学位論文要旨



No 212000
著者(漢字) 岡村,裕昭
著者(英字) Okamura,Hiroaki
著者(カナ) オカムラ,ヒロアキ
標題(和) エストロゲン受容体を持つ脳細胞の分布とそれら細胞のエストロゲンに対する反応に関する研究 : 繁殖行動と摂食行動の協調に果たすエストロゲン受容体の役割について
標題(洋) Distribution of Brain Cells with Estrogen Receptor and Their Response to Estrogen : A Possible Role of Estrogen Receptor in Coordination of Reproductive and Ingestive Behaviors
報告番号 212000
報告番号 乙12000
学位授与日 1994.11.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12000号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 助教授 森,裕司
 東京都神経科学総合研究所 副参事研究員 林,しん治
内容要旨

 成熟した雌動物では、卵巣における卵胞の発育、排卵等の一連の変化に応じて、卵胞からの周期的なエストロゲン(Estrogen:E)分泌の上昇が観察される。血中に放出されたEは、下垂体や子宮、乳腺等の末梢器官に働きかけてこれらの形態的、機能的変化をもたらすだけでなく、中枢神経系にも作用して、ホルモンや神経伝達物質の産生・放出の制御や様々な行動の発現の調節に関与している。雌における性行動の誘起もEの作用の一つであり、血中E濃度が上昇する周排卵期には、雌は雄を受け入れるための独特の発情行動を示すが、それ以外の時期には発情行動の発現は起こらず、逆に雄は拒絶される。これにより、排卵の時期に合わせた受胎適期にのみ交尾が行なわれることになる。一方、摂食行動もまた、Eの影響を受け変動することが知られている。たとえば、発情期には摂食行動は抑制され採食量が減少し、また、血中Eレベルが低い黄体期や妊娠期には、食欲が高進し体重が増加する。このようにEは、性行動と摂食行動という種の保存と個体の維持に関わる重要な行動を同時に変化させるが、この二つの行動の協調は発情期に確実に受胎するための雌の一つの生殖戦略と考えられる。

 Eは標的細胞内に存在する特異的な受容体(Estrogen Receptor:ER)に結合し、形成されたホルモン受容体複合体が直接DNAに結合して特定の蛋白の合成を制衛すると考えられている。脳内では、様々な神経伝達物質あるいは神経修飾物質と呼ばれる蛋白の産生がEによって調節されており、種々の生理機能の発現に与っていることが知られている。このためEの性行動と摂食行動を協調させる作用もまた、ERを持つ細胞内のE感受性の物質に仲介されていることが予想される。そこで、本研究では、ERを持つ神経細胞の分布について組織化学的手法を用いて検討し、さらにそれらの細胞内にEによって直接誘導される物質の同定を試みた。そして、得られた形態学的知見をもとに生殖と摂食の二つの行動の変化を協調させるEの作用機序について考察した。

 ERの分布を免疫組織的に同定するために、研究の第一段階としてERに対する特異的抗体の作製を試みた。ラットERの相補的DNAを大腸菌に組み込み、これを発現させて得られたER蛋白を電気泳勤により分画、ニトロセルロース膜に転写後、ERの分子量に相当する部分を切り取り直接ウサギに免疫して、ラットERを特異的に認識する力価の高い抗体を得た。この抗体はEが結合した状態、あるいは結合していない状態のどちらの形の受容体も認織することが明らかとなり、様々なE環境下でERを免疫組織化学的に同定するための有効な研究手段が得られた。本抗体を用いて観察された雌ラットのER免疫陽性細胞の脳内分布は、放射性同位元素で標識したEの結合部位を調べるオートラジオグラフィーよって、これまで報告されている分布にほぼ一致していた。すなわち、内側視索前野(MPOA)の前腹側室周囲核(AVPv)と内側視素前核(MPN)および視床下部腹内側核(VMN)腹外側部では、多数の細胞群の核内にER陽性産物が検出された。さらに、視床下部外側野(LHA)にも比較的多くの陽性反応が観察された。これらの神経核はいずれも繁殖活動あるいは摂食行動の調節に与る重要な中枢構造と、従来より考えられていることから、ここに存在するERがEによる二つの行動の発現と協調に深く関与している可能性が示唆された。

