物質のダイナミックスに関する情報を得るための手段として、物質に時間的に変化する電場を加えたときの電気変位応答の線形成分を観測する線形誘電緩和スペクトロスコピーは、測定周波数帯域の広さならびに多種多様な物質への適用可能性ゆえに従来広範に利用されてきた。一方、液晶や高分子などのソフトな物質系では、比較的低電場の入力に対しても電気変位応答は容易に非線形となる。この非線形応答は線形応答に比べて物質の微視的構造や分子運動にはるかに敏感に依存するため、微細な構造や局所的な相互作用に関する、より豊富な情報を与えることが期待される。 本研究では、非線形応答理論(現象論的一般論)に基づいて周波数域での非線形誘電緩和スペクトル測定システムを開発し、そのスペクトロスコピーとしての方法論的確立を目指した。さらに開発された測定システムを新しい機能性材料として注目されている強誘電性液晶に適用することにより、その特異な物性について種々の知見を得るとともに、本スペクトロスコピーのダイナミックス測定法としての有用性の確認を行った。また、自由回転双極子モデルおよび強誘電性液晶のスメクティックC*相に関する連続体理論に基づいて、各々の場合の非線形誘電緩和スペクトルを計算し、現象論の結果と比較することにより現象論の有効性の検証を行った。 本論文は6つの章からなる。第1章は序論で、線形・非線形の誘電緩和応答理論(現象論)の概括、自由回転双極子モデルによる非線形誘電緩和スペクトルの分子論的導出、測定対象としての強誘電性液晶の構造・物性の概説等、本研究の基礎となる事項が述べられている。このうち特に、非線形スペクトルの分子論的計算の結果は、非線形応答の現象論から予測される拡張Debye型緩和に緩和時間分布を導入して得られるスペクトルとよい近似で一致しており、実測スペクトルの解析の際の現象論の有効性を明瞭に示している点で重要である。 第2章では、新しく開発された周波数域における非線形誘電緩和スペクトル測定システムについて、その原理およびシステムの詳細が示されている。非線形応答の現象論によれば、電気変位応答のn次高調波成分のうちの主要項である正弦波電場振幅のn乗に比例する成分の比例係数からn次非線形誘電率が計算される。この原理に基づいて、開発された測定システムでは高速・高精度のデジタルオシロスコープを用いて電気変位応答の各高調波成分の振幅および位相遅れを検出し、その正弦波電場振幅依存性から線形および非線形誘電緩和スペクトルが求められる。なお、この測定システムではコンピュータ制御による周波数、印加電場、温度依存性の自動測定が実現されている。 第3章では、単一成分および多成分系の強誘電性液晶のスメクティックC*相における非線形誘電緩和スペクトルの測定結果が示されている。高次の非線形スペクトルが線形スペクトルとよく対応することから非線形性を示すモードが液晶の螺旋構造の揺らぎに起因するGoldstoneモードであること、さらに、3次非線形緩和強度が負であることから、この非線形性が螺旋構造の両端を固定して螺旋を電場方向にねじることによっておこる双極子の配向飽和に起因することが示された。観測された非線形誘電緩和スペクトルの概形は緩和時間分布を導入した拡張Debye型緩和によく一致しており、強誘電性液晶の場合における現象論の有効性が確かめられた。 第4章では、連続体理論に基づいて強誘電性液晶のスメクティックC*相における電気的なダイナミックスを記述する方程式を導き、これを用いてGoldstoneモードに関する非線形誘電緩和スペクトルの理論的計算を行った結果が示されている。得られた理論スペクトルは実測スペクトルとよい一致を示しており、高次の非線形緩和時間と線形緩和時間の関係が明らかにされた。さらに、理論および実験で得られるスペクトルの比較から、自発分極、回転粘性係数などの応用上重要な物性量が同時に求められることが示された。 第5章では、強誘電性液晶の相転移点近傍のスメクティックA相における非線形誘電率の臨界挙動に関する測定結果が示されている。3次および5次の非線形誘電率は線形誘電率と同様に相転移点近傍でその強度が発散する臨界挙動を示し、しかもその臨界指数が4および7となり、線形の場合の1に比べてはるかに大きくなることが見いだされた。また、相転移点近傍における非線形誘電率の符号は1次、5次の場合は正であり、3次の符号は2次転移を示す液晶では負に、1次転移を示す液晶では正となり、転移の次数によることが実験的に示された。これらの臨界挙動はPikinとIndenbomによるLandau的な現象論を用いてよく説明でき、強誘電性液晶の相転移に対する平均場理論の妥当性が確認された。また、電傾係数の測定と組み合わせることによって、従来はスメクティックC*相における複数の物性測定から求められていた各種の現象論的パラメータの値がスメクティックA相での非線形誘電測定により一度にかつ容易に決定できることか示された。 第6章では本研究で得られた結論および今後の課題が述べられている。 以上のように、本論文は周波数域における非線形誘電緩和スペクトロスコピーの実験・理論の両面にわたる方法論的確立を行ない、さらに開発されたスペクトル測定システムを強誘電性液晶に適用することにより、その特異な物性について種々の新しい知見を得た点で、物理工学に対する寄与は大きい。よって博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。 |