学位論文要旨



No 211959
著者(漢字) 香取,秀俊
著者(英字)
著者(カナ) カトリ,ヒデトシ
標題(和) 準安定状態アルゴン・クリプトン原子のレーザー冷却、トラッピングに関する研究
標題(洋)
報告番号 211959
報告番号 乙11959
学位授与日 1994.10.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第11959号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 花村,榮一
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 桜井,捷海
 東京大学 助教授 五神,真
内容要旨

 1980年代後半に急速に進歩した中性原子のレーザー冷却・トラップ技術によって,原子物理の研究のうえで,かつてない特異で理想的な実験環境を実現できるようになった.これらは極低温原子気体の生成,それらの原子トラップによる長時間の閉じこめ,可視光の波長に迫る原子のド・ブロイ波長の実現,の3つに要約される.1990年に入ると,これらの特徴を踏まえた,極低温原子の応用の研究がナトリウム原子をはじめとするアルカリ金属原子で盛んに行われるようになった.原子の運動制御技術の開発,近共鳴光の下での極低温衝突実験等のほか,時間標準の飛躍的精度向上を狙った原子泉による超微細遷移のラムゼー分光等,実用を目指した研究も行われるようになった.最近では冷却原子を用いた干渉実験も行われている.

 レーザー冷却法の研究は,原子の運動制御技術の開発とその応用の両面で著しい進歩を遂げたが,この間,冷却原子種はナトリウム原子を中心とするアルカリ金属原子にほぼ限られていた.本研究では,当時まだ冷却・トラップの試みられていなかったアルゴン・クリプトン原子に注目し,半導体レーザーを光源として用いることで,そのレーザー冷却・トラップを行った.アルゴン・クリプトン原子のレーザー冷却・トラップでは,冷却の下準位が10eVものエネルギーをもつ準安定状態であるという従来のアルカリ金属原子の系にはない大きな特徴をもつ.このほか,クリプトン原子では,核スピンI=0,9/2をもつ統計性を異にする2種の同位体が存在し,同位体効果の観測も期待される.

 本論文では,これらの特徴を持つ極低温準安定状態原子の物理現象を,磁気光学トラップ中での振る舞いから明らかにした.図1に,磁気光学トラップ中の準安定状態84Kr原子数の時間変化を,87Rb原子の場合と比較して示した.この減衰の様子から,原子定数,極低温衝突に関する様々な知見を得ることができる.論文ではこのうち,主として次の二つの事項,1s5準安定状態の寿命測定,準安定状態原子の光誘起極低温衝突のダイナミクスの解明,についてまとめている.

 希ガス原子では1s5(np5(n+1)s,3P2)準安定状態とその上の2p9(np5(n+1)p,3D3)状態の間に閉じた2準位系を見いだすことができ,これを冷却・トラップ遷移として用いることができる.1s5状態からの遷移の可能な下準位は1S0基底状態だけでJ=2の磁気四重極遷移のみであるため,1s5準安定状態は数十秒の非常に長い寿命をもつことが計算されている.

 レーザー冷却,トラップの精密測定への応用のデモンストレーションとして,アルゴン・クリプトン原子の1s5準安定状態寿命の測定を行った.ここでは,中性原子において初めて40秒にも及ぶ極めて長い準安定状態寿命を実験的に明らかにすると同時に,レーザートラップを寿命測定に応用するためのテクニックを開発した.数十秒に及ぶイオンの準安定寿命の側定は,これまでイオントラップを用いた測定がなされてきたが,中性原子レーザートラップを用いた寿命測定では,次の2つの困難が生じる.レーザートラップ中では,原子は共鳴光との強い相互作用により,冷却に用いる上下準位の混合状態にあること,そして,トラップポテンシャル(〜1K)がイオントラップの場合に比べて格段に浅いことである.これらの問題を解決する方法として,トラップレーザーの矩形波変調によるトラップ原子の内部状態制御と,トラップ原子の衝突ロスレートに関する詳細な検討を行った.

 トラップ蛍光の測定から1s5準安定状態寿命を求めるために,次の2段階の手順を踏んでいる.まず最初に,トラップレーザーを500kHzの矩形波で変調することで,1s5状態の遷移確率を2p9状態の遷移確率から分離した.2p9状態は1s5状態に30nsの励起状態寿命で緩和するから,レーザーを切っている間は原子は1s5状態にある.変調のデューティー比,を変化させながら測定を行い,その結果をデューティー比,→0に外挿することで,1s5状態の緩和速度を求めた.次に,以上の測定を導入ガス圧,導入ガス種を変えて行い,圧力0の外挿により衝突の効果の取り除いた.この様子を図2に示す.こののち,準安定状態クリプトン原子と,ルビジウム原子の衝突過程の類似性によって外挿値の導入ガス種によって生じる不確定さの範囲を狭める議論を行った.

