学位論文要旨



No 211964
著者(漢字) 鶴見,誠良
著者(英字)
著者(カナ) ツルミ,マサヨシ
標題(和) 日本信用機構の確立
標題(洋)
報告番号 211964
報告番号 乙11964
学位授与日 1994.10.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第11964号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 原,朗
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 伊藤,正直
 東京大学 助教授 岡崎,哲二
内容要旨

 本論文の課題は、日本信用機構の形成・確立の過程を、決済制度と金融市場の二つの視角から照射し、新しい像を提起するところにある。

 これまで明治金融史研究は、分厚い研究蓄積をもち、すでに幾つかの強力な仮説に支えられた像が、通説として確固たる位置を占めている。通説が提出する明治中期の金融史像を一言で要約するならば「株式担保金融を軸に日銀を頂点とする縦割りの信用機構」と定式化されよう。この像は、吉野俊彦「オーバーローン」論、石井寛治「産業金融」論、野田・伊牟田「株式担保金融」論の三つの仮説に支えられている。これらの仮説は、明治期日本の工業化に際し、金融がどのような役割を果したか、イギリス型でもないドイツ型でもない、日本独自の金融構造をえぐりだすことによって、日本金融史研究に大きな飛躍をもたらした。これに対し、むしろ日本の金融構造の普遍的な性格を強調する立場から幾つかの批判が提出されたが、通説の位置は揺らぐことはなかった。本論文の目的は、こうした批判を念頭におきつつ、もう一度、通説が提起する金融史像を新しい角度から再検討するところにある。

 第一に、通説の主たる関心が、近代日本の経済発展、工業化における金融の役割に向けられたため、資金のセクター間移転、資金フロー・アプローチが強調された。しかし信用機構は、資金媒介機能とならんで、資金決済機能も果たしている。資金フローとならんで決済機構という視角から、日本の金融史を再構成する必要がある。

 この点について本論文では、日本において預金銀行システムがいつ、どのように確立したか、この点に課題を設定する。近代的決済機構の確立とは、預金銀行システムの確立に他ならず、預金が通貨として機能することを意味する。小切手流通、手形交換所の活動、そして中央銀行と交換所の関係を追うことによって、日本における預金銀行システムの確立とその限界を明らかにする。

 第二に、通説は、日銀を頂点に縦に連なる資金の流れを強調したために、金融市場の働きを過小に、日銀の役割を過大に見ることになった。これまで自生的な民間再割引市場「手形売買所」の存在が看過されてきた。90年代日銀の再割引活動がこの自生的マネーマーケットとの対抗のなかでしか行えなかったことを明らかにする。

 第三に、金融市場の活動に光をあてることは、民間と公的領域の役割について見直しを迫るばかりでなく、明治変革における伝統と革新の関係についてもあらためて検討を迫る。この点について本論文は、金融技術移転における慣行のもつ意義に注目し、徳川期両替商による決済機構が高度な小切手決済を果たしながら、手形割引の伝統をもたなかったこと、それが明治変革後の信用機構に影を落としたことを明らかにする。

 まず序章において、徳川期から明治期にかけての決済制度の展開を現代的観点から概観したあと、第1章において、維新変革後の信用機構のありようをめぐって二つのコースが対抗していたことを示す。五代友厚ら大阪財界は、徳川期に高度に発展を遂げた両替商手形による決済制度を復興するよう主張したのに対し、渋沢栄一ら維新金融官僚は、西欧流の手形割引制度の導入を第一義とする革新コースを実行に移した。1882年に制定された手形条例も後者のコースに沿って、その主眼を「裏書輾転流通」の移植においた。これに対し民間慣行を重視する自由主義者の田口卯吉は、裏書の強制はむしろ手形流通の発展を阻害するとし、伝統のうちに革新の可能性を探る第三のコースを主張した。

 以下、二つのコースの可能性を探るべく、前半の諸章を手形取引、後半の諸章を小切手取引の導入と定着をめぐる諸問題を扱う。

 まず第2章では、1882年急遽、上から設立された日本銀行が、自生的な民間金融市場がかかえる地域分散性にたいし、如何に対応したか、欧米中央銀行との比較のなかで明らかにする。全国に散在する各地の銀行を結ぶ全国為替決済機構として、連帯為替制度が自主的に組織されるなかで、日本銀行は初期の動揺の末「銀行の銀行」方針を掲げたが、全国金融調節のために、支店網の代わりに各地国立銀行とのあいだにコルレス網を構築する独自の方策をとった。全国為替取引の最終調節の場としてこれまで機能してきた為替取組所の活動は、この公的コルレス網の拡充によって呑み込まれてしまった。

