学位論文要旨



No 211972
著者(漢字) 鈴木,健之
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タケユキ
標題(和) ランタン錯体の化学 : 触媒的不斉ニトロアルドール反応の開発
標題(洋)
報告番号 211972
報告番号 乙11972
学位授与日 1994.11.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第11972号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 教授 首藤,紘一
 東京大学 教授 佐藤,能雅
 東京大学 助教授 小田嶋,和徳
 東京大学 講師 笹井,宏明
内容要旨 1.はじめに

 光学活性体をもっとも効率良く合成する方法は、触媒量の不斉源から多量の光学活性体を合成しうる触媒的不斉合成法であり、現代有機化学の最重要課題の一つとなっている。その結果、数多くの触媒的不斉反応が見いだされているが、工業化に至っているのは還元、異性化、エポキシ化、シクロプロパン化反応などに限られる。また、近年不斉ルイス酸触媒を用いた触媒的不斉反応の研究が盛んであるのに対し、有機合成化学上重要な塩基反応の不斉触媒化は、光学活性な相間移動触媒を用いる反応や、古賀らにより最近報告されているキラルなリチウムアミドを用いる反応が知られているに過ぎない。希土類元素は近年の機能性新素材の開発や、高温超伝導において注目を集めており、分離精製技術の進歩ともあいまって、比較的安価に入手可能である。しかし希土類アルコキシドの塩基性に関する報告は全く知られておらず、有機合成への利用については未知の分野であった。そこで不斉塩基触媒の開発を志向した多価金属アルコキシドである希土類錯体に関する基礎研究を行なった。

2.希土類アルコキシドの塩基性

 一般に、イオン化ポテンシャルや電気陰性度の値の小さい元素は塩基性の強いアルコキシドを形成する。希土類元素の電気陰性度値は1.1から1.3で、これら元素のアルコキシドは比較的強い塩基性を示すことが期待できる。希土類アルコキシドは一般に希土類原子の高い酸素親和力のためにオリゴメリックな構造を有することが、最近の分析技術の進歩に伴い明らかにされ、構造の修正が行なわれているものも多い。しかし希土類アルコキシドの塩基性に関する報告はこれまで全く知られておらず、まず我々は、文献既知の希土類アルコキシドの中で、NMRの測定が可能なことから、ランタンアルコキシドLa3(O-t-Bu)9、およびイットリウムアルコキシドY3(O-t-Bu)8Cl、Y5O(O-i-Pr)13を選択し、塩基性触媒で進行するいくつかの種類の反応を比較検討した。

 スキーム1に示すように、-クロロケトン2とアルデヒド1との反応は低温下、触媒量の希土類アルコキシドにより、2の分解を起こさずに進行し、目的とする-クロロヒドリン誘導体3を与えた。

Scheme 1.Rare earth alkoxides catalyzed reactions.

 同様にアルデヒドのシアノシリル化反応、ニトロアルドール反応、トリケトン7の分子内アルドール反応などが触媒量の希土類アルコキシドの使用で収率良く進行することがわかった。一般にイットリウムよりもランタンのアルコキシドの方が高い触媒能を示し、交差アルドール反応、シアノシリル化反応、ニトロアルドール反応ではランタンアルコキシドの方が良い結果を与えている。これに対し非常に弱い塩基触媒でも進行する7の分子内アルドール反応においては選択性の点でイットリウムアルコキシドの方が優れていた。以上のように、希土類アルコキシドは塩基性触媒として有機合成に利用できることがわかった。そこで光学活性希土類アルコキシドを用いる触媒的不斉合成へ向けて検討を開始した。

3.触媒的不斉ニトロアルドール反応

 ニトロアルドール反応は無水条件を必要とせずに進行し、反応成績体を様々な化合物の合成中間体として利用できることから、重要な炭素-炭素結合生成反応の一つと考えられている。しかし、触媒的不斉ニトロアルドール反応に関する報告はこれまで全く知られていなかった。

 まず、酒石酸エステルより誘導したジオール13を用いて新しく光学活性ランタンアルコキシド10を調製し、アルデヒド4とニトロメタンとのニトロアルドール反応を試みると、ランタン錯体は触媒活性を示すものの生成物6はすべてラセミ体であった。この理由はイオン結合性の強いランタン-酸素結合は、光学活性ジオールよりもpKa値の低いニトロメタンにより容易に切断され、不斉源を持たないランタンニトロナート12を経由して反応が進行するためである(図1)。ニトロメタンの添加によるランタンアルコキシド10から光学活性ジオール13の解離は、NMRでも観測することができる。

Fig.1.Decomposition of the optically active La alkoxide by MeNO2.