 そこで、これらの領域でのERの発現様式とER含有細胞のEに対する反応態度について、ERの免疫組織化学法を用いて以下のような検討を行った。一般に、組織中に存在する受容体の量は、そのリガンドに対するその組織の反応性を調節するための重要な因子と考えられている。そこで、神経核内のER免疫陽性細胞の数を計測し、これをEに対する反応性の指標とした。性腺を摘出し、内因性の性腺ステロイドホルモンの影響を除去したラットでは、AVPvに存在するER陽性産物の数に雌雄差が観察された。同様の報告がVMNでもなされており、これらの神経核を介したEの作用には性差があるものと想像される。実際、Eの繁殖活動におよぼす影響には種々の雌雄差の存在が報告されており、摂食行動についても同様のことが示唆されている。卵巣を摘出した動物にEを投与すると、AVPv、VMN内のER陽性産物の数は、Eを投与しない対照群に較べ30%以上減少した。また、MPN、LHAにおいてもEによりERはdown-regulationされる傾向にあり、それぞれの神経核のEに対する反応性を調節する因子として、E自身が大きな役割を担っていることが示唆された。一方、性周期を回帰している正常雌ラットのVMNでは、ER陽性産物を有する細胞の数は発情前期に最も高く、引き続く発情期に最も低い傾向にあった。この現象は、繁殖、摂食行動に対すろEの作用が、発情前期に最大に発揮され、発情期にはその作用が減じられることを示唆しており、Eを含めた卵巣からの因子によってERの発現が調節される機構の存在が推察された。

 次に、繁殖行動及び摂食行動に対するEの作用を仲介する物質として、サブスタンスP(Substance P:SP)に着目して検討を行った。その理由は、MPOAのSP含量、視床下部のSP陽性細胞の数は性周期によって変動し、またSPが黄体形成ホルモン(LH)サージの成立や性行動に関与している可能性が提唱されているからである。さらに、SPはもともと唾液物質、Siatogenとして単離精製されたものであり、摂食行動におよぼす影響も報告されている。AVPvを含む組織切片をERとSPに対する抗体を用いた二重染色法により観察したところ、性腺を摘出した雌雄ラットのAVPvにはSP陽性細胞はほとんど検出できなかったが、Eを投与した雌のAVPvには多数のSP陽性細胞が見いだされ、その約60%にERが共存していた。Eに引き続きプロジェステロンを投与した群では、Eだけを投与した群に較べSP細胞の数は約70%減少していた。さらに、SPに対するEの効果は雄では全く見られず、EによるSP誘導機構は雄では欠如していることがわかった。また、雌のMPN、VMN、LHAにおいてもSP活性がEによって上昇する傾向が観察された。SP陽性線維は、LH放出ホルモン産生細胞や性行動を制御する中脳中心灰白質、また内臓からの感覚神経線維が入力する孤束核等に終末することが知られており、Eによって誘導されたSPがこれらの細胞や神経核の活動を調節して、LH放出ホルモンの産生、放出、あるいは性行動や摂食行動の発現に対するEの作用を仲介しているのかもしれない。

