学位論文要旨



No 211948
著者(漢字) 神山,孝史
著者(英字)
著者(カナ) カミヤマ,タカシ
標題(和) 富栄養内湾域における有鐘繊毛虫類の生態学的研究
標題(洋)
報告番号 211948
報告番号 乙11948
学位授与日 1994.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11948号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 助教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 福代,康夫
内容要旨

 我国沿岸の富栄養化問題については水質・底質の有機汚染や赤潮の頻発などの他に、近年、栄養塩組成比の変化などがクローズアップされ、それに伴う植物プランクトン種組成やその生理機能の変化、さらにはその摂食者である動物群集への影響も懸念されている。微小動物プランクトンは大型動物が捕食できないような微細な生物群を効率よく摂食し、それ自身がより大型の動物群の餌料になる等、食物連鎖の中での連結者もしくは仲介者としての重要性が注目されるようになった。しかし、富栄養化した内湾域における微小動物プランクトンの定量的な研究は非常に少なく、その個体群動態に関する情報や生態系の中での役割に関する知見は不足している。微小動物プランクトンは植物を起点とするプランクトン食物連鎖及びバクテリアを起点とする微生物食物連鎖の中でいずれも重要な位置にあり、その生態及び生態系の中で果たす役割の解明は、内湾生態系の保持とそれを考慮した資源生物の持続的利用のための有用な基礎知見となる。

 本研究では、微小動物プランクトンの中でも分類体系が比較的整理され、出現密度の点から最重要群である有鐘繊毛虫類(有鐘類)に焦点を当て、富栄養化した内湾域における種類毎の出現、増殖、摂食についての生態的な特性を把握し、さらにその結果に基づき、富栄養海域における有鐘類の個体群変動機構と有鐘類が基礎生産の消費者として沿岸生態系内で果たす役割を解明することを目的とした。

1.有鐘繊毛虫類の個体群動態

 広島湾及び五ヶ所湾の富栄養化した水域に設定した定点において1〜2週間毎の現場調査を3年間行い、微小動物プランクトンの季節的な出現特性を把握し、それと水温、塩分、植物プランクトンの出現状況またはクロロフィルa濃度との関係を解析した。また、広島湾ではHeterosigma akashiwoの赤潮崩壊期に10日間の連日調査を実施し、微小動物プランクトンの短期的な出現特性を捉えた。

 両海域とも微小動物プランクトンの最高密度は104個体/lの桁に達し、夏季にはその中で有鐘類が卓越していた。有鐘類の出現密度は水温及びクロロフィルa濃度あるいは鞭毛藻類の出現密度と密接に関係していた。各種有鐘類の出現時期は多くの場合限定され、各種類に固有であった。また、各層の採水調査が行われた広島湾では、夏季に出現する有鐘類は0〜2m層に高密度に分布する傾向にあったが、殻(ロリカ)の表面に付着物を有する有鐘類の中には底層に多く分布する種類も認められた。有鐘類の出現種数は、広島湾で33種、五ヶ所湾で48種であり、五ヶ所湾の方で多様であった。また、各種有鐘類の最高出現密度を両湾で比較すると、閉鎖性の強い広島湾で多く出現する種類はいずれもロリカに付着物を有し、外海水の影響を受ける五カ所湾で多く出現する種類は透明なロリカを有するものが多数を占めていた。従って、富栄養化した内湾域でも外海水の影響度によって出現種に大きな違いが現れることが明らかになった。広島湾ではH.akashiwoの赤潮期間中に低かった有鐘類の多様性と出現密度が、赤潮の崩壊と共にいずれも有意に上昇した。特に、2種の有鐘類、Eutintinnus tubulosusとHelicostomella longaの出現密度の急激な増加が顕著であった。このことからH.akashiwoによって抑制されていた有鐘類は、赤潮崩壊後生息条件が回復すると急速に増殖し、濃密な個体群を形成することが明らかになった。

2.有鐘繊毛虫類の増殖生態

 室内培養実験によって、4種の有鐘類、Amphorides quadrilineata、E.tubulosus、 Tintinnopsis beroidea及びT.kofoidiの増殖速度を測定した。その結果、4種の最短世代時間は13.4〜28.1時間の範囲となり、有鐘類は1日に1または2回分裂の増殖能力をもつことが判明した。また、培養中に形態変異個体、裸虫の出現及び接合現象が観察された。室内培養実験によって、有鐘類の増殖に及ぼす植物プランクトンの種類及び密度の影響を検討した結果、Favella taraikaensisは2種の渦鞭毛藻類を与えた時にのみ増殖し、他の3種の植物プランクトンを与えた時に死滅した。A.quadrilineataとF.taraikaensisの増殖速度は餌料クロロフィルa濃度が1〜20g/lの時に上昇し、20g/l以上になると低下する傾向が現れた。これらのことから、有鐘類の急速な増殖は、一定の餌料の質・量的な条件のもとで起こることが明らかになった。

