本論文は、日本古代国家の支配構造およびその展開過程を考察したもので、律令制の検討を中心にすえ、民衆支配のあり方、租税制、財政をとり上げ、大化前代から摂関期・院政期までの国制の展開を明らかにしようと試みたものである。全体は第一部、第二部から構成される。 第一部本論「律令国家と畿内」では、第一節で、律令制における諸負担・人民支配を検討し、それらが畿内と畿外とでは性格を異にしていることを述べた。畿外では調庸、仕丁、雇役など大化前代の国造制下の形態を残し、個別人身的租税の形をとっているが実際は在地首長に依存する形で運用されていて、さらに贄に明確に表れるように、服属儀礼的性格を残していた。これに対して畿内では、調、庸、贄など制度的にも大幅に異なり、計帳の記載から明らかなように、籍帳による徹底的な人民把握が行なわれ、雇役による徴発が頻りに行なわれるなど首長によらず民衆を直接把握し、律令国家自らが勧農等を行なった。 第二節ではこの支配構造の淵源を考えた。畿内と畿外の相違は大化前代に遡り、畿外の四方国では国造制が行なわれ、国造は天皇に対して服属を誓い、それに伴い諸種の貢納物を献り、大造営には役民も進めた。一方畿内のウチツクニは大和王権の支配地であり所謂国造は存在しなかった。そこでは王権による開発が行なわれ、屯倉が設定されて、それに伴い公地制が作られいき、また民衆は王権の直属民としてたえず徴発され租税もとられていく。このような畿内・畿外の二重の支配構造は遅くとも推古朝には整い、律令国家は律令制を輸入したが、この畿内と畿外の構造を継承したのである。 畿外の国造制は形の上ではなくなったが、実質的には在地首長層によっており、畿外は服属儀礼がくり返し要求されるように間接支配にすぎず、律令国家権力は全国均一に及んでいたわけでなく、実質的に強力に支配していたのは畿内のみであったことを明らかにした。 付論1「万葉人の歴史空間」は、以上の畿内国家的なあり方を、万葉集を素材にして考えたもので、万葉人にとって、大化改新詔にみえる畿内の堺は彼らの心に浸透した国境であり、その地をすぎると故郷=畿内への思いにかられ、公務以外で畿外に出ることは律令で禁止されていて、畿外は「天ざかる夷」と意識されていたことを述べた。 付論2「近江と古代国家」では、畿内的と考えられながら畿外である近江の特殊性を解明した。近江は大和王権による帰化人や国内からの徒民によって開発されたいわば植民地であり、財政基盤ともされたこと、近江豪族は畿内豪族連合の外にある地方豪族であり、あくまでも畿外であるが、帰化人の徒民による特殊な社会が存在したことをのべた。 付論3「中国における畿内制」は、日本の律令法の比較対象である中国古代の畿内制について北魏から唐代までを概観したもの。都城機構の拡大という性格をもつこと、武周期に畿内のブロック化がみえること等を述べ、日本の畿内制の独自性と異質さを改めて明らかにした。 第二部「古代国家収取制度の研究」では、第一部の成果をふまえ、中央政府がいかに租税を徴収して国家の経費を確保していたのかという問題を、古代国家を通じて一貫して追究し、律令制から平安時代を通じての古代国家の構造とその展開過程を明らかにすることを目指した。第一章「律令収取制度の特質」では、日本賦役令を各条文にそくして唐令と比較検討することにより、律令賦役制度の構造と特質を考え、第二章「平安時代収取制度の研究」では、律令制の構造が急激に変化する延喜式以降、政府はいかにして国家運営に必要な経費を確保していたのかを、摂関期を中心に従来あまり活用されていない古記録の検討により明らかにし、第三章「力役制度の展開」では、力役という同一対象をとりあげて通時的視野で大化前代から院政期までを追い、第二章が摂関期の国家財政構造の解明を意図したのに対し、古代国家の展開の意味と画期を把握することを目的としている。付論「受領功過定覚書」は、公卿と受領国司との交点である功過定の分析から、受領が何を中央に納入したのかを解明し、道長の時代の国制整備の状況を述べた補論である。 令制以前、全国の国造は服属儀礼に伴ってツキやニヘを貢納し、エダチとして宮などの造営に奉仕したが、畿外の国造は中央に対して自立性が高かった。律令制の施行により、国造は廃され郡司が置かれるが、調庸制は前代以来の貢納制を継承して行なわれ、それは唐制とは異質なものであった。