 第3章では、「再割引中央銀行」として新設された日本銀行が、手形割引の伝統をもたない民間市場に対し、上から強引に手形取引を振興する方策をとらざるをえず、それが破綻していった過程を明らかにする。「保証品付手形から商業手形へ」という漸進的アプローチに沿って、1884年東京と大阪で官民挙げて、日銀を頂点とする倉荷証券付手形割引システムが組織された。この割引システムは、倉庫商品の権利関係が不明確という倉荷証券としての未熟性そして米穀投機を誘発したことから、激しい金融パニックを惹き起し破綻に至った。このとき日銀大阪支店が低金利策をとったという通説に対し、これまで未知であった民間再割引市場金利をもとに疑問が呈され、むしろ1887年以降生糸金融優遇のために東京本店で低金利策がとられたことが示される。

 第4章において、1890年代の日本銀行の活動を自生的民間再割引市場との対抗の中でとらえ、「専権の時代」であったとする通説に疑問を提起する。在来の民間金融市場に如何にアクセスするか、そのルートを構築するところに、90年代日銀の課題があった。これまで通説は株式担保再割引ルートのみを強調してきたが、日銀は商品保証付再割引、商業手形再割引、株式担保再割引の各ルートを順次開き、漸く市場にアクセスできる態勢を整えたこと、株式担保再割引ルートは当初一時的処置として考えられてきたが、民間金融市場との接触を失うことを恐れ、廃止に至らなかったこと、長期固定的と考えられてきた株式担保再割引が、商業手形再割引よりも金利感応的であること、などの事実から90年代日銀が「専権の時代」にあったというよりも、民間金融市場をつかむべく、追随せざるをえなかった時代と結論する。

 後半4つの章では、預金銀行決済システムの形成・確立過程に光をあてる。

 最初の第5章では、これまで研究史上手薄であった預金市場の形成・確立過程を預金決済の視角から明らかにする。預金市場確立の指標として、定期(貯蓄性)預金と当座(決済性)預金が期間、金利、機能の点で明確に分化することに求め、これによって日本では、1901年恐慌後、預金市場が確立したことを確認する。日清戦後のブームにおける当座預金金利の急騰、その後の1901年恐慌勃発への反省のなかから、協定によって預金金利を低位に抑えるようという機運が生まれ、預金銀行化の条件が整えられた。

 第6章は、決済システムにおける公・民の対抗の問題に光をあてる。日本でも早くから手形交換所が機能し、後発の日銀とっては如何に交換所を取り込んで一元的な決済システムを構築するかが大きな課題であった。とくに大阪では97年に至るまで、民間交換所システムが日銀とは関わりなく活動を続けた。当初、日銀は交換所に代わって自ら顧客間の振替を行う、独・仏型の公的振替制へ向かう兆しを見せたが、日清戦後、当座勘定決済の振興、小切手決済制度のロンドン型への一元化など、交換所を軸とする英国型の預金決済機構をめざす改革を断行した。他方、交換所間をむすぶ隔地間の全国決済について全国手形交換所同盟会を中心に議論されたがまとまらず、渋沢栄一の夢だった全国統一決済構想は遂に日の目を見ることがなかった。

 つづく第7章では、90年代の決済機構改革がマネーマーケットにどのような影響を与えたか、検討する。交換所に付属する民間の手形売買市場が、90年代日銀の再割引活動に無視しえない影響を与えたこと、ならびに日銀が自己の傘下に手形交換所を取り込むためには手形売買市場の機能を代位せねばならず、その結果膨張的な取引政策を取ったことなど、新しい事実が明らかにされる。この預金決済システムへの転換にともなう過渡期のイメージを90年代全体に広げたとき、通説のいう日銀の「専権」が現れる。

 終章は、日銀がいったん内部化したマネーマーケットを再び外部化する過程として、l897年にはじまる金融改革に光をあてる。97年の金融改革のイニシアテイフは、通説が想定する岩崎弥之助(日銀)ではなく松方正義(政府・大蔵省)にあり、その後も大蔵省主導で日銀と熾烈な交渉が行われたこと、その狙いは金本位制を維持しうる貨幣信用機構を構築するところにあり、その一環として貸出の弾力化、正貨の蓄積などが求められたこと、が明らかにされる。貸出の弾力化のためにまず金利政策の活性化が試みられ、ボーア戦争時の金流出のなかで、速効的な補完手段として貸出量の削減が断行され、民間銀行の日銀貸出への依存は軽減し、ここに預金銀行化の最終局面が終わる。

