学位論文要旨



No 211950
著者(漢字) 倉本,宣
著者(英字)
著者(カナ) クラモト,ノホル
標題(和) 多摩川におけるカワラノギクの保全生物学的研究
標題(洋)
報告番号 211950
報告番号 乙11950
学位授与日 1994.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11950号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井手,久登
 東京大学 教授 崎山,亮三
 東京大学 教授 秋田,重誠
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 武内,和彦
内容要旨

 日本版レッドデータブックの刊行を機に,わが国においても植物種の保全のための研究が行われるようになり,それらは保全生物学として体系化されつつある。保全生物学は種の保全を通じて生物学的多様性を保全する研究分野であり,生態学と遺伝学を基礎として成り立っている。

 本研究はカワラノギクを対象とした保全生物学的研究であり,種とその生育地を保全するための知見を得ることを目的としている。カワラノギクは,多摩川をはじめとする関東地方と東海地方の一部の河川にのみ生育し,日本版レッドデータブックの危急種として位置づけられている。

 本研究では種とその生育地を保全するために,カワラノギクの個生態を明らかにし,個体群の動態を解明して,生育地である多摩川の環境の変化に対応した保全手法についての知見を得ようとするものである。個体群については,空間的に連続して生育している個体の集団を単位個体群,近接している単位個体群の集団を地域個体群,一つの河川の全体の地域個体群をメタ個体群と名付けることとする。

1.カワラノギクの生活史と生育地

 1)カワラノギクの生活史 カワラノギクは3〜4月に種子発芽してロゼットを形成し,翌年以降の10〜11月に開花する。12〜1月にかけて結実し,種子を散布して枯死する。このように,通常,野外では開花結実までに2年以上を要することから,カワラノギクは可変性二年草の生活史を持っている。可変性二年草で通常みられる開花に必要な個体重の明瞭な臨界サイズは,この種では認められなかった。個体によって開花するサイズが異なることは,撹乱の頻度が不定期な河原で生育するのに適した性質であると考えられる。

 2)種子の発芽特性

 a)発芽の光条件と温度条件 カワラノギクの種子は,室内実験によれば,緑葉層を透過した光のもとでもよく発芽することから,緑陰感受性はないと言える。また,温度の日変化がなくてもよく発芽することから,変温効果感受性もないと言える。したがって,カワラノギクの種子は温度と水分条件が満たされると,どのような場所でも直ちに発芽する。その結果,野外では当年の種子はすべて発芽することになる。

 b)生育地における種子の挙動 種子散布の終了後に土壌の表面付近の種子数を計測し,発芽の完了した時期に残っている種子数を計測した。発芽が完了した時期の土壌中の種子数は,散布の終了後の種子数の0〜5%であり,発芽力のある種子はほとんどが発芽していたと考えられる。

 種子は発芽適期にほぼ全部が発芽するので,発芽後に生育している植物体が全滅すると,個体群が消滅することになる。

 3)カワラノギクの生育地 植生図を基にして解析したところ,カワラノギクを標徴種とするマルバヤハズソウーカワラノギク群集は,中流部の高水敷の低い部分に生育していた。

 また,カワラノギクの生育地を実測したところ,カワラノギクは水面からの高さが中程度で,土壌が礫質の立地に生育していた。

 さらに,カワラノギクの単位個体群を含む群落の植被率が50%以下のものが83%を占めており,カワラノギクの生育地は植被がまばらであることが明らかにされた。

2.多摩川におけるカワラノギクの個体群の動態

 1)多摩川メタ個体群の現況 1993年に多摩川本流全域でカワラノギクの分布状況を調査したところ,多摩川のメタ個体詳は6つの地域個体群から成り,地域個体詳は1〜24の単位個体群から成っていた。その下の単位である単位個体群は70であった。単位個体群の大きさは大きいものでは85,000株のものがみられたが,100株以下の単位個体群が多い。多摩川メタ個体群の総株数は155,000株であった。

 2)単位個体群の動態 カワラノギクは可変性二年草であるので,夏から初冬にかけてロゼットと開花個体との2つの生活史段階が混在している。開花個体は結実して枯死し,ロゼットは翌年以降の開花個体となる。ロゼット数と開花個体数との比によって,単位個体群の当年から翌年にかけての消長を予測することができる。生育地においてカワラノギクと競合関係にある多年草の被度が増すと,ロゼットが少なくなる傾向が野外調査から明らかにされたので,当年から翌年にかけての消長の原因となるのは,競争者である多年草の生育状況であると考えられる。

