度により決まるものと考えられる。付着形態により摂食圧に対する耐性が異なることも遷移を進める重要な要因と推察された。

4.付着珪藻群落の変動とアワビの初期生態との係わり

 付着珪藻がエゾアワビ浮遊幼生の着底、変態、およびその後の成長に及ぼす影響を明らかにするため、付着珪藻18種22株に対するエゾアワビ浮遊幼生の着底率、変態率、周口殻形成率を室内実験により比較した。また、成長段階の異なる2グループのエゾアワビ初期稚貝に種々の付着珪藻を餌料として与えて摂餌行動と成長を観察することにより、餌料としての付着珪藻の効果を調べ、成長に伴う稚貝の食性の変化について検討した。

 浮遊幼生が速やかに着底し最終的な周口殼形成率が高かったのは、いずれも平面的な群落を形成する匍匐滑走型と匍匐固着型の珪藻に対してであった。変態後の稚貝の主な餌料は、変態直後から殼長1mm程度までは付着珪藻などの分泌する粘液物質であり、それ以後呼水孔列形成期までは匍匐固着型や付着柄単体型の珪藻であると推察された。

 エゾアワビ浮遊幼生が選択的に着底する匍匐固着型の付着珪藻は遷移の極相群落を形成するものであり、特にある程度の高い摂食圧下では広い範囲で優占する。そのような付着珪藻群落では、殻長1mmまでは粘液物質が、その後呼水孔列形成期までは珪藻自体が餌料となることから、稚貝にとって好適な餌料環境が形成されているものと考えられる。

審査要旨

 付着珪藻は多くの無脊椎動物の餌料であり,特にアワビやウニなど水産動物稚仔の主要な初期餌料として重要な役割を果たしている。また,付着珪藻はウニ類やナマコ類の幼生に対する着底・変態促進効果を持つことも知られ,幼生の採苗に利用されている。一方,珪藻は海中構造物に付着する汚損生物としても無視できないものであり,大型の汚損生物の付着に影響を与えるものと考えられている。このような重要性にも係わらず,付着珪藻の生理,生態に関する研究は少なく,特にアワビ等水産生物との係わりから重要と考えられる岩礁域での生態は殆ど明らかにされていない。本論文は,日本沿岸の岩礁域における付着珪藻群落の変動機構を明らかにすることを目的として,付着珪藻の生理・生態を調べるとともに,様々な環境条件下における群落構造の変化を解析したもので,4章から構成されている。

 付着珪藻群落の立体的構造は群落を構成する種が様々な付着形態を有するため形成される。第1章では,珪藻の付着形態を群体形成の有無と群体の形状,粘液の分泌様式,運動性,および付着力によって匍匐滑走型,匍匐固着型,直立不動型,帯状群体型,付着柄単体型,付着柄群体型,管棲群体型,糸状群体型の8型に分類している。以下の変動機構の研究は,群落構成種の付着形態に基づいて行っている。

 第2章では,1984年から1992年にかけて神奈川県油壺湾,宮城県泊浜地先,岩手県吉浜湾,沖縄県西表島仲間川河口において,海中に垂下した基盤あるいは海底に固定した基盤上における付着珪藻群落の季節変動を群落構成種の付着形態に着目して観察し,それぞれの変動要因を解析している。また,これら4地点における主要出現種を比較するとともに,仲間川の河口から中流域までの砂泥底における種組成の変化を調べ,各種付着珪藻の生育に及ぼす環境要因の影響を解析している。その結果,付着珪藻群落の構造や現存量,種組成を支配する主な要因は,摂食圧と光条件であることを明らかにしている。

 海中の基質上に形成される付着珪藻群落の種組成や構造は時間経過とともに遷移することが知られている。遷移の極相に至る時間は,数週間から1,2ヵ月程度と極めて短い。したがって,第2章で論議した一定期間海中に設置した基盤上における付着珪藻群落の季節や場所による変化は,遷移の途中相や極相の変化を現しているものと考えられる。第3章では,天然海域(油壺湾,北海道厚岸湾,宮城県江ノ島地先)と実験水槽内に設置した基盤上で様々な条件下における群落の遷移を観察し,遷移系列および遷移に与える環境の影響を明らかにし,付着珪藻群落の遷移機構について以下のように考察している。

 付着珪藻群落の遷移系列は概して,匍匐滑走型→帯状群体型,付着柄群体型,管棲群体型,糸状群体型→匍匐固着型,直立不動型,付着柄単体型→匍匐固着型の順であるが,この進行過程は環境条件,特に光条件と摂食圧によって大きく変化する。光条件が悪くなるとまず匍匐滑走型の種が減少し,光条件が悪いほど匍匐固着型の種の優占度が増加する。また,摂食圧が高くなると光条件に係わらず大きな群体を形成する帯状群体型,付着柄群体型,管棲群体型,糸状群体型の種は減少する。匍匐滑走型や直立不動型の種も摂食圧の増加に伴い減少し,摂食圧が高いほど最も摂食されにくい匍匐固着型の種の優占率が高まる。水温が高いほど遷移は速く進行し,極相に至る時間が短くなる。群落の遷移を進める主要因は,付着形態による増殖速度と光に対する増殖特性の相違であり,遷移過程における各付着形態の出現順位は主に増殖速度により決まる。付着形態により摂食圧に対する耐性が異なることも遷移を進める重要な要因である。

 第4章では,沿岸生態系の中で付着珪藻が果たす役割の一端を解明することを目的として,エゾアワピ浮遊幼生の着底,変態,およびその後の成長に対する付着珪藻の影響を調べ,エゾアワビ稚貝の成長に伴う食性の変化と付着珪藻群落の遷移との関係を検討している。その結果,浮遊幼生が速やかに着底し最終的な周口殼形成率が高いのはいずれも平面的な群落を形成する匍匐滑走型と匍匐固着型の珪藻に対してであることを明らかにしている。また,変態後の稚貝の主な餌料は,変態直後から殻長1mm程度までは付着珪藻などの分泌する粘液物質であり,それ以後呼水孔列形成期までは匍匐固着型や付着柄単体型の珪藻であることを明らかにしている。

 以上本論文は,海洋沿岸の岩礁域における付着珪藻群落の変動・遷移機構およびアワビと付着珪藻との密接な関係を具体的に解明しており,学術上,応用上の大きな貢献であることを認める。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53871