学位論文要旨



No 212005
著者(漢字) 桜井,伸二
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,シンジ
標題(和) オーバーハンド投球フォームのキネマティクス
標題(洋)
報告番号 212005
報告番号 乙12005
学位授与日 1994.12.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第12005号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,充正
 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 助教授 平野,裕一
 東京大学 助教授 寺崎,弘昭
 東京大学 助教授 南風原,朝和
内容要旨

 オーバーハンドの投球動作は人間にのみ可能な動作であり、その特徴は高度に機能化されたヒトの上肢が巧みに用いられるところにある。投球動作に関する研究の主眼はまず上肢の運動の探求(キネマティクス)に置かれるべきである。しかしながら、この上肢の運動に関する定量的な分析はこれまで十分になされてきていなかった。本研究の目的は、オーバーハンドの投球動作について前腕部や手首を含めたその投球腕の運動の全容を明らかにすることである。特に発育発達、技能の巧拙、練習効果などの視点から研究を行なった。

第2章上肢の運動の分析方法の検討

 研究は上肢の運動の分析方法の開発から始められた。投球動作における上肢をはじめとした身体各部の運動の分析方法としては、映像分析法が最も適した手段であると考えられた。第2章では映像分析法を用いて投球動作中の上肢の運動を分析する方法を新たに考案した。

 上肢の各関節(肩関節、肘関節、前腕部、手首)における7自由度に対応する7つの関節角度、および肩の位置と上腕の方向角の変化を求めることにより、手指を除く上肢の運動を完全に知ることができる。前腕部および手首の運動の分析を精度良く行なうために、軽量で小型のポールを手首に取りつけ、3次元映画分析法を用いて6名の大学生野球投手の直球の投球動作が分析された。それによれば、投手の投球動作における上肢の主要な関節運動は、リリース前後の肩関節の水平位内転と内旋、肘関節の伸展、前腕部の回内、手首の掌屈であり、いずれについても、その運動に先立ち逆方向への運動(肩関節の水平位外転と外旋、肘関節の屈曲、前腕部の回外、手首の背屈)が認められた。この分析法により前腕部や手首も含めた投球動作における上肢の運動を明らかにすることが可能となった。例えば、オーバーアーム投法やスリークオーター投法という投球フォームの違いは主として体幹部の傾きの違いによっており腕の運動の差異はほとんどないという、これまで肉眼による観察によってのみ推察されていた投球フォームに関する事項が定量的に明らかにされた。

 次に、本研究で開発された方法を用いて直球とカーブという異なる球種の投球動作の差異を検討した。カーブをはじめとする変化球の投球を若年期に開始することは、肘関節障害の発生の誘因となると考えられている。カーブの投球が危険だと考える研究者の多くは、カーブのリリース時の急激な回外運動によって上腕骨内側上顆に起始を持つ前腕の屈筋群の過負荷が引き起こされると考えている。本研究の結果、両球種の投球動作は総じてよく類似しており肩関節および肘関節の運動には両球種間で差異は認められなかった。しかし前腕部の回内-回外、および手首の背屈-掌屈の関節角度値に両球種間で差異が認められた。このことから、直球とカーブの両球種を特徴づけるスピンの違いは、体幹部の運動や肩から手首にかけての腕の振り動作自体の差異によるものではなく、リリース直前の手掌の方向が異なるために投球動作の最終的な局面で指先からの力がボールの異なる部分に作用することに起因すると考えられた。つまり本研究で得られた結果によれば、両球種間で前腕部の回内-回外角は異なっていたものの、直球ばかりではなくカーブにおいてもリリース時には回内運動が起こっていた。それゆえ本研究の結果は、カーブの投球は直球に比べて投手の肘関節障害の発生に対してより有害であるとする仮説を支持するものではなかった。成長期の野球投手の上肢関節障害については、今後は変化球の禁止だけではなく、試合における投球回数、練習の量と内容について上肢関節への力学的な負担も考慮してさらに検討を加えるべきであろう。

第3章成長と練習が投球動作にあたえる影響

 第3章では加齢あるいは成長や練習が投球能力および投球動作にあたえる影響を検討した。

 まず3歳から9歳の幼児・児童男女180名の投球能力および投球フォームが、側方から高速度撮影されたフィルムの分析により検討された。投球能力および投球フォームには5歳から7歳の間に男子の優位があらわれ、以後この男女間の差はより一層増大する傾向が認められた。男児の投球動作の特徴は、体幹部に近い体節が遠位の体節やボールに比べリリース前により大きな速度のピークをもち、リリース時には減速していることであった。このことは質量が大きく体幹部に近い体節の持つ運動エネルギーの一部が、質量が小さく末端に位置する体節へ転移するという力学的に合理的な投法に良く合致していた。

