学位論文要旨



No 211970
著者(漢字) 森,樹郎
著者(英字)
著者(カナ) モリ,ミキロウ
標題(和) 自律神経作動薬の人眼血液房水柵蛋白透過性に及ぼす効果 : 前房内フレアー強度測定による評価
標題(洋)
報告番号 211970
報告番号 乙11970
学位授与日 1994.10.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第11970号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 野々村,禎昭
 東京大学 助教授 岩森,正男
 東京大学 講師 飯野,正光
 東京大学 助教授 白土,城照
内容要旨

 自律神経作動薬の点眼は緑内障の治療、臨床検査や手術前処置としての散瞳を目的として広く行われている。特に緑内障治療薬は長期にわたって使用されるので副作用を有しないことが求められる。しかしこれらの薬剤が人眼の生理機能に及ぼす作用は十分に知られていない。本研究では臨床的に使用されている主要な自律神経作動薬の点眼が人眼の血液房水柵(blood-aqueous barrier,BAB)の透過性に及ぼす作用を解析した。BABは血液と房水の間で血漿蛋白に対するbarrierとして働くことで房水の蛋白濃度を低く保ち、さらに房水と血液の間で様々な物質を交換する。BABの透過性は眼内の炎症や薬物の作用によって容易に変化することが知られており、しばしば薬剤の眼に対する副作用を評価するパラメータとして用いられる。従来、人眼のBAB透過性は、臨床的には房水中に含まれる大分子の量を細隙灯顕微鏡下に観察した光の散乱(フレアー)強度から半定量化すること、実験的には全身投与した蛍光物質の前房中漏出を前房内蛍光強度を測定することで評価されてきた。しかし、前者は験者の主観による半定量的評価であり、後者は外因物質を投与することで起こる様々な問題点を有している。本研究では、まず人眼BABの透過性を定量的に解析するため、前房内フレアー強度を簡便かつ高精度に定量するlaser flare-cell meterの使用と蛍光色素点眼による房水流量の測定を組み合わせた新しいBAB透過性評価法を開発し、次いでこの方法を用いて各種自律神経系薬剤の点眼が人眼のBAB透過性に及ぼす作用を解析した。

 本研究で開発したBAB透過性評価法は以下のとおりである。BABは血液と房水の間に存在して血液から房水に種々の物質が漏出するのを制御している。対象となる物質を蛋白分子とすると、BABの蛋白透過性の指標Pin(t)は以下の式を満たすものとして定義される。

 

 ここでMa(t)は時間tにおける前房内蛋白総量、Cp(t)は時間tにおける血漿蛋白濃度、Ca(t)は時間tにおける前房内蛋白濃度、f(t)は時間tにおける房水流量である。Va(t)を時間tにおける前房容積とするとMa(t)=Va(t)Ca(t)なので、Pin(t)は以下の式で表すことができる。

 

 Ca(t)はlaser flare-cell meterによる前房内フレアー強度測定、Va(t)は写真撮影法、f(t)は蛍光色素点眼法によるフルオロフォトメトリー、Cp(t)は採取した血液からの測定によって求めるとPin(t)の値が得られる。

 この方法の妥当性を検討するために、まず家兎を用いて前房内のフレアー強度と前房内蛋白濃度の相関を調べた。房水中の大分子による光の散乱である前房内フレアーは、前房中の大分子の濃度だけでなく、その分子の大きさにも左右される。房水中蛋白の組成はBABの障害が進むに従ってglobulinのような大分子蛋白の割合が増加するので、BAB傷害が進むとフレアー強度と房水中の蛋白濃度の関係は変化する。fluorescein isothiocyanateを重合させたalbuminを静脈内投与した後に前房フレアー強度と前房蛍光強度を同時に測定して両者の相関から前房フレアー強度と前房内albumin濃度の相関を解析した。結果から家兎眼ではフレアー強度が約100photon count/ms以下の範囲ではフレアー強度と前房内のalbumin濃度が一定の直線関係にあるが、それ以上の範囲ではその関係が崩れることが明らかになった。この関係をふまえて人眼における評価を行った。

 本研究で対象とした自律神経作動薬は、ムスカリン性アセチルコリン受容体刺激薬であるpilocarpine(抗緑内障薬)、同遮断薬であるtropicamide(散瞳および調節麻痺薬)、交感神経1アドレナリン受容体刺激薬のであるphenylephrine(散瞳薬)、2アドレナリン受容体刺激薬であるapraclonidine(抗緑内障薬)、,アドレナリン受容体刺激薬であるepinephrine(抗緑内障薬)、アドレナリン受容体遮断薬であるtimolol(抗緑内障薬)であった。これらの薬剤点眼による正常人眼BABの蛋白透過性の変化を以下の表のとおりであった。

