学位論文要旨



No 211960
著者(漢字) 木村,康之
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ヤスユキ
標題(和) 強誘電性液晶の非線形誘電緩和スペクトロスコピー
標題(洋)
報告番号 211960
報告番号 乙11960
学位授与日 1994.10.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第11960号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 田中,肇
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
内容要旨

 誘電体のダイナミックスに関する情報を得るための手段として、時間的に変化する電場E(t)を入力として物質に加え、その電気変位応答D(t)の線形成分を観測する線形誘電緩和スペクトロスコピーは、その広帯域性ならびに多様な材料への適用可能性ゆえに広く利用されてきた。一方、液晶や高分子などのソフトな物質系では、比較的低電場でも非線形応答の観測が可能である。線形誘電緩和が双極子の熱的ゆらぎによって起こるのに対して、非線形誘電緩和は電場による高次摂動効果と考えられ、その応答は線形誘電緩和に比べて物質の微視的構造や分子運動にはるかに敏感に依存するため、微細な構造や局所的な相互作用に関する、より豊富な情報を与えることが期待される。しかし、測定原理の未確立、方法論上の利点の未認識および測定精度の不足などにより、この測定法は物質のダイナミックスの測定手段として従来、あまり利用されて来なかった。近年、非線形応答を線形応答から高精度に分離・検出するためのデジタル信号処理技術の進歩や顕著な非線形誘電性を有する物質の発見を契機として、非線形誘電性の研究が行われるようになったが、緩和スペクトロスコピーとしては確立していないのが現状である。

 一方、非線形応答を理論的に取り扱う一般論としてはNakadaによる非線形応答の現象論がある。これは線形応答が刺激と応答関数の畳み込み積分で表されることの拡張として、非線形応答が刺激と多時間応答関数の多重畳み込み積分の和で与えられるとしたものである。このとき、応答関数として指数関数の積を現象論的に仮定すると、高次の非線形緩和スペクトルはDebye型スペクトルを非線形に拡張した単一緩和時間のDebye型スペクトルの積の形で与えられる。これに対して、具体的なモデルに基づく非線形誘電緩和スペクトルの理論的計算は従来行われておらず、従ってこのような微視的理論との比較による現象論の妥当性の議論もこれまで行われて来なかった。また、実験的にも、強誘電性高分子薄膜の低周波非線形誘電率および極性高分子薄膜の非線形誘電緩和スペクトルの測定が行われるようになったのはごく最近であり、実験結果と理論の比較もまだ十分には行われていない。ことに実験との比較の際に、現象論に現れる高次非線形緩和時間の物理的意味を埋解するためには個別の微視的モデルによる非線形誘電緩和スペクトルの計算が必要となる。

 本研究で測定対象とする液晶は近年、新しい機能性材料として注目され、既に各種電子機器用の表示素子として工業的に広く利用されてきている。ことに強誘電性液晶はその電場に対する高速応答性のために、代表的表示素子としての将来が期待されており、基礎的、応用的研究が活発に行われている。本研究では、非線形応答理論に基づき周波数域での非線形誘電緩和スペクトル測定システムを開発して、そのスペクトロスコピーとしての方法論的確立を行なった。さらに開発された測定システムを強誘電性液晶に適用することにより、その特異な物性について種々の新しい知見を得るとともに、本スペクトロスコピーのダイナミックス測定法としての有効性を確かめた。また、自由回転双極子モデルおよび液晶のSmC*相に関する連続体理論に基づいて、各々の場合の非線形誘電緩和スペクトルを計算し、現象論の結果と比較することにより、現象論の近似としての有効性を確認した。

 以下に本研究で得られた成果を要約する。

1.周波数域における非線形誘電緩和スペクトル測定システムの開発

 正弦波電場を入力とし、得られた電気変位応答の高調波成分として非線形性を分離する周波数域・非線形誘電緩和測定法を開発した。非線形応答の現象論によれば、電気変位応答のn次高調波成分のうちの主要項である印加電場振幅のn乗に比例する成分の比例係数からn次非線形誘電率を計算することができる。この原理に基づいて、開発された測定システムでは高速・高精度のデジタルオシロスコープを用いて電気変位応答の各高調波成分の振幅および位相遅れを検出し、その印加電場振幅依存性から線形および非線形誘電緩和スペクトルを求める。さらに、この測定システムでは一連の操作をコンピュータコントロールすることにより周波数、印加電場、温度依存性の測定の自動化を実現した。

2.強誘電性液晶のSmC*相における非線形誘電緩和スペクトルの測定

 開発された測定システムを用いて単一成分(DOBAMBCなど)および多成分系(764Eなど)の強誘電性液晶のSmC*相における非線形誘電緩和スペクトルの測定を行ない、以下のような知見を得た。

