本論文の課題は、日本信用機構の形成・確立の過程を、決済制度と金融市場の二つの視角から照射し、新しい像を提起するところにある。 これまで明治金融史研究は、分厚い研究蓄積をもち、すでに幾つかの強力な仮説に支えられた像が、通説として確固たる位置を占めている。通説が提出する明治中期の金融史像を一言で要約するならば「株式担保金融を軸に日銀を頂点とする縦割りの信用機構」と定式化されよう。この像は、吉野俊彦「オーバーローン」論、石井寛治「産業金融」論、野田・伊牟田「株式担保金融」論の三つの仮説に支えられている。これらの仮説は、明治期日本の工業化に際し、金融がどのような役割を果したか、イギリス型でもないドイツ型でもない、日本独自の金融構造をえぐりだすことによって、日本金融史研究に大きな飛躍をもたらした。これに対し、むしろ日本の金融構造の普遍的な性格を強調する立場から幾つかの批判が提出されたが、通説の位置は揺らぐことはなかった。本論文の目的は、こうした批判を念頭におきつつ、もう一度、通説が提起する金融史像を新しい角度から再検討するところにある。 第一に、通説の主たる関心が、近代日本の経済発展、工業化における金融の役割に向けられたため、資金のセクター間移転、資金フロー・アプローチが強調された。しかし信用機構は、資金媒介機能とならんで、資金決済機能も果たしている。資金フローとならんで決済機構という視角から、日本の金融史を再構成する必要がある。 この点について本論文では、日本において預金銀行システムがいつ、どのように確立したか、この点に課題を設定する。近代的決済機構の確立とは、預金銀行システムの確立に他ならず、預金が通貨として機能することを意味する。小切手流通、手形交換所の活動、そして中央銀行と交換所の関係を追うことによって、日本における預金銀行システムの確立とその限界を明らかにする。 第二に、通説は、日銀を頂点に縦に連なる資金の流れを強調したために、金融市場の働きを過小に、日銀の役割を過大に見ることになった。これまで自生的な民間再割引市場「手形売買所」の存在が看過されてきた。90年代日銀の再割引活動がこの自生的マネーマーケットとの対抗のなかでしか行えなかったことを明らかにする。 第三に、金融市場の活動に光をあてることは、民間と公的領域の役割について見直しを迫るばかりでなく、明治変革における伝統と革新の関係についてもあらためて検討を迫る。この点について本論文は、金融技術移転における慣行のもつ意義に注目し、徳川期両替商による決済機構が高度な小切手決済を果たしながら、手形割引の伝統をもたなかったこと、それが明治変革後の信用機構に影を落としたことを明らかにする。 まず序章において、徳川期から明治期にかけての決済制度の展開を現代的観点から概観したあと、第1章において、維新変革後の信用機構のありようをめぐって二つのコースが対抗していたことを示す。五代友厚ら大阪財界は、徳川期に高度に発展を遂げた両替商手形による決済制度を復興するよう主張したのに対し、渋沢栄一ら維新金融官僚は、西欧流の手形割引制度の導入を第一義とする革新コースを実行に移した。1882年に制定された手形条例も後者のコースに沿って、その主眼を「裏書輾転流通」の移植においた。これに対し民間慣行を重視する自由主義者の田口卯吉は、裏書の強制はむしろ手形流通の発展を阻害するとし、伝統のうちに革新の可能性を探る第三のコースを主張した。 以下、二つのコースの可能性を探るべく、前半の諸章を手形取引、後半の諸章を小切手取引の導入と定着をめぐる諸問題を扱う。 まず第2章では、1882年急遽、上から設立された日本銀行が、自生的な民間金融市場がかかえる地域分散性にたいし、如何に対応したか、欧米中央銀行との比較のなかで明らかにする。全国に散在する各地の銀行を結ぶ全国為替決済機構として、連帯為替制度が自主的に組織されるなかで、日本銀行は初期の動揺の末「銀行の銀行」方針を掲げたが、全国金融調節のために、支店網の代わりに各地国立銀行とのあいだにコルレス網を構築する独自の方策をとった。全国為替取引の最終調節の場としてこれまで機能してきた為替取組所の活動は、この公的コルレス網の拡充によって呑み込まれてしまった。 