審査要旨

 本論文は、日本銀行を頂点とする信用機構の形成・確立の過程を、金融市場と決済制度の二つの視角から分析し、従来の明治金融史研究において確固たる地位を占めて来た通説的理解とは大きく異なる明治中期の金融史像を提起せんとした研究である。

 序章「課題と展望」において著者は、吉野俊彦の「オーバーローン」論、石井寛治の「産業金融」論、野田正穂・伊牟田敏充の「株式担保金融」論からなる通説的な「縦割りの信用機構」論には、資金フローの視角しかなく決済面への関心が欠落していると批判するとともに、「預金銀行群の上に手形交換所と短期金融市場、その上に中央銀行が重なる、預金決済を軸とする金融組織の体系」としての預金銀行主義的信用機構の確立は、通説の言うように日本銀行の政策転換から説明されるべきではなく、上からの改革と自生的な民間金融市場のせめぎあいの帰結として把握されねばならないと主張する。かかる主張の背後には言うまでもなく江戸時代の信用制度への再評価が横たわっている。

 第I章「手形流通における伝統と革新--手形条例の編纂」において、著者は1882年の為替手形約束手形条例の制定過程を取り上げ、そこには五代友厚ら大阪商法会議所メンバーによる両替商手形(現在の銀行券・小切手に当たる)の復活を要求するコースと、東京第一国立銀行の渋沢栄一らによる西欧流の手形割引制度の導入を要求する革新コースとがあり、手形条例は後者のコースに沿って制定されたことを明らかにする。その上で、以下、第II〜IV章ではその後の手形市場が、第V〜VII章では小切手決済機構の形成が、それぞれ分析されていく。

 第II章「日本銀行の創設と内国為替市場の変貌」では、草創期の日本銀行が「銀行の銀行」たらんとしていたにもかかわらず、地方分散的な金融構造を統御するために、各地国立銀行との間に全国コルレス網を構築していった点が検討され、地方銀行主導の「連帯為替」制の全国化が日本銀行と東京・大阪両銀行集会所の反対で挫折したこと、および、全国為替取引の最終調節の場であった大阪・東京・京都の為替取組所の活動が、こうした日本銀行のコルレス網の拡充により併呑されたこと、が明らかにされる。

 第III章「1884年手形取引振興策とその挫折」では、日本銀行・大蔵省の主導により東京・大阪で大々的に実施された手形取引拡充政策が検討され、倉庫会社と「均融会社」による倉荷証券付手形割引システムが、横浜正金銀行による低利荷為替金融拡充の側圧と倉庫業における貨物保管責任の不明確さのために金融パニックを引き起こして破綻したこと、代わって日本銀行東京本店では1886年以降生糸を保証品とする手形の低利再割引が拡充されたことが指摘れる。

 続く第IV章「1890年代の日銀信用」において、著者は、通説の描く「市場に君臨する日銀」像に疑問を提起し、代わって「市場に対し接近すべく模索をつづける日本銀行像」を描き出している。まず、1889年から1890年にかけての金融逼迫にさいして日本銀行が株式担保手形割引を拡充しただけでなく、東京・大阪間為替手形をはじめとする商業手形の再割引を拡大し、さらに東京本店での保証品(生糸)付手形割引を拡張した経緯を跡付け、ついで、その後の日本銀行がこれら3ルートを通ずる金融市場との連係を維持すべく担保価格と金利水準の操作に努めた事実を明らかにする。そして著者は、1890年代の日銀信用の特徴として株式担保金融という「産業金融」を専ら強調したり、商業手形への過渡形態にすぎない商品保証手形を株式担保手形とともに「産業金融」として一括する通説を批判し、当時の金融市場に対して日本銀行は「支配」したというよりも「追随」したと言うべきだと主張する。

 第V章以下の3つの章では、著者は小切手決済機構に的を絞り、預金銀行決済システムの形成過程とそこでの日本銀行の役割について検討する。まず、第V章「日本における預金市場の形成」では、日本では当座(決済性)預金が先行し定期(貯蓄性)預金がのちに増加したという通説を批判しつつ、全国的にみて両種の預金が金利面で明確に分化したのは、1901年恐慌後であることを示し、金利協定によって預金金利を低位に押さえたことが預金銀行化を促進したと主張する。

 第VI章「日本における小切手流通の展開とその限界--手形交換所と公的振替制」では、決済システムにおける公・民の対抗の問題が扱われる。すなわち、日本銀行に依存しない手形交換所が活動する大阪と、日本銀行による直接振替および交換尻決済に依存する東京、という初期の多元的決済システムが、日清戦後、日本銀行による手形交換所交換尻決済という一元的決済システムへと統一され、大都市内部での小切手流通を促進するが、地方や隔地間での小切手取引は大きく立ち遅れたことが明らかにされる。