 しかしながら、Eの作用は多岐にわたっており、SP単独虫でこれらすべての作用を説明するのは困難である。SP以外にも、多様な機能を持つE作用のmediatorの存在が予想される。血管内皮細胞や腸管平滑筋の弛緩作用を持つ物質として発見された一酸化窒素(Nitric Oxide:NO)は、脳内にも存在しており、second messengerとして神経活動を修飾していることが明らかにされつつある。NOは非常に反応性が強く、様々な酵素、キナーゼ、調節因子等と結合しそれらの機能を変化させ得る可能性が推察されている。また、ガスであるため、機能はその産生細胞内に限局されず、細胞膜を自由に通過して隣接する細胞にも効果を伝えることができる。最近の研究から、NOは繁殖活動にも関与していることが示唆されている。そこで、E作用のmediatorとしてのNOの可能性について以下のように検討した。NOの合成酵素であるNO Synthase(NOS)は、脳内ではNADPHdiaphoraseと同じものであると判明しているので、ERの免疫組織化学とNADPH diaphoraseの組織化学を組み合わせた二重染色法を試み、MPOAとVMNにおけるERとNO産生細胞との関連性、およびNOS活性のEに対する感受性を調べた。卵巣を摘出した雌ラットのMPOAにはNOS活性はほとんど見られなかったが、卵巣を摘出しEを投与した動物では、MPNに多数のNOS陽性細胞が観察された。MPNと同様に、VMNの腹内側部においてもEによってNOSの活性が大きく上昇し、NOS陽性細胞の数は対照群に較べ2倍近く増加した。E処置をした雌では、MPN、VMNのNOS陽性細胞の80%以上にERが共存し、これらの神経核におけるNOS合成の制御機構の、すくなくとも一部には、Eが直接関与していることが示された。また、LHAでも同様の現象が観察されたが、他のER含有神経核、例えば弓状核では、E処置の有無にかかわらずNOS陽性細胞はほとんど検出されなかった。去勢した雄ラットのVMNでも、E投与によりNOS活性が上昇する傾向が観察されたものの、NOS陽性細胞の数には対照群と統計的な有意差はなかった。以上の結果から、MPN、VMN、LHAにおける特定のER含有細胞内では、EによってNOS活性が上昇されること、また、少なくともVMNでは、NOSに対するEの効果は雄では弱いことが明かとなった。中枢神経系におけるNOの機能的役割についてはまだほとんど解明されていないが、繁殖活動あるいは摂食行動の中枢と考えられている神経核群においてEによって特異的に誘導されること、その反応性に雌雄差があること、またNOの持つ幅広い機能等を推察すると、それらの行動の発現を調節し、協調させるEの作用を仲介するmediatorとしてNOが重要な役割を担っている可能性が大きいものと考えられる。

 本研究では、新たに作製した抗ER抗体を用いて、脳内ER陽性細胞の局在を免疫組織化学的に検討した。その結果、MPOA、VMN、LHAには多数のER含有細胞が存在し、これらの領域におけるER免疫陽性細胞の数は、Eによってdown-regulationを受けていることが示された。また、二重染色法によりそれらのER含有細胞の一部では、神経伝達物質の一つであるSPおよびNOの合成酵素であるNOSの産生がEによって直接制御されていることが明かとなった。MPOA、VMN、LHA等の神経核群は繁殖行動あるいは摂食行動を調節する重要な中枢構造と考えられている。これらの神経核に存在するERにEが作用すると、SPのような伝達物質を誘導して細胞間あるいは神経核間の情報の連絡を図る一方、NOのような幅広い機能性を備えるsecond messengerを介してER含有細胞さらにそれらに近接する細胞内の活動を統御することで、特に雌において繁殖行動と摂食行動の協調された発現が可能になるような機構が存在することが示唆された。

審査要旨

 卵子の供給は動物の生殖の遂行にとっては根源的問題である。哺乳動物の卵巣内の卵子は成熟して最後には排卵されるが,この卵子の成熟に関する情報は,卵胞が分泌するホルモンのエストロゲンによって身体全体にもたらされる。従って,エストロゲン受容体を持つ細胞,特に中枢神経系内のそれは動物の様々な生理機能を生殖のために合目的的に統合する能力を持つことが期待される。本論文は,エストロゲン受容体を持つ脳細胞の分布を独自に作製した抗体によって示すと共に,それらの細胞のエストロゲンに対する反応性を調べ,それらの細胞の繁殖行動と摂食行動の協調について考察したものである。

