本論文の目的は、アリストテレスの学問体系のうちで「エネルゲイア」の概念がもっている哲学的な意味とその重要性を明らかにすることである。「エネルゲイア」は文字どおりには、はたらきのうちにあることを意味する。それはデュナミス(能力、可能態)が実現していること、発現していることである。アリストテレスははじめてこの概念に哲学的な意義を認め、それによって諸学問の対象とそれにかかわる人間のありかたを分析した。したがって本論文は、学問の対象としての世界とそれを探究し、そこで行為する人間についてアリストテレスがどのような理解をもっていたかを明らかにする試みでもある。 アリストテレスの巨大な学問体系の特徴は、自然学的な探究や形而上学的な探究が論理と倫理というふたつの規範性の探究の間に置かれているということである。わたしたちの手もとに伝えられたアリストテレス全集は、論理学的研究からはじまって倫理学的・政治学的探究にまで至る広がりを見せている。論理と倫理は、その性格を異にしてはいるが、ともに規範性の問題にかかわっているという点で共通のものをもっている。アリストテレスの師であったプラトンはこの二つの規範性の根拠を同一の地点に求め、そこに哲学的な思惟の場所を見いだしたのであった。アリストテレスの全集は、あたかもこのようなプラトン的な思惟のありかたに挑戦するかのように、第一の哲学を論理と倫理の中間に、しかも自然学的探求のあとに置いている。それがたとえアリストテレス自身の布置によるものでないとしても、かれの意に沿うものであるように見える。そこは論理的規範性と倫理的規範性、さらには自然学的な必然性の問題が交差する地点である。このような地点の指標となっているものこそ「エネルゲイア」の概念にほかならない。「エネルゲイア」において、論理的普遍性と自然学的な論証の必然性、さらに人間的な価値の問題を統一的に把握する場が拓かれるのである。 プラトンはさまざまな哲学的問題を解決するためにイデア論を展開した。わたしたちがイデア論という哲学史に残る偉大な思想から何かを学ぼうとするならば、プラトンがイデア論によって解決しようと試みた問題を正確に理解しなければならないであろう。アリストテレスのエネルゲイア論はプラトンのイデア論との対決を通して展開されたものである。プラトンが「イデア論」によって解決しようとした問題にアリストテレスは「エネルゲイア」という発想で立ち向かったのである。アリストテレスによるプラトン批判には大変厳しいものがあり、その批判のもつ意味や妥当性については、多くの学者たちが論争を展開してきた。しかしわたしは、偉大な教師に対する偉大な弟子による批判の意味を探るにあたって最も重要な点は、かれらが一群の哲学的な問題を共有したことであると思っている。共有された哲学的な問題が存在したからこそ、かれらはお互いに討論し、それぞれの思索を展開することができたのである。 共通の哲学的問題をめぐって討論したのはプラトンとアリストテレスだけではない。ほかにも古代アテネの思想界で活躍した多くのひとびとがいたことを忘れてはならない。たとえばプラトンの弟子のスペウシッポスやクセノクラテス、アリストテレスの後継者テオフラストスなどもプラトンが設定した問題をめぐって思索したひとびとであった。かれらの書いたものを読むと、イデア論の問題意識から受け継がれた知識の対象としての事物の本質について、あるいは本質を規定するためのさまざまな概念について、さらには分割と総合といった定義の方法についての思索のあとをたどることができる。 すでに述べたように、「エネルゲイア」は「デュナミス」との対比で用いられる。ふつう「デュナミス」は「能力」「可能態」と訳され、「エネルゲイア」は文脈に応じて「現実態」と「活動」に訳し分けられてきた。本論文でわたしは、「エネルゲイア」を一貫して「実現態」と訳し、またそのように解釈しようと試みた。「エネルゲイア」は、能力や可能性が実現していること、発現していることを意味しているのである。ただしアリストテレスは、この概念に明確な定義が存在すると考えてはならないといっている。この概念の意味は、それが解決しようとしたさまざまな問題の文脈に即して把握されなければならない。一群の哲学的な問題を解決するために導入されるのが「エネルゲイア」であるから、それらの哲学的な問題を理解することなしに「エネルゲイア」そのものについて理解することなどありえないのである。「エネルゲイア」が登場する哲学的問題の意味を理解するという一見迂遠な道が「エネルゲイア」への近道である。 