 この結果を表1にまとめる.1s5状態寿命は,アルゴン,クリプトン原子で,Small-Wallen,Chou Chiuらの理論値よりそれぞれ32%,56%小さい値となった.彼らの計算は1s2状態の遷移確率の理論値にもとづいているが,アルゴン原子に対する彼らの値を,1s2状態の実験値5×108s-1で修正すれば,ここで得られた実験値と理論値との差は12%以下になっている.

 以上の準安定寿命の測定ではトラップロスレートの詳細な解析が必要となるが,この過程で準安定状態原子の二体衝突レートがトラップレーザー光の存在によって1桁以上も増大することを発見した.このメカニズムを解明するために,準安定状態原子の光誘起極低温衝突のモデルをたて,実験との比較を行った.アルカリ金属原子では,冷却遷移の共鳴周波数から負の離調をつけたレーザー(「カタリシスレーザー」,衝突誘起レーザー)を照射することで,衝突レートが数倍に増加することが観測されている.これらのアルカリ金属原子では,衝突機構についての理論的研究も盛んに行われているが,超微細構造が存在すること,いくつかの衝突ロス過程が混在することから,理論と衝突誘起レーザーを使った実験との比較は必ずしも容易ではなかった.一方,偶数の質量数をもつ希ガス準安定状態原子では,超微細構造がなく,しかも,衝突過程としてイオン化衝突過程のみを観測することができるため,アルカリ原子の場合に比べて明快な議論が可能になる.

 近接原子対が,双極子遷移で結ばれた異なる電子状態にあるとき,それらの原子間には共鳴双極子相互作用が働く,

 

 ここで,/2を表し,,はそれぞれ冷却遷移の波長,自然幅を表す. aは1のオーダーの相互作用に依存した定数である.このポテンシャルはトラップ中のレーザー冷却原子に対して十分に大きく,数10nmの原子間距離においてさえ,衝突原子の運動の軌跡を変えてしまう.

 ドップラー冷却温度(125K)程度に冷却された極低温クリプトン原子に,1s5・2p9冷却遷移の近共鳴レーザーを照射する場合を考える.接近する原子対は,このレーザーの離調が(1)式の相互作用エネルギーに等しくなる原子間距離で,1s5・2p9原子系の断熱ポテンシャルの一つに励起される.このレーザーの離調が負の場合には,引力ポテンシャル上に励起され,接近する方向に加速されるため,原子のイオン化衝突確率が増大する.この衝突レートはレーザーの離調に依存している.離調の大きいときには,このポテンシャルの傾きが大きいところで励起されるため,加速は大きいが,励起確率は小さくなる.また,離調の小さいときには,一回の励起にともなう加速は小さいが,原子対は共鳴領域からはずれる前に励起-自然放出のサイクルを繰り返すことでエネルギー獲得が可能になる.一方,レーザーの離調が正の時には,原子間には斥力が働き,イオン化衝突確率は減少する.このモデルによる,衝突レートの励起周波数依存性のモンテカルロシミュレーションを図3に示す.ここで,衝突レートは1s5状態原子のイオン化衝突レートに規格化している.

 実験は,磁気光学トラップにおいて,(1)冷却・トラップ,(2)衝突誘起レーザーにより誘起された準安定状態原子のイオン化衝突の測定,からなるサイクルを,トラップレーザー,衝突誘起レーザーを時間軸上で交互に照射することで行った.(1)では原子の温度設定を行い,(2)では衝突原子対の電子状態制御を行っている.この結果得られた,温度74K,450Kでの光誘起衝突のレーザー周波数依存性を図4に示す.衝突誘起レーザーの強度は4mW/cm2であった.衝突レートの絶対値においてはシミュレーションが3倍程度の過大評価をする結果となっているものの,シミュレーションで行ったいくつかの簡略化の仮定にもかかわらず,図3は衝突レートの抑制と増強について実験値をよく再現し,極値の生じる位置と相対的強度比はともによく一致している.

図表図1 磁気光学トラップ中の準安定状態84Krと87Rb原子数の時間変化 / 図2 準安定状態84Kr原子のトラップロスレートの導入ガス圧,導入ガス種依存性 / 表1 準安定状態寿命の測定結果のまとめ / 図3 光誘起衝突のモンテカルロシミュレーション(原子温度100K,400Kのときの,衝突誘起レーザー周波数依存性) / 図4 光誘起衝突の衝突誘起レーザー周波数依存性(実験値)

 磁気光学トラップは中性原子の原子定数の精密測定,あるいは極低温衝突の研究の上で最適な実験環境を与えている.本研究では,準安定状態寿命の測定,光誘起極低温衝突のダイナミクスの解明を通して,トラップレーザーの時間分割照射の方法によって,原子の内部状態と外部状態を独立に,しかも自在に制御できることを示した.これは電子状態の制御は数光子による光ポンプによって〜s以内に達成できること,一方その間には原子の運動状態はほとんど影響を受けないことを利用している.このような実験手法の開発により,レーザートラップは今後極低温原子物理の研究手法として欠くことのできない位置を占めてゆくと考えられる.