 (1)測定された非線形誘電率は強誘電性高分子薄膜や極性高分子薄膜において従来測定されたものに比べて数桁以上も大きな値を示しており、強誘電性液晶が非線形誘電緩和スペクトロスコピーの格好の対象であることがわかった。

 (2)高次の非線形スペクトルが線形スペクトルとよく対応することから非線形性を示すモードが液晶の螺旋構造の揺らぎに起因するGoldstone modeであること、さらに、3次非線形緩和強度が負であることから、この非線形性が螺旋構造の両端を固定して螺旋を電場方向にねじることによっておこる双極子の配向飽和によることがわかった。

 (3)観測される非線形誘電緩和スペクトルの概形は非線形応答の現象論から予測される拡張Debye型緩和に緩和時間分布を導入したスペクトルによく一致しており、強誘電性液晶の場合には現象論が近似的に有効であることがわかった。なお、このとき高次の非線形緩和時間は線形緩和時間より長くなることも見出された。

3.SmC*相の非線形誘電緩和スペクトルの理論的研究

 強誘電性液晶の連続体理論に基づく自由エネルギーの空間的変化と粘性トルクのつり合いから得られる配向ベクトルの方位角の空間的、時間的発展を記述する方程式を用いて、Goldstone modeに関する非線形誘電緩和スペクトルを理論的に導出した。印加電場が十分小さく、その影響が電場を印加していないときの螺旋構造に対する小さな摂動と考えられる場合について、方位角の電場による摂動解を求め、それを用いて電場による誘起分極を螺旋の1ピッチにわたり平均することで非線形誘電スペクトルを計算した。

 得られた高次非線形誘電緩和スペクトルのプロフィールは、線形緩和時間のみにより決まること、スペクトルの表式は現象論のような単一緩和時間のDebye型緩和の積ではなく、複数個の緩和時間のDebye型緩和の積の重ね合わせとして与えられること、偶数次の高次非線形スペクトルは対称性により現れないことがわかった。また、この理論スペクトルは測定により得られたスペクトルおよび緩和時間分布を考慮した現象論によるスペクトルのいずれともよく一致することがわかり、高次の非線形緩和時間と線形緩和時間との関係が明かになった。さらに、理論および実験で得られるスペクトルの比較から、自発分極、回転粘性係数などの応用上重要な物性量の同時測定が可能になることがわかった。

4.強誘電性液晶の相転移点近傍における非線形誘電緩和スペクトル

 強誘電性液晶のSmA相における傾き角方向のゆらぎであるソフトモードに関する非線形誘電率の測定を行った。SmA相に平行に電場を印加したとき、分子が層法線から傾く現象(電傾効果)を顕著に示す液晶では、観測される非線形応答が大きいため、SmA相の広い温度範囲にわたり高次非線形誘電率の臨界現象を精度よく測定することが可能となる。その結果、3次および5次の非線形誘電率は線形誘電率と同様に相転移点近傍でその強度が発散する臨界挙動を示し、しかもその臨界指数が4および7となり、線形の場合の1に比べてはるかに大きいことがわかった。また、相転移点近傍における非線形誘電率の符号は1次、5次の場合は正であり、3次の符号は2次転移をしめす764Eでは負に、1次転移を示すC7では正となり、転移の次数によることが実験的にわかった。さらに、これらの臨界挙動はPikinとIndenbomによるSmA-SmC*相転移に関するLandauの現象論を用いてよく説明でき、強誘電性液晶の相転移に対する平均場理論の妥当性が確認された。

 また、電傾係数の測定と組み合わせることによって、従来はSmC*相における複数の物性測定から求められてきた各種の現象論的パラメータの値がSmA相での非線形誘電測定により一度にかつ容易に決定できることもわかった。

5.自由回転双極子モデルによる非線形誘電緩和スペクトルの計算

 非線形応答の現象論におけるいくつかの仮定の有効性を検討するために、3次元的に自由回転できる双極子モーメントのモデルについて電場による摂動展開を用いた非線形誘電緩和スペクトルの分子論的計算を行なった。その結果、非線形応答の現象論において仮定されている余効関数の単純な指数型時間依存性がこの場合厳密には成立しないが、近似公式としては有効であることがわかった。

 さらに新たな近似公式をいくつか提案し、分子論の結果と比較することによりその有効性を検討した。分子論の結果および近似公式は溶液中の溶質分子の回転運動、非晶性高分子主鎖のミクロ・ブラウン運動、高分子側鎖の運動などによる配向分極に起因する非線形誘電緩和スペクトルに対しても適用できると考えられる。

審査要旨

 物質のダイナミックスに関する情報を得るための手段として、物質に時間的に変化する電場を加えたときの電気変位応答の線形成分を観測する線形誘電緩和スペクトロスコピーは、測定周波数帯域の広さならびに多種多様な物質への適用可能性ゆえに従来広範に利用されてきた。一方、液晶や高分子などのソフトな物質系では、比較的低電場の入力に対しても電気変位応答は容易に非線形となる。この非線形応答は線形応答に比べて物質の微視的構造や分子運動にはるかに敏感に依存するため、微細な構造や局所的な相互作用に関する、より豊富な情報を与えることが期待される。