 不斉源の光学活性ジオールを解離させないためにはpKa値の小さい光学活性ジオールを用いなければならない。そこでニトロメタンのpKa値に匹敵する酸性度のフェノール性水酸基を持つビナフトールを不斉源として選択し、希土類錯体を調製することにした。触媒的不斉ニトロアルドール反応に有効な光学活性ランタン錯体16は、添加物の種類や当量数など種々検討した結果、スキーム2に示す方法で合成することが出来た。

Scheme 2.Preparation of the La-(S)-BINOL complex.

 この錯体16を用いてニトロアルドール反応を行った結果をスキーム3に示す。アルデヒド21では最高95%eeでニトロアルドール体22を得ることに成功した。また、アルデヒド17のように不斉発現に有利な官能基を持たないアルデヒドでも62%eeで目的物18を得ることができた。なお、ニトロアルドール体の絶対配置はそれぞれ誘導体に導いてCD励起子キラリテイー法で決定した。これまで検討した範囲では(S)体のビナフトールを用いて調製した触媒を使用すると(R)配置のニトロアルドール体が得られている。

Scheme 3.La(S)-BINOL complex catalyzed asymmetric nitroaldol reaction.

 本方法では、水や、水酸化ナトリウムを添加しないと触媒活性のある錯体は得られない。図2に、水の当量数を様々に変えて錯体を調製し、これをニトロアルドール反応の触媒として用いた時の成績体18の光学純度を示す。その結果、塩化ランタンに対して10当量程度の水を用いた場合にもっとも高い光学純度でニトロアルドール体が得られることがわかった。水を添加しない場合には、14と15とは65度に加熱しても反応しなかった。錯体の形成過程において水は、ランタン原子に配位することによって交換反応を促進しているようである。一方、水の添加によって、14の一部が分解して塩化水素を発生するため、酸の中和のために水酸化ナトリウムは必要なのであろう。錯体調製には水が必要で、水の存在下でも不斉ニトロアルドール反応が進行することから、安価な塩化ランタン・7水和物を用いる不斉触媒の調製法も見いだしている(スキーム4)。調製したランタン錯体の溶液は安定で、室温で長期間保存することができる。

Scheme 4.Practical preparation method of the La(S)-BINOL complex.

 反応系内にリチウムが存在することも光学純度良くニトロアルドール体を合成する上で重要である。ジリチウムビナフトキシド15のかわりをジナトリウムビナフトキシド用いて錯体を調製すると、ニトロアルドール反応の触媒として用いても不斉誘起は見られない。しかし、このリチウムを含まない錯体にLiClやLiBrを加え、ニトロアルドール反応を行うと不斉触媒としての活性が見られるようになる。またアルデヒド24のニトロアルドール反応において若干の不斉増幅現象が観測されることは、複数のBINOLを含む錯体触媒を示唆した。

4.希土類錯体を用いる触媒的不斉ニトロアルドール反応の応用

 ニトロ基はアミノ基、カルボニル基等多くの有用な官能基に変換可能であり、ニトロアルドール体を中間体として、多くの有用生物活性物質を合成出来る可能性がある。光学活性ランタン錯体を用いるニトロアルドール反応の応用例として、高血圧の治療薬であるプロプラノロール26とピンドロール29の合成をスキーム5に示す。これらの-遮断薬は対応するアルデヒド24や27からわずか二工程で合成可能で、目的物を再結晶することで光学純度をほぼ100%とすることにも成功した。本合成は、反応を不活性ガスの雰囲気下で行う必要もなく、不斉源のビナフトールを容易に回収できるので実用性も兼ね備えている。

Scheme 5.Catalytic asymmetric synthesis of(S)-propranolol and(S)-pindolol using the La(R)-BINOL complex
5.光学活性ランタン錯体の構造

 ランタンビナフトール錯体溶液の13C-NMRスペクトルは比較的単純なスペクトルパターンを示す。また種々機器分析を検討した結果、レーザーパルスによるソフトなイオン化を利用するレーザーイオン化飛行時間型マススペクトル(LDI-TOFMS)により、錯体Aと錯体Bが候補として浮かび上がった(図3)。これらの知見を基に、より合理的なルートでの錯体触媒調製法を検討した。スキーム6のように調製した錯体Aと錯体Bを用いて、アルデヒド4のニトロアルドール反応に伏したところ、錯体Aは選択性が低かったのに対し、錯体BはLaCl3から調製した錯体と同程度の選択性を示したことから、1つの希土類原子に対して3分子のビナフトールと3原子のリチウムを含む錯体構造が示唆された。

Fig.3.LDI-TOFMS spectrum of the La(S)-BINOL complex.Scheme 6.Catalytic asymmetric nitroaldol reaction using A or B.
6.おわりに