 したがって,単位個体群は時間の経過に伴って競争者が繁茂することを主たる原因として,衰退し消滅すると考えられる。一方,単位個体群は増水によって破壊されることも明らかであり,どちらの過程をたどるにしてもカワラノギクの単位個体群はいずれはその生育地において消滅することになる。そこで,メタ個体群の維持のためには,単位個体群が新しく成立できる生育可能なパッチである裸地の形成が必要であり,そのためには増水による撹乱が不可欠である。

 3)地域個体群の役割 新たに成立する単位個体群は種子の供給源である既存の地域個体群の周辺に限られていた。したがって,地域個体群が単位個体群を維持する上で,重要な役割を果たしていると考えられる。

 4)メタ個体群の構成の変化 メタ個体群の空間的分布の時間的な変化をみると,カワラノギクのメタ個体群の占有面積(植生図上で判読可能な面積の単位個体群を対象とする)は,1976年に13.5ha,1984年に2.2ha,1993年に0.8haと減少し,地域個体群の数は同じく13,8,4と減少し,同様に単位個体群の数も69,31,13と減少している。1976年に記録された単位個体群のなかで,同一の場所で1984年まで存続したのは9%,1993年まで存続したのは3%であった。カワラノギクの単位個体群は同じ場所に存続し続けるのはまれであり,生育場所は移動することが多い。単位個体群のこのような性質から,カワラノギクの保全に当たっては,単位個体群を対象として保護区を固定するのではなくメタ個体群を対象として動的に保全を図らなければならない。

3.多摩川におけるカワラノギクの保全手法

 1)生育環境の変化 多摩川におけるカワラノギクの生育環境は,(1)撹乱をもたらす増水の頻度の低下,(2)競合する植物の生育を助長させる水質の富栄養化と河床堆積物の細粒化,(3)河川敷の公園化に伴う生育可能場所の減少,(4)河川構造物の増加による地形の変化の減少,(5)新たな帰化植物の侵入などによる競合する多年草の増加,などの変化がみられる。

 このようにカワラノギクの生育環境は近年急速に悪化しつつある。また,カワラノギクのメタ個体群は衰退にむかうと,生育可能なパッチに対する種子の到達可能性が低下することと,遺伝的な不確定性と個体数の不確定性とによって,メタ個体群はさらに衰退する。カワラノギクを保全するためには,この循環を断ち切ることが必要である。

 2)カワラノギクの保全手法 カワラノギクの保全は,単位個体群と地域体群から構成されるメタ個体群全体を対象として行なう必要がある。

 多摩川のメタ個体群を維持するためには,新たに単位個体群が成立できる生育可能なパッチを形成する増水による撹乱が不可欠である。一方,現代の河川管理では大規模な増水による撹乱は起こりにくくなっている。水質の富栄養化と河床堆積物の細粒化は競争者の生育を助長するので,カワラノギクの単位個体群の消滅までの時間は短くなると考えられる。そのため,遷移の速度という生物学的な時間の尺度に対する増水の頻度は減少している。

 これらのことから,長期的・持続的な保全手法は,増水の頻度を確保し,河川敷の地形の変化を許容する河川整備計画の作成と,水質の富栄養化の軽減や細粒の河床堆積物を減らすことなどである。しかし,それには時間を要するので,多摩川のメタ個体詳を絶滅させないためには,短期的・対症療法的な保全手法として 新たな生育可能なパッチを供給するため増水に代わって礫質の裸地を人工的に造成することと,種子供給を人為的に促進することが必要である。

4.おわりに

 本研究では生活史と生育地を明らかにして,その知見をもとに個体群の動態を解明し,生育地の環境の変化との関連から保全手法を考察しな。この研究の構成は,生育環境の変化によって絶滅の危機にある植物の保全生物学に応用できる。とくに,メタ個体群の動態についての研究は生育地が分断されている多くの種に対して有効であると考えられる。

審査要旨

 本研究は日本版レッドデータプックの危急種であるカワラノギクの保全を目的とした生態学的研究である。カワラノギクは,多摩川をはじめとする関東地方と東海地方の一部の河川にのみ生育する植物である。

 本研究では,まずカワラノギクの個生態を明らかにし,ついで個体群の動態を解明して,生育地である多摩川の環境の変化に対応した保全手法についての知見を得ようとするものである。個体群は,空間的に連続して生育している個体の集団を単位個体群,近接している単位個体群の集団を地域個体群,一つの河川の全体の地域個体群をメタ個体群として捉えた。