本論文は縦糸と横糸によって組み立てられている。縦糸は、古代アテネという思想空間のうちで討論された一群の哲学的な問題とそれに答えようとした哲学者たちの学説である。また横糸は、アリストテレスによって書かれ、わたしたちのもとに伝えられている全集を現代の古典学者たちがどのように理解しているかという解釈上の問題である。各章は二種類の糸によって織られた織物の一枚一枚である。それらの織物は主題によって相互に関係しているが、各章は独立した体裁をもち、完結した内容を与えられている。 本論文は、第一部「古代アテネの思想空間と「エネルゲイア」の概念」、第二部「「エネルゲイア」の文脈と実体の問題」、第三部「心と価値」の三部から成る。まず第一部第一章「同名性の問題」では、アリストテレスがプラトンから受け継いだいくつかの哲学的問題について論じる。とくに重要なのは、プラトンのイデア論が解決しようとした事物の同名性の問題である。この問題をめぐるプラトンとアリストテレスの対立を浮き彫りにする。第二章「初期アカデメイアと分割の方法」では、プラトンの分割法を学問的探求における定義の方法として採用したスペウシッポスの立場と、これを批判するアリストテレスの立場を対比し、アリストテレスの分割法をめぐる問題意識を明確にする。第三章「論証と定義」では、分割法とアリストテレスの推論概念の関係を示し、定義の方法としての分割法とアリストテレス自身が採用した定義法の違いを論じる。第四章「イデア論とエネルゲイア論」では、アリストテレスの創設した学園リュケイオンの後継者テオフラストスの著した『形而上学』において、プラトン、アリストテレス、スペウシッポスの基本的な立場がどのように対比されているかを示し、プラトンとアリストテレスの根本的な対立が、プラトンの「イデア」対アリストテレスの「エネルゲイア」というかたちで理解されていることを明らかにする。第一部の目的は、第一に、古代アテネの思想空間においてプラトン、スペウシッポス、アリストテレス、テオフラストスといったひとびとがどのような問題をめぐって思索し、討論したかを明らかにすること、第二に、「エネルゲイア」が「イデア」と対比されて論じられている点に注目し、プラトンとアリストテレスの立場の違いを描きだすことである。 第二部は「エネルゲイア」概念が重要な役割を演じるさまざまな文脈を展望し、なかでも重要な実体の問題について考察する。まず第五章「「エネルゲイア」の文脈」では、「エネルゲイア」概念を考察するに当たって留意すべき点をアリストテレス自身のことばから明らかにする。「エネルゲイア」という概念の理解は何らかの定義のかたちで与えられるのではなく、この概念を使用することで解決される哲学的な問題とそれに対する解答のうちに理解しなければならないのである。この考察の過程で、ふたつの「エネルゲイア」概念が中心的なテーマとして登場してくる。それは「運動」といわれる「エネルゲイア」とそれに対比される意味での「エネルゲイア」である。ふたつの「エネルゲイア」を対比しながら、それぞれの性格を明確にする。ふたつの「エネルゲイア」の関係を統一的に把握するかという問題は、実体の問題を課題とする第六章「類としての質料」において論じる。何が本当の存在であるかという問いは、実体とは何かという問いを要請する。古来問い求められてきたこの問いに、アリストテレスは、実体とはエネルゲイアとしての形相であると答える。この解答の意味を解き明かすために、アリストテレスの実体論の核心部に位置する『形而上字』第七〜九巻における「質料」概念を検討する。 第三部「心と価値」は、実体としての人間の形相として考えられた心の問題と、これに深くかかわる倫理学的諸問題について考察する。まず第七章「人柄の形成と「変化」の概念」では、自然学的な問題領域と倫理学的な領域との接点に位置する人柄の形成・変化についてアリストテレスがどのように理解したかを明らかにする。第八章「ヌースについて」では、心の能力のなかで最も難解な思考能力、とくに論証の原理の把握能力であるヌースについて、アリストテレスの晦渋をきわめる論述の理解を試みる。第九章「快さについて」ては、ギリシア哲学においてきわめて多彩に論じられた「快さ」の概念がアリストテレスによってどのように取り扱われ、また「エネルゲイア」とどのような関係にあるものとされているかを解明する。最後に第十章「観想と実践」では、倫理的行為と行為の最終目的としての、すなわち最高善としての観想の関係についてアリストテレスがどのように考えていたかを理解する。 |