3.有鐘繊毛虫類の摂食生態

 北部広島湾の湾奥から沖合域での1年半にわたる分布調査で、河川水の影響を受けやすい湾奥海域ほどクロロフィルa濃度及び微小動物プランクトンの出現密度が高く、クロロフィルa濃度の20m以下の粒径画分の占める割合も湾奥ほど高くなる現象が認められた。また、広島湾奥域と沖合域に調査点を設定し、希釈実験によって植物プランクトンに対する微小動物プランクトンの摂食圧の季節変化を把握した。その結果、湾奥域における摂食率は夏季から初秋に高くなり、20m以下の粒径画分に対する摂食率が全粒径画分に対する値を通常上回った。クロロフィルa現存量に対する1日当たりの微小動物プランクトンの摂食量は全粒径画分及び20m以下の粒径画分のそれぞれ最高71%及び75%に達した。また、年間平均の1日当たりの摂食量はそれぞれ19%及び29%になった。一方、沖合域における微小動物プランクトンによる摂食率は、湾奥の定点の値に比べて通常低く、年間平均の1日当たりの摂食量はそれぞれ12%及び15%であった。また、いずれの海域においても1日当たりの微小動物プランクトンの摂食量とクロロフィルa生産量には正の直線関係が認められた。特に、湾奥城では20m以下の粒径画分に対する摂食量との相関係数は1に近く、微小動物プランクトンがクロロフィルa生産量のほとんどを消費する現象が頻繁に起きていることが判明した。一方、沖合域における20m以下のクロロフィルa生産量に対する摂食圧は湾奥域の値の60%にすぎなかった。以上のように、湾奥城では微細藻類が卓越しやすく、それを摂食する微小動物プランクトンが迅速に増殖し、基礎生産から2次生産へと効率的に連鎖していることを明らかにした。

 室内培養実験によって、餌料密度と有鐘類の餌料除去率との関係を求め、その結果をもとに、広島湾奥域に出現した有鐘類の摂食率を推定した。その結果、広島湾奥城における20m以下の植物プランクトンに対する有鐘類の1日当たりの摂食率は0.1〜103.9%の範囲となり、年間平均では15.3%となった。この値は20m以下の植物プランクトンに対する全微小動物プランクトンの摂食圧の53%に相当し、富栄養内湾域で微細藻類への摂食者として有鐘類が重要な役割を果たすと考えられた。

4.有鐘繊毛虫類の個体群動態に関わるシストの役割

 有鐘類は海底泥中のシストを起源として各個体群を形成していると想定し、海底泥から出現する有鐘類の種類を確認し、脱シストの条件を検討した。また、その結果をもとに終点希釈法による有鐘類シスト計数法を確立し、広島湾における有鐘類シストの分布特性を把握した。

 海底に休眠している有鐘繊毛虫シストは海底泥の20〜125mの粒径画分中に存在し、環境変化にともない急速に脱シストすることが判明した。また、全有鐘類の脱シストは10〜25℃の範囲で高い温度ほど促進された。ただし、各種類に注目すると、(1)どの温度でも多く出現する、(2)低い温度で多く出現する、(3)高い温度で多く出現するという3タイプに分類できた。また、現場海域の海水中にそれらが出現する時期は、底層水温が各種の脱シスト可能な温度範囲にある時にほぼ一致した。有鐘類の一部の個体の脱シストは、2〜7E/m2/sec(150〜400Lux)以下の光強度で抑制され、海底中に埋没した個体が脱シストするためには海底攪拌によって海底表面へ、または一時的な水塊の鉛直混合によって十分な光強度を受ける層へ移動することが必要と考えられた。さらに、有鐘類の中に、餌料となる植物プランクトンの細胞外分泌物によって脱シストが促進される種があることが判明した。すなわち、これらの種類が、海水中に餌料が豊富に存在しかつ増殖に適するような環境条件の下で脱シストすることによって、急速に個体群を増加させる機構を持つことが明らかになった。広島湾での有鐘類シストは有機汚染の進行した湾奥海底に豊富に存在し、夏季の海水中における濃密分布域とよく一致することが判明した。このことから、広島湾奥海域では海底に存在する有鐘類シストが脱シストして高密度の個体群が形成される機構が存在すると考えられた。

 以上の知見から、富栄養海域に夏季に出現する有鐘類の個体群変動機構は次のように整理された。有鐘類の個体群形成は、海底泥中の脱シストをきっかけとして起こる。脱シストを引き起こす環境要因は水温上昇、植物プランクトンの増殖、十分な日照、海底攪拌及び一時的な水塊の鉛直混合である。植物プランクトンが豊富に存在する中で脱シストすることによって出現した有鐘類は、急速に個体群を増加させる。有鐘類と微細藻類は、出現密度の変化及び種の変遷によって相互に影響を及ぼし合いながら増減を繰り返し、やがて水温低下及び餌料密度の減少によって出現密度は減少していく。この夏季の高密度期と秋季の低密度期の間に有鐘類のシスト形成を行い、海底へと沈降し、休眠する。そして、やがて訪れる冬季の低水温、低餌料環境をシスト状態で過ごし、次の出現時期に備える。