 本研究では、非線形応答理論(現象論的一般論)に基づいて周波数域での非線形誘電緩和スペクトル測定システムを開発し、そのスペクトロスコピーとしての方法論的確立を目指した。さらに開発された測定システムを新しい機能性材料として注目されている強誘電性液晶に適用することにより、その特異な物性について種々の知見を得るとともに、本スペクトロスコピーのダイナミックス測定法としての有用性の確認を行った。また、自由回転双極子モデルおよび強誘電性液晶のスメクティックC*相に関する連続体理論に基づいて、各々の場合の非線形誘電緩和スペクトルを計算し、現象論の結果と比較することにより現象論の有効性の検証を行った。

 本論文は6つの章からなる。第1章は序論で、線形・非線形の誘電緩和応答理論(現象論)の概括、自由回転双極子モデルによる非線形誘電緩和スペクトルの分子論的導出、測定対象としての強誘電性液晶の構造・物性の概説等、本研究の基礎となる事項が述べられている。このうち特に、非線形スペクトルの分子論的計算の結果は、非線形応答の現象論から予測される拡張Debye型緩和に緩和時間分布を導入して得られるスペクトルとよい近似で一致しており、実測スペクトルの解析の際の現象論の有効性を明瞭に示している点で重要である。

 第2章では、新しく開発された周波数域における非線形誘電緩和スペクトル測定システムについて、その原理およびシステムの詳細が示されている。非線形応答の現象論によれば、電気変位応答のn次高調波成分のうちの主要項である正弦波電場振幅のn乗に比例する成分の比例係数からn次非線形誘電率が計算される。この原理に基づいて、開発された測定システムでは高速・高精度のデジタルオシロスコープを用いて電気変位応答の各高調波成分の振幅および位相遅れを検出し、その正弦波電場振幅依存性から線形および非線形誘電緩和スペクトルが求められる。なお、この測定システムではコンピュータ制御による周波数、印加電場、温度依存性の自動測定が実現されている。

 第3章では、単一成分および多成分系の強誘電性液晶のスメクティックC*相における非線形誘電緩和スペクトルの測定結果が示されている。高次の非線形スペクトルが線形スペクトルとよく対応することから非線形性を示すモードが液晶の螺旋構造の揺らぎに起因するGoldstoneモードであること、さらに、3次非線形緩和強度が負であることから、この非線形性が螺旋構造の両端を固定して螺旋を電場方向にねじることによっておこる双極子の配向飽和に起因することが示された。観測された非線形誘電緩和スペクトルの概形は緩和時間分布を導入した拡張Debye型緩和によく一致しており、強誘電性液晶の場合における現象論の有効性が確かめられた。

 第4章では、連続体理論に基づいて強誘電性液晶のスメクティックC*相における電気的なダイナミックスを記述する方程式を導き、これを用いてGoldstoneモードに関する非線形誘電緩和スペクトルの理論的計算を行った結果が示されている。得られた理論スペクトルは実測スペクトルとよい一致を示しており、高次の非線形緩和時間と線形緩和時間の関係が明らかにされた。さらに、理論および実験で得られるスペクトルの比較から、自発分極、回転粘性係数などの応用上重要な物性量が同時に求められることが示された。

 第5章では、強誘電性液晶の相転移点近傍のスメクティックA相における非線形誘電率の臨界挙動に関する測定結果が示されている。3次および5次の非線形誘電率は線形誘電率と同様に相転移点近傍でその強度が発散する臨界挙動を示し、しかもその臨界指数が4および7となり、線形の場合の1に比べてはるかに大きくなることが見いだされた。また、相転移点近傍における非線形誘電率の符号は1次、5次の場合は正であり、3次の符号は2次転移を示す液晶では負に、1次転移を示す液晶では正となり、転移の次数によることが実験的に示された。これらの臨界挙動はPikinとIndenbomによるLandau的な現象論を用いてよく説明でき、強誘電性液晶の相転移に対する平均場理論の妥当性が確認された。また、電傾係数の測定と組み合わせることによって、従来はスメクティックC*相における複数の物性測定から求められていた各種の現象論的パラメータの値がスメクティックA相での非線形誘電測定により一度にかつ容易に決定できることか示された。

 第6章では本研究で得られた結論および今後の課題が述べられている。

 以上のように、本論文は周波数域における非線形誘電緩和スペクトロスコピーの実験・理論の両面にわたる方法論的確立を行ない、さらに開発されたスペクトル測定システムを強誘電性液晶に適用することにより、その特異な物性について種々の新しい知見を得た点で、物理工学に対する寄与は大きい。よって博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

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