 本論文は6章からなり,1,2章はそれぞれ本論文の背景,本論文が採った方法論が要領よくかつ明解に記されており,また終章の6章では,既知の様々な知見を援用して,本研究の神経生理学的意義を考察している。3章はエストロゲン受容体(ER)VC対する抗体の作製と,これを用いた免疫組織化学によるER陽性細胞の分布が記されている。抗体の作製はラットERの相補的DNAを大腸菌に組み込んで得られたタンパク質を用い,ウサギに免疫して得ている。このようにして,エストロゲンに結合,非結合いずれの状態の受容体をも強く認識する,本論文の目的によく合致する抗体が得られたことは,特筆に値する成果の一つである。陽性細胞の脳内分布は詳細に検討され,繁殖活動あるいは摂食行動に与る重要な中枢構造と考えられている視床下部のいくつかの神経核に陽性細胞の分布のあることを認めている。

 4章では,3章で得られた特定部位を対象に,ER陽性である細胞数を計測することで,エストロゲンに対する反応性を論じている。その結果,いくつかの神経核で興味ある雌雄差を見いだし,また,エストロゲン投与が受容体を減少させるという現象を観察し,これらを繁殖活動,摂食行動における雌雄差と関連させて考察している。さらにこの章では,サブスタンスPに着目し,性腺除去,エストロゲン投与の処置を組み合わせることで,生殖行動と摂食行動に対するエストロゲン作用を仲介する物質としてサブスタンスPの可能性を示すことに成功している。

 血管内皮細胞や腸管平滑筋の弛緩作用を持つ物質として最近発見された一酸化窒素(NO)が脳内にも存在して,二次情報伝達物買として神経活動を修飾していることが明らかにされつつある状況を踏まえて,続く5章では,NOのエストロゲン作用の仲介者としての可能性を追究している。すなわち脳内におけろNOの合成酵素(NOS)はNADPH転移酵素であることが解かっているので,ERとNOSの免疫組織化学を組み合わせた二重染色法を試み,着目する神経核におけるNOS活性に対するエストロゲンの効果を調べていろ。その結果,雌ラットいくつかの神経核ではエストロゲンの負荷により,NOS活性が著しく上昇するという極めて興味ある結果を得ている。NOの中枢神経系機能発現に対する効果は未だ殆ど解明されていないが,生殖活動の中枢と考えられている神経核群において,エストロゲンによってNOの合成が特異的に促進されることから,NOはエストロゲン作用によって発現が促進されるそれら脳部位が支配する行動を,協調させるための仲介者としての役割を担っているものと考察している。

 以上の如く,本研究は精緻な良く計画された実験を組み合わせて,ERを持つ神経細胞の一部では,神経伝達物質のSP,およびNO合成酵素の産生がエストロゲンによって直接制御されていることを明らかにした。これらの神経細胞を持つ脳部位は,内側視索前野,視床下部腹内側核,視床下部外側野などの生殖行動,摂食行動を調節する重要な中枢構造と考えられている部位に相当しており,これらの神経核に存在するERにエストロゲンが作用すると,SPのよりな伝達物質の放出を刺激して神経核間の協調を図ると共に,NOのような瀰漫性の二次伝達物質を介してER保持細胞と,それに近接する細胞内の活動内統御することで,雌動物に生殖活動と摂食行動の協調された発現を可能にしていると考察している。

 脳内のエストロゲン受容体(ER)を持つ神経細胞がエストロゲン刺激によりサブスタンスP,NOを放出することを示したのは本研究が最初で,しかもこれが生殖活動と摂食行動の協調された発現をもたらしているとする考察は合理的である。この成果は各種動物の行動発現メカニズムを論じた研究としては,極めて独創的でかつ高く評価されるものである。よって審査委員一同は申請者に対して博士(獣医学)の学位を授与してしかるべきものと判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50654