 また、広島湾奥域における有鐘類を含む微小動物プランクトンの植物プランクトンの消費者としての役割は次のようにまとめることができた。年間平均で103個体/lの桁にある微小動物プランクトンは、微細藻類群集の29%を摂食し、夏季には植物プランクトンの生産に等しい量を摂食することもある。有鐘類の年間平均出現密度は、全微小動物プランクトンの出現密度の58%を占め、その摂食量は全微小動物プランクトンによる値の53%に達する。以上のことから、有鐘類は、富栄養化した海域において高密度に出現する微小動物プランクトンの中で優占し、微細藻類による基礎生産の消費者として生態系の中で重要な役割を果たしていると結論できる。

審査要旨

 微小動物プランクトンは,食物連鎖の中で微細々生物群と大型動物群を連結する動物群として重視されるようになったが,富栄養内湾城における定量的な研究は非常に少なく,その個体群動態や生態系の中での役割は明らかでない。このような富栄養内湾域における微小動物プランクトンの生態の解明は,内湾生態系の保持とそれを考慮した資源生物の持続的利用のために必要な重要課題である。

 著者は微小動物プランクトンの中で最重要群である有鐘繊毛虫類(有鐘類)に注目し,富栄養内湾域における種類毎の出現,増殖,摂食についての生態的な特性を把握することによって,富栄養海域における有鐘類の個体群変動機構と基礎生産の消費者としての役割を解明しようとした。論文は6章から成り,第1章の序論の後,以下のような結果を得ている。

 第2章では,2つの富栄養化した内湾(広島湾と三重県五ヶ所湾)に調査定点をとり,1〜2週間毎の現場調査を3年にわたり行い,微小動物プランクトンとその最重要群である有鐘繊毛虫類の長期的あるいは短期的な出現特性を把握した。

 その結果,両湾とも微小動物プランクトンの出現密度は最高で104個体/lの桁に達し,夏季にはその中で有鐘類が卓越する現象が認められた。有鐘類の出現密度は水温,クロロフィルa濃度及び鞭毛藻類の出現密度と密接に関係していた。各種有鐘類の出現時期は多くの場合限定され,かつ固有であった。両海域の有鐘類の出現種には外海水の影響によって大きな違いが認められた。赤潮期間中に有鐘類は低密度であったが,赤潮崩壊後一部の種は急速に増殖することが判明した。

 第3章では,室内培養実験で有鐘類の増殖能力を把握し,増殖が起こるための餌料の質・量的条件を検討した。

 4種の有鐘類の最短世代時間の測定結果から,有鐘類が1日に1〜2回分裂の増殖能力をもつことが明らかになった。また,有鐘類は餌料選択性をもち,好適な餌料がクロロフィルaとして1〜20g/lの濃度で存在する時に増埴することが判明した。

 第4章では,富栄養内湾域における植物プランクトンに対する微小動物プランクトン及び有鐘類の摂食圧を把握した。

 その結果,湾奥域における20m以下の微細藻類群集の現存量に対する1日当たりの摂食量は,年間平均で29%になった。さらに,その値は,しばしば微細藻類群集の1日当たりの生産量にほぼ等しくなることが判明した。また,室内実験で求められた有鐘類の摂食率の結果から,湾奥域の微細藻類群集に対する有鐘類の1日当たりの摂食圧が15%となり,微小動物プランクトンによる摂食圧の半分以上を占めていると推定された。

 第5章では有鐘類が海底泥中のシストを起源として各個体群を形成していると考え,海底泥中からの脱シストの条件を検討し,最確数法によって広島湾における有鐘類シストの分布特性を把握した。その結果,海底に休眠している有鐘繊毛虫シストは海底泥の20〜125mの粒径画分中に存在することが判明した。また,有鐘類の脱シストは温度・光強度・植物プランクトンの細胞外分泌物によって影響を受けた。広島湾での有鐘類シストは有機汚染の進行した湾奥海底に豊富に存在し,夏季の海水中における濃密分布域とよく一致することが明らかとなった。

 第6章において富栄養海域における有鐘類の脱シストを発端とした個体群形成機構と基礎生産の消費者としての役割がまとめられ,有鐘類が独自の出現機構を持ち,富栄養内湾域における微細藻類群集による基礎生産の消費者として大きな役割を果たしていることを明らかにされている。

 以上本論文は,富栄養内湾域生態系における微小動物プランクトン,とくに有鐘繊毛虫類の個体群動態及び基礎生産の消費者としての重要性を明らかにしたもので,学術上,応用上の大きな貢献であることを認める。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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