第3章では、「再割引中央銀行」として新設された日本銀行が、手形割引の伝統をもたない民間市場に対し、上から強引に手形取引を振興する方策をとらざるをえず、それが破綻していった過程を明らかにする。「保証品付手形から商業手形へ」という漸進的アプローチに沿って、1884年東京と大阪で官民挙げて、日銀を頂点とする倉荷証券付手形割引システムが組織された。この割引システムは、倉庫商品の権利関係が不明確という倉荷証券としての未熟性そして米穀投機を誘発したことから、激しい金融パニックを惹き起し破綻に至った。このとき日銀大阪支店が低金利策をとったという通説に対し、これまで未知であった民間再割引市場金利をもとに疑問が呈され、むしろ1887年以降生糸金融優遇のために東京本店で低金利策がとられたことが示される。 第4章において、1890年代の日本銀行の活動を自生的民間再割引市場との対抗の中でとらえ、「専権の時代」であったとする通説に疑問を提起する。在来の民間金融市場に如何にアクセスするか、そのルートを構築するところに、90年代日銀の課題があった。これまで通説は株式担保再割引ルートのみを強調してきたが、日銀は商品保証付再割引、商業手形再割引、株式担保再割引の各ルートを順次開き、漸く市場にアクセスできる態勢を整えたこと、株式担保再割引ルートは当初一時的処置として考えられてきたが、民間金融市場との接触を失うことを恐れ、廃止に至らなかったこと、長期固定的と考えられてきた株式担保再割引が、商業手形再割引よりも金利感応的であること、などの事実から90年代日銀が「専権の時代」にあったというよりも、民間金融市場をつかむべく、追随せざるをえなかった時代と結論する。 後半4つの章では、預金銀行決済システムの形成・確立過程に光をあてる。 最初の第5章では、これまで研究史上手薄であった預金市場の形成・確立過程を預金決済の視角から明らかにする。預金市場確立の指標として、定期(貯蓄性)預金と当座(決済性)預金が期間、金利、機能の点で明確に分化することに求め、これによって日本では、1901年恐慌後、預金市場が確立したことを確認する。日清戦後のブームにおける当座預金金利の急騰、その後の1901年恐慌勃発への反省のなかから、協定によって預金金利を低位に抑えるようという機運が生まれ、預金銀行化の条件が整えられた。 第6章は、決済システムにおける公・民の対抗の問題に光をあてる。日本でも早くから手形交換所が機能し、後発の日銀とっては如何に交換所を取り込んで一元的な決済システムを構築するかが大きな課題であった。とくに大阪では97年に至るまで、民間交換所システムが日銀とは関わりなく活動を続けた。当初、日銀は交換所に代わって自ら顧客間の振替を行う、独・仏型の公的振替制へ向かう兆しを見せたが、日清戦後、当座勘定決済の振興、小切手決済制度のロンドン型への一元化など、交換所を軸とする英国型の預金決済機構をめざす改革を断行した。他方、交換所間をむすぶ隔地間の全国決済について全国手形交換所同盟会を中心に議論されたがまとまらず、渋沢栄一の夢だった全国統一決済構想は遂に日の目を見ることがなかった。 つづく第7章では、90年代の決済機構改革がマネーマーケットにどのような影響を与えたか、検討する。交換所に付属する民間の手形売買市場が、90年代日銀の再割引活動に無視しえない影響を与えたこと、ならびに日銀が自己の傘下に手形交換所を取り込むためには手形売買市場の機能を代位せねばならず、その結果膨張的な取引政策を取ったことなど、新しい事実が明らかにされる。この預金決済システムへの転換にともなう過渡期のイメージを90年代全体に広げたとき、通説のいう日銀の「専権」が現れる。 終章は、日銀がいったん内部化したマネーマーケットを再び外部化する過程として、l897年にはじまる金融改革に光をあてる。97年の金融改革のイニシアテイフは、通説が想定する岩崎弥之助(日銀)ではなく松方正義(政府・大蔵省)にあり、その後も大蔵省主導で日銀と熾烈な交渉が行われたこと、その狙いは金本位制を維持しうる貨幣信用機構を構築するところにあり、その一環として貸出の弾力化、正貨の蓄積などが求められたこと、が明らかにされる。貸出の弾力化のためにまず金利政策の活性化が試みられ、ボーア戦争時の金流出のなかで、速効的な補完手段として貸出量の削減が断行され、民間銀行の日銀貸出への依存は軽減し、ここに預金銀行化の最終局面が終わる。 |