1.カワラノギクの生活史と生育地

 カワラノギクは3〜4月に種子発芽してロゼットを形成し,翌年以降の10〜11月に開花,12〜1月にかけて結実し,種子を散布して枯死する。個体によって開花するサイズが異なり,このことは攪乱の頻度が不定期な河原で生育するのに適した性質であると考えられる。

 カワラノギクの種子は,緑葉層を透過した光のもとでもよく発芽し,緑陰感受性はない。また,温度の日変化がなくてもよく発芽し,変温効果感受性もない。したがって,カワラノギクの種子は温度と水分条件が満たされると,どのような場所でも直ちに発芽する。その結果,野外では当年の種子はすべて発芽する。

 発芽が完了した時期の土壌中の種子数は,散布の終了後の種子数の5%以下であり,発芽力のある種子はほとんどが発芽していたと考えられる。種子は発芽適期にほぼ全部が発芽するので,発芽後に生育している植物体が全滅すると,個体群が消滅することになる。

 カワラノギクの生育地は水面からの高さが中程度で,土壌が礫質の立地に生育していた。また,カワラノギクの単位個体群を含む群落の植被率が50%以下のものが83%を占めており,カワラノギクの生育地は植被がまばらであることが明らかにされた。

2.カワラノギクの個体群の動態

 1993年現在で,多摩川のメタ個体群は6つの地域個体群から成り,地域個体群は1〜24の単位個体群から成り,その下の単位である単位個体群は70であった。単位個体群の大きさは100株以下のものが多い。多摩川メタ個体群の総株数は155,000株であった。

 カワラノギクは夏から初冬にかけてロゼットと開花個体の2つの生活史段階が混在する。開花個体は結実して枯死し,ロゼットは翌年以降の開花個体となる。ロゼット数と開花個体数との比によって,単位個体群の当年から翌年にかけての消長を予測することができる。消長の原因となるのは,競争者である多年草の生育状況であった。

 単位個体群は競争者が繁茂すると衰退し消滅する。一方,単位個体群は増水によっても破壊される。いずれにしてもその生育地において消滅することになる。そこで,メタ個体群の維持のためには,単位個体群が新たに成立できる生育可能なパッチである裸地の形成が必要であり,そのためには増水による攪乱が不可欠である。

 また新たに成立する単位個体群は種子の供給を既存の地域個体群から得ている。カワラノギクの単位個体群は同じ場所に存続し続けるのはまれであり,生育場所は移動することが多い。単位個体群のこのような性質から,カワラノギクの保全に当たっては,単位個体群を対象として保護区を固定するのではなく,メタ個体群を対象として動的に保全を図らなければならない。

3.カワラノギクの保全手法

 カワラノギクの生育環境は近年急速に悪化しつつある。カワラノギクのメタ個体群は衰退にむかうと,生育可能なパッチに対する種子の到達可能性が低下することと,遺伝子構成の単純化・貧化と個体数の変動とによって,メタ個体群はさらに衰退する。カワラノギクを保全するためには,まずこの悪循環を断ち切ることが必要である。同時にカワラノギクの保全は,単位個体群と地域個体群から構成されるメタ個体群全体を対象として行なう必要がある。

 多摩川のメタ個体群を維持するためには,新たに単位個体群が成立できる生育可能なパッチを形成する増水による攪乱が不可欠である。また,水質の富栄養化と河床堆積物の細粒化は競争者の生育を助長するので,カワラノギクの単位個体群の消滅までの時間は短くなると考えられる。

 これらのことから,長期的・持続的な保全手法は,増水の頻度を確保し,河川敷の地形の変化を許容する河川整備計画の作成と,水質の富栄養化の軽減や細粒の河床堆積物を減らすことなどである。しかし同時に,短期的・対症療法的な保全手法として,新たな生育可能なパッチを供給するため増水に代わって礫質の裸地を人工的に造成することと,種子供給を人為的に促進することが必要である。

 以上,本研究はカワラノギクの生活史と生育地を明らかにし,その知見をもとに個体群の動態を解明し,生育地の環境の変化との関連から保全手法を考察したものであり,絶滅の危機にある類似の生態的特性をもつ植物の保全に対して示唆を与えるものであり,学術上,応用上寄与するところ少なくないと判断された。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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