調は、唐では貨幣的機能をもつ絹や布であったが、日本では海産物などの特産物を地方から旧来の慣行に従って一方的に貢納するのであり、一方の庸は、仕丁や衛士などの資養物として輸貢され、品目と用途が限定されていて、調とはあくまで異質なものであり、延喜式まで調庸が同質化することはなかったのである。調と庸のかかる性格ゆえに、日本の主計寮には、唐の度支のように国家財政予算の編成、賦課わりあての機能はなく、品目は変更されず、伝統的に定まった多様な品目が年々貢上された。そして国司も定額を請負的に納入していただけで、実際に民衆を把握し徴税していたのは郡司以下の在地首長層であった。 このような調庸制が、いくつかの変化はあったとはいえ、その大枠は延喜式まで維持される。このことは、推古朝ごろに定まった畿内と畿外の二重構造による律令国家の支配構造、在地首長制に依存する構造が、ほぼ十世紀初頭までは国制として保たれていたことを示している。しかし、九世紀をつうじて伝統的な郡司氏族が衰退していき、在地首長制が崩壊にむかい、それとともに調庸制も麁悪、未進などの崩壊をもたらす。これに対応して、受領への権限集中が進み、受領による強力な部内支配、徴税が可能となり、それを前提にして十世紀後半に中央政府の収取制度に構造的変化がおきるのである。 調庸制は、まず天暦年間に、十分の一、のち二を正蔵率分として別納させ、太政官の弁官の支配下におき、受領功過定の審査項目とすることにより、太政官を中心とする重要な国政経費を確保する体制を作った。また賀茂祭の経費である賀茂禊祭料、御斎会や季御読経などの仏事については天禄年間に永宣旨料物制の形で、特定の神事、仏事の財源を確保する。以上の残りが年料とされ、大炊寮や大蔵省の所管であり、必ずしも納入状況は良くなかったが、年料も率分と同じく切下文により弁済所等から料物を納入させる徴収方法をとった。 以上は恒常経費であるが、臨時の大行事については、臨時召物という形で調達する。太政官内に上卿・弁・史からなる行事所が置かれて、行事を執行するようになるが、十世紀後半に国司に対する一方的賦課として必要に応じて少量ずつ諸国に割当てる行事所召物制が成立し、効率的に行事を行なえる体制ができる。同じ頃、蔵人所も内廷経費を蔵人所召物で調達するようになり、国家財政の大きな変化といえる。これらの制度の前提には、弁済所、弁済使の成立がある。調庸が年一回京に貢納されるのではなく、受領の京周辺機関が成立し、受領が官物として部内で徴収した税物は既にそこに蓄えられ、弁済使や在京国司と政府の間で納官物の納入がすまされるようになり、中央政府は必要に応じ切下文や召物により諸国から即座に調達することが可能になったのである。 雑徭制は、在地首長による服属儀礼としての奉仕=ミュキという本質を持っていたが、郡司が力を弱めるのに対応し国司が徴発権を強め、臨時雑役へ変わっていく。使者に食事と馬を提供する供給役についていえば、駅伝制が実体を失うにもかかわらず、国司を通じて官符や宣旨により供給を命じ、十世紀後半には蔵人所牒により私的な旅行の供給までも命ずることが可能となった。従来畿内からしか徴発できなかった中央での造営役も、天徳四年の内裏再建以来、畿内・畿外の別なく全国の受領に賦課するようになり、十一世紀初めには、内裏大垣および宮城門を各受領が任期中に一定量修造することを義務づけ、受領功過定の審査対象とされて、全国的な恒常的造営体制が成立する。 大宝養老律令に規定された律令国家は、国造制を受け継ぐ側面があり、畿外はなお在地首長を媒介としてしか支配が及ばない畿内国家であったと言える。とすれば、十世紀後半を画期としてそれ以降の摂関期の国家こそ、受領を通じて五畿七道全国を均一に支配することが可能になったのであり、再編された古代国家、あるいは律令国家の第二段階と言えるのではないだろうか。十世紀後半の変化を受けて、藤原道長の時代、とりわけその前半の一条天皇の時代に、受領功過定などの国制整備がすすめられ、一応の安定をみる画期を迎える。 以上の収取体制が平安時代を通じての基本的な枠組みとなるが、院政期になると、内廷官司の収取の再編が進み、仏事の盛行に対応して永宣旨料物制が拡大する。さらに変化がみられるのは臨時雑役であり、荘園制の展開の中で中央政府が受領の部内の賦課に介入するようになり、十一世紀後半に造内裏役や役夫工が一国平均役として制度化され、十二世紀中葉には、いくつかの国家的大行事の臨時雑役が、召物をもとりこんで一国平均役として整備され、院政期特有の租税である一国平均役の支配が強化されていく。しかしそれは同時に、受領の徴税の上に成立していた摂関期の収取体制の変質でもあった。 |