 以上のように筆者は、希土類化合物の塩基性を見いだし、初めての触媒的不斉ニトロアルドール反応に展開することが出来た。本反応の応用として、高血圧治療薬としてラセミ体で市販されているプロプラノロールやピンドロールの不斉合成にも成功した。触媒的不斉ニトロアルドール反応に有用な希土類錯体は、塩基性触媒として全く新しいタイプの化合物である。最近、東京薬科大の渋谷らやMissouri州立大のSpillingらは本錯体を用いて触媒的不斉ヒドロホスホニル化反応に成功している。今後、本研究を契機として不斉塩基触媒反応の更なる発展が期待される。

審査要旨

 光学活性体をもっとも効率良く合成する方法は、触媒量の不斉源から多量の光学活性体を合成しうる触媒的不斉合成であり、現代有機化学の最重要課題の一つとなっている。その結果、数多くの触媒的不斉反応が見い出されているが、工業化に至っているのは還元、異性化、エポキシ化、シクロプロパン化反応などに限られる。また、近年不斉ルイス酸触媒を用いた触媒的不斉反応の研究が盛んであるのに対し、有機合成化学上重要な塩基反応の不斉触媒化は、光学活性な相間移動触媒を用いる反応や、古賀らにより最近報告されているキラルなリチウムアミドを用いる反応が知られているに過ぎない。希土類元素は近年の機能性新素材の開発や、高温超伝導において注目を集めており、分離精製技術の進歩ともあいまって、比較的安価に入手可能である。しかし、希土類アルコキシドの塩基性に関する報告は全く知られておらず、有機合成への利用については未知の分野であった。そこで不斉塩基触媒の開発を志向した多価金属アルコキシドである希土類錯体に関する基礎研究が実施された。

1.希土類アルコキシドの塩基性

 一般にイオン化ポテンシャルや電気陰性度の値の小さい元素は塩基性の強いアルコキシドを形成する。希土類元素の電気陰性度値は1.1から1.3で、これら元素のアルコキシドは比較的強い塩基性を示すことが期待できる。申請者は、ランタン アルコキシド La3(O-t-Bu)9、およびイットリウムアルコキシドY3(O-t-Bu)8Cl、Y5O(O-i-Pr)13を選択し、塩基性触媒で進行するいくつかの種類の反応を比較検討し、以下に示す触媒反応の開発に成功した。

図表
2.触的不斉ニトロアルドール反応

 ニトロアルドール反応は無水条件を必要とせずに進行し、反応成績体を様々な化合物の合成中間体として利用できることから、重要な炭素-炭素結合生成反応の一つと考えられている。しかし、触媒的不斉ニトロアルドール反応に関する報告はこれまで全く知られていなかった。申請者は数多くの検討を行なった結果、以下に記す方法で、触媒的不斉ニトロアルドール反応に極めて有効な不斉塩基触媒の開発に成功した。

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 この錯体12を用いたニトロアルドール反応を行なった結果を以下に示す。17では最高95%eeでニトロアルドール体18を得ることに成功した。また、アルデヒド13のように不斉発現に有利な官能基を持たないアルデヒドでも62%eeで目的物14を得ることができた。

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 本方法では、水や、水酸化ナトリウムを添加しないと触媒活性のある錯体は得られない。塩化ランタンに対して10当量程度の水を用いた場合にもっとも高い光学純度でニトロアルドール体が得られることがわかった。水を添加しない場合には、10と11とでは65度に加熱しても反応しなかった。一方、水の添加によって、10の一部が分解して塩化水素を発生するため、酸の中和のために水酸化ナトリウムは必要なのであろう。錯体調製には水が必要で、水の存在下でも不斉ニトロアルドール反応が進行することから、安価な塩化ランタン・7水和物を用いる不斉触媒の調製法も見いだしている。調製したランタン錯体の溶液は安定で、室温で長期保存することができる。

3.希土類錯体を用いる触媒的不斉ニトロアルドール反応の応用

 光学活性ランタン錯体を用いるニトロアルドール反応の反応例として、高血圧の治療薬であるプロプラノール21とピンドール24の合成を示す。

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4.光学活性ランタン錯体の構造

 種々機器分析を検討した結果、レーザーパルスによるソフトなイオン化を利用するレーザーイオン化飛行時間型マススペクトル(LDI-TOFMS)により、錯体Aと錯体Bが候補として浮かび上がった。これらの知見を基に、より合理的なルートでの錯体触媒調製法を検討した。以下に示すごとく調製した錯体Aと錯体Bを用いて、4のニトロアルドール反応に伏したところ、錯体Aは選択性が低かったのに対し、錯体BはLaCl3から調製した錯体と同程度の選択性を示したことから、1つの希土類原子に対して3分子のビナフトールと3原子のリチウムを含む錯体構造が示唆された。

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 以上、本論文は希土類化学の分野における極めて独創性の高い研究を記載したものである。本反応は医薬品合成に重要な貢献をすることが期待され、博士(薬学)の学位に値すると判定された。

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