審査要旨

 本論文は準安定状態にあるアルゴンおよびクリプトン原子のレーザー冷却、トラッピングの研究、および、その結果として得られた極低温原子の物理的性質に関する研究成果をまとめたものである。論文は6章からなっている。

 第1章は序論で本研究の背景を説明している。第2章はレーザー冷却理論のレビューであり、第3章はこの研究に用いた実験装置の記述に当てられている。いずれも、世界で初めて行われた研究ではないが、準安定状態希ガス原子線の生成方法、トラッピング用半導体レーザーのスペクトル幅狭窄化、安定化などの技術に関する記述は同種の研究を行う者のみならずレーザー分光一般の研究者にとって有用な資料となるであろう。

 第4章は上記の装置を用いて得られた磁気光学トラップの特性について述べている。希ガス原子トラップの特徴は基底状態より10eV以上高エネルギーの状態に励起された原子をトラップしていることにある。このため、アルカリ原子トラップで一般的に行われている蛍光測定による解析に加え、トラップ原子同士、あるいは周りの分子との衝突によって生じるイオンを観測することでも物理的に有用な情報が得られる。後者の手段は、以下の章の研究で非常に有効に利用されている。希ガス原子が多数の同位体を持っていることも重要な特徴の一つである。原子の共鳴周波数は同位体で異なるから、このトラップレーザー光周波数を掃引することで同位体原子を分離することが出来る。クリプトン同位体の中でも83Krはレーザー冷却に成功している数少ない奇パリティー原子の一つであり、量子効果の研究にとって有用である。83Krは超微細構造を持っているため、アルカリ原子の場合と同じく、複数本のレーザー周波数を用いて冷却する必要がある。しかし、超微細構造間隔がアルカリ原子の場合とは大きく異なるためトラッピングに対する特性も大きく異なっている。本研究では原子密度や冷却温度に与える影響を詳細に調べている。

 第5章以下は極低温準安定状態希ガス原子気体の物理的特性に関する研究である。第5章では奇ガス準安定状態の自然寿命測定について述べている。奇ガス原子の最低励起状態は寿命が数十秒もあるため、その自然寿命測定は今まで全く不可能であった。著者によるトラッッピング成功と準安定状態の性質を引き出す実験手段の開発で初めて可能になった。寿命の測定値は、重い原子(Kr)では今までの理論値と一致しないことを示している。この結果は、最近、NIST(米国)で行われたクセノンに関する同種の実験にも影響を与えた。

 寿命測定は十数分に及ぶ蛍光の減衰を条件を変えながら繰り返し測定するという、大変時間のかかる実験であるが、自然寿命時間のほかに原子衝突に関する種々の情報が得られる。著者は、トラップポテンシャルを1Kから数十mKにわたって変化させ、希ガス原子と他の原子、分子との長距離相互作用のポテンシャルの係数の測定に成功している。

 第6章では極低温準安定Kr原子の光誘起衝突の実験、および極低温原子衝突における量子効果の研究について述べている。極低温原子気体に、原子の共鳴周波数よりわずかに低い周波数の光を照射すると非弾性衝突断面積が大きく変化することはアルカリ金属原子のトラップを使った研究で知られていたが、その物理的説明は定まっていない。これは、アルカリ原子が超微細構造を持っていることに加え、多数の非弾性散乱過程が可能なため、単純な解析が困難なことによる。希ガス原子の場合には、非弾性衝突過程はペニングイオン化過程に限られ、非常に単純になる。この結果、極低温では非常に弱い相互作用によって原子の運動が大きな影響を受けること、ならびに衝突時間が熱的原子の場合に比べて数桁長くなるという性質からくる衝突過程の特徴を定量的に検証する事が出来る。著者は、この点に注目してKrを用いた詳細な研究を行ない、低周波シフト光による衝突断面積の増加とともに、光周波シフト光による衝突の抑制が起こることを実証し、また、衝突速度の周波数依存性が半古典的理論と定量的に一致する事を示した。

 極低温衝突における量子効果も物理的に興味ある話題の一つである。極低温では、量子統計効果によって、原子のパリティーが奇か偶かで衝突断面積の温度依存性が全く異なることが期待される。著者は、奇パリティーの83Krと偶パリティーの84Krを同一条件で冷却し、ペニングイオン化速度を測定して、この差を初めて実験的に示すことに成功した。

 中性原子のレーザー冷却の研究は、大部分の研究者がアルカリ金属を採用したため、希ガス原子のレーザー冷却の詳細な研究は著者の研究以外には存在しない。上に述べたように、希ガスは、衝突過程の明解さ、多様な同位体の存在、クリーンな実験を行う可能性などアルカリ原子では得られない特質を持っている。この結果、著者の研究は希ガスのレーザー冷却の研究で世界をリードしているだけでなく、レーザー冷却一般の研究に対して大きな貢献をしてきた。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50905