図表

 pilocarpineは抗緑内障薬として現在も第一線で使用されているが、内眼炎を増悪するなどの副作用が知られている。上の結果はそれを裏付け、さらに緑内障患者にpilocarpineを使用する際にこの薬剤を使用することの得失を考慮する必要性を示唆する。tropicamideの結果は同様の遮断薬であるatropineの人眼における抗炎症作用と関連が深いと考えられる。phenylephrineの結果は、この薬剤が人眼のBAB透過性に大きな作用を持たないという従来の方法による結果と異なる。短期とはいえBABに強く作用するこの薬剤が白内障術直前に広く用いられていることは一考を要する問題であろう。apraclonidineの結果は、この薬剤が一般的な眼圧下降作用に加えて手術侵襲による眼圧上昇を抑制する特性を持つことと関係があるかもしれない。epinephrineとtimololの結果はこれらの薬剤が臨床的には眼内炎に影響しないことを反映していると考えられる。これらの結果は、各薬物受容体刺激・遮断による細胞内Ca2+やcAMPの濃度変化,protein kinaseC活性化といったシグナル伝達を想定すると、培養上皮細胞などにおけるセカンドメッセンジャーとtight junction透過性の関係に概ね矛盾しないものであった。例えば、BABにおいて細胞内Ca2+濃度の上昇やprotein kinaseCの活性化を引き起こすと考えられる薬剤はBABの透過性を増加させた。

 最後にフレアー強度測定から自律神経作動薬の点眼が房水流量に及ばす変化を評価する方法を試みた。timolol点眼ではPin(t)とVa(t)は有意に変化しなかったので、式(2)を次の式に書き直すことができる。この式を用いるとCa(t)の変化からf(t)の変化を算出することができる。

 

 この方法は従来のフルオロフォトメトリーによる房水流量測定法と比較して外因性物質を投与する必要がない点で有利である。こうして求めたf(t)はtimolol投与眼では非点眼時と比較して38±3%の減少、timolol投与眼の他眼では非点眼時と比較して23±5%減少した(n=10,mean±SEM)。これらの値はフルオロフォトメトリーを用いて報告されたf(t)の変化に近いものであった。

 本研究は治療と検査に頻用される各種自律神経作動薬の点眼が人眼BAB透過性に少なからぬ作用を持つことを明らかにした。また本研究で開発したBAB透過性の評価法は従来の方法と比べて欠点が少なく簡便に行なえる。この方法は薬剤の作用を評価するに留まらず、人眼BAB透過性の生理的あるいは病的な変化を評価することにおいても有用である。

審査要旨

 本研究は人眼の血液房水柵の蛋白透過性に及ぼす各種自律神経系作動薬の効果を評価したものである。人眼での評価にあたり、まず血液房水柵の蛋白透過性を非侵襲的に評価する方法を開発した。すなわち、前房内のフレアー強度の測定から算出した前房内蛋白濃度とフルオロフォトメトリーによって測定した房水流量を前房内蛋白の動態を表すモデルに当てはめることで血液房水柵の蛋白透過性を算出するものである。次にこの方法を用いて臨床的に用いられる自律神経作動薬の効果を正常人眼で評価した。得られた結果は下記のものである。

 (1)前房内フレアー強度から前房内蛋白濃度を評価する方法の定量性を家兎を用いて確認した。家兎眼では、前房内フレアー強度が100photon count/ms以下の範囲でフレアー強度と前房内のアルブミン濃度が比例関係にあった。本研究におけるフレアー強度測定の結果は人眼で想定される境界値よりも低いので、算出した前房内蛋白濃度を相対量として評価することの妥当性が確認された。

 (2)ムスカリン性アセチルコリン受容体刺激薬であるpilocarpineは濃度依存的に血液房水柵蛋白透過性を増加させた。同遮断薬であるtropicamideは血液房水柵蛋白透過性を減少させた。この結果は前者が眼内炎を増悪させ後者が軽減するという臨床上の効果と合致するものであった。

 (3)1アドレナリン受容体刺激薬phenylephrineは血液房水柵蛋白透過性を増加させてから減少させ、2アドレナリン受容体刺激薬apraclonidineは血液房水柵蛋白透過性を減少させた。前者の臨床的副作用は顕著ではないが、血液房水柵蛋白透過性を倍増する作用は臨床使用上の注意を喚起した。後者の結果はこの薬剤の抗炎症作用を反映するものと考えられた。

 (4)アドレナリン受容体刺激薬epinephrineと同遮断薬timololは血液房水柵蛋白透過性を有意に変化させなかった。これらの結果は両薬剤が臨床的には眼内炎などに影響しないことと合致した。(2)-(4)の結果は、これらの薬剤がその受容体を介して伝達するセカンドメッセンジャーのシグナルを想定すると、培養上皮細胞で報告されているtight junctionの透過性とセカンドメッセンジャーの関係と相容れるものであった。

 (5)血液房水柵蛋白透過性が一定であれば前房内蛋白濃度の経時変化から房水流量の経時変化を算出できることを利用して、timololが房水流量に及ぼす効果を前房内フレアー強度の測定から評価した。結果は従来法であるフルオロフォトメトリーでの結果と同等であった。この方法はフルオロフォトメトリーよりも簡便で非侵襲的なので、人眼での研究に特に有用であると考えられた。

 以上、本論文は血液房水柵蛋白透過性を非侵襲的に評価する方法を開発し、各種自律神経作動薬の血液房水柵蛋白透過性に及ぼす効果を人眼ではじめて評価した。本研究は、臨床的に頻用される自律神経作動薬の人眼機能に対する作用を評価した点、新たに開発した非侵襲的評価法が様々な生理的あるいは病的状態における人眼血液房水柵蛋白透過性の評価を可能にするという点で意義深いと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53872