 続く第VII章「1890年代の交換所改革とマーケット」では、これまで全く見落とされて来た民間の再割引市場が存在し、とくに大阪では盛んな活動が見られたこと、それは1896年の金融危機によって消滅して日本銀行内部に包摂され、同行貸出の一時的肥大化を招いたことが指摘される。著者によれば、明石照男以来の1890年代日銀「専権」説は、決済制度再構築に伴うかかる過渡的現象を誤って1890年代全体に押し広げたものにほかならない。

 終章「日本における信用機構の確立」では、こうして一時肥大化した日銀信用が再び収縮し、名実ともに預金銀行システムが確立する過程が、岩崎・山本両総裁時代の金融政策の検討を通じて明らかにされる。著者は、1899年以降の日銀信用の収縮を機に民間銀行が速やかに日銀依存から脱却するのは、すでにみたような預金市場の形成が進んでいたためであると指摘する。

 以上の内容紹介から窺えるように、本論文は、日本銀行を頂点とする信用機構の確立過程とその特徴について、著者自身の旧説を含めた通説的理解とは決定的に異なる把握を打ち出さんと試みたものである。

 本論文の第一の特徴は、信用機構が資金媒介機能と並んで資金決済機能も果たしている事実に着目し、通説が強調する資金フローの視角だけでなく、決済機構という視角から日本金融史を再構成しようと試みた点にある。こうした視角に立つことにより、著者は、これまでの研究が全く看過してきた自生的な民間再割引市場の存在を明らかにし、1890年代の日本銀行の活動をそれとの関わりにおいて把握することができた。また、預金銀行システムの確立についても、小切手流通の広がり、手形交換所の活動、日本銀行と交換所の関係といった新しい基準から論ずることができた。

 第二の特徴は、そうした問題の実証にさいして、著者は、丁度百年史の編纂に当たっていた日本鎖行の所蔵する経営資料を閲覧し分析することにより、従来の実証水準を大きく凌駕することが出来たことである。もっとも、利用しえた日本銀行の所蔵資料は限られており、著者の主張には推定に頼らざるをえなかった部分がかなり残されているが、従来ほとんど利用されなかった経営資料の分析に基づく部分の著者の主張には強い説得力があるといってよい。

 第三の特徴は、民間金融市場の自生的展開を重視しながら西欧の金融技術の移転についての分析を試みた結果、江戸時代以来の両替商を中心とする伝統的な金融技術の発展と限界を明らかにし、明治維新変革における伝統と革新の関係について問題提起を行っていることである。

 このように、本論文は、日本銀行を頂点とする信用機構の確立について、新しい研究の地平を切り開いたものであり、今後の日本金融史研究は、本論文の実証と主張を踏まえることなしには進むことが出来ないといっても過言ではなかろう。

 もっとも、そのことは本論文の主張が全て説得的であることを意味するものではない。全体として、本論文は、決済制度という新しい視角に立って日本信用機構の確立を論じた点に特徴があるのであって、そこでの実証が、通説的な資金フローの視角に立つ分析結果をどこまで批判しえているかについては、さまざまな疑問を提起することができる。例えば、著者は、製糸金融にさいして日本銀行が積極的な「産業金融」を行っていたとする通説を批判するに当たって、保証品(生糸)付手形の日銀再割引が「条件さえ整えば商業手形決済へ転換しうる」という大蔵官僚田尻稲次郎の期待=理念をあたかも実現したかのように引用するという理念と現実の混同をしているだけでなく、「産業金融」論にとって最も肝要な生糸売込商による「原資金」前貸について、その資金供給の多くが日本銀行による無担保の「商業手形」再割引の形式で行われているという事実を全く無視するという誤りを犯している。また、当時の日本銀行の資金供給は、政府金融のルートを経るものが大きな比重を占めているにもかかわらず、その点が明確でないことも問題となろう。さらに、預金銀行システムの確立の把握についても、通説のいう自己資本に対する預金の比率という指標と、本論文が主張する当座預金による信用創造の出現という指標とがどのように関連するのかが必ずしも明らかでないという問題が指摘されねばなるまい。

 このように本論文には、なお検討を要する問題点がいくつも残されているが、そのことは本論文のもつ研究史上の画期的な意義を損なうものではない。審査委員は全員一致で、本論文の著者が、博士(経済学)の称号を授与されるに十分値するとの結論に達した。

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