 次に、優れた投球動作の特徴を知るために一般大学生男女の投球動作を比較した。女性の平均的な遠投能力は男性の48%に過ぎず、成長期の児童で顕在化した投球能力および投球技能の男女差が成人期までそのまま持ち越されていることがうかがわれた。男女の投球フォームの間の最大の相違点は肩関節の水平位内転-水平位外転角度の変動パターンに認められた。女性の投球動作においては前額面を越えて肘が水平位外転されることはなく、身体の前面で肩と上腕を挙上しながら押し上げるようにボールを投げ出していた。それに対して、男性の投球動作においてはコッキング期に上腕部が両肩の延長線を越えて水平位外転され、それに続いて水平位内転された後にボールが投げ出されていた。また体幹部については肩および腰が投球方向からより大きく捻られており、また肩と腰の間でも「ねじれ」が観察された。このほかに男女両群間で認められた差としては、女性に比べ男性では肩の内旋運動や前腕部の回内運動がリリースの直前に急激であったこと、およびリリースにいたる方向の関節運動に先立つ逆方向への運動、特に肩関節の外旋がより顕著であったことをあげることができる。男性の上肢関節角度の変化の傾向やその関節角度値は第2章の野球の投手の結果と同様のものであった。投手の投球動作と遠投動作という異なる動作様式においてではあるが、ともに優れた投球能力を示す動作で類似の傾向が認められたことから、男女両群間の投球動作における投球腕の運動に認められる違いは、投球動作における本質的な巧拙の差と考えられた。

 優れた投球動作の特質は、上肢および体幹部におけるヒトの解剖学的な特質にそれぞれよく対応していた。オーバーハンドの投球動作は解剖学的な制約によってヒトのみに可能な動作である。わけても優れた投球動作の特質とはそのヒトの解剖学的な特質を極限まで利用した動作であると言えるだろう。

第4章投球動作の練習について

 第3章で得られた成長期の子どもの投球フォームに見られる変遷、あるいは熟練者の投球動作の特質や男女間に認められる投球動作の違いに関する知見に基づき、第4章では投球動作の練習効果について検討した。

 まず物体を加速する際の基本的な力学的原理も考慮して、未熟練者を対象としたいくつかの練習方法を提示した。

 (1)大きなパワーを全身で発揮するために大きくて重いボールを投げること

 (2)日常的ではない投球時の肩関節の関節角度を体験すること

 (3)ボールを加速するための関節運動範囲を大きくすること

 (4)体幹部の運動量を効率良くボールに伝達する手首の役割を実感すること

 などであった。これらの練習方法はいずれも優れた投球動作を行なった場合の筋感覚を実感できるように想定したものであった。

 次に、11名の一般大学生女子を対象として、5週間10回にわたり上記の練習方法を取り入れた投球練習を行なわせ、投球能力および投球フォームに認められる変化を検討した。その結果、ソフトボールの遠投距離には平均で22.5%(練習前:19.1m、練習後:23.4m)の伸びが認められた。また上腕部が前額面を越えて水平位外転され、コッキング期で体幹部全体が投球方向から逆方向により大きくひねられるようになった。この他にも、肩関節の最大外旋角度値が大きくなったこと、肩関節内旋・肘関節伸展などのリリースに向かう方向への運動に先立ち肩関節外旋・肘関節屈曲というそれぞれ逆方向への動きが顕著になったことなどが、練習後における投球フォームの変化として認められた。完全とは言えないまでも投球フォームが未熟練者のそれから熟練者のものに近付いたことをこれらの変化は示唆していた。これまで女性の投球能力は成人になった後はあまり向上させられないと考えられてきたが、適切な指導に基づく練習によって、投球フォームとあわせてある程度改善できる可能性が示された。

 広い年齢範囲で女性の投球能力は全く伸びが認められないばかりか低下の傾向を近年はたどってきていた。これまで女性が示してきたこのような遠投距離は一般の成人女性の投球能力の上限を示すものではないことが明かとなった。しかしながら練習後においても、その投球能力と投球フォームはソフトボールなどのスポーツを楽しむのに十分なものではなかった。成長にしたがってだれもが投球能力を向上させる可能性をもつが、正しい働きかけが適切な時期に行なわれないことにより特に女性で投球動作の発達が阻害されている場合が多いと考えられる。良い投球フォームと十分な投球能力を獲得するためには、遅くとも小学校低学年期に投球の練習を開始するのがよいと考えられる。早い時期に基本的な運動スキルが獲得されていないと、その後そのスキルを含むスポーツを最後まで楽しむことができず、結局様々なスポーツ活動から遠ざかってしまう傾向が認められる。将来の多様な学習を可能にする最低限の技能を確保させるよう指導すべきだと考えられる。

審査要旨

 投球動作、とりわけオーバーハンドの投球動作は人間のみに可能な動作である。これまでにも投球動作を対象とした研究は数多く行なわれてきた。しかし、方法論的な制約から、最も重要と考えられるリリース前後の上肢の動きの解析か不十分であった。本論文はオーバーハンドの投球において主に上肢の動きを明らかにすることを目的としている。

 本論文では、まず投球動作中の上肢の動きを分析する方法の開発が記述されている。すなわち、前腕および手部に小ポールをつけた被検者の投球動作を、2台の高速度映画カメラによって撮影した。三次元解析法を用いることにより、その映像から身体各部の関節角度を計算で求める方法を開発している。これにより、これまで重要だと考えられながらほとんど解明されていなかったリリース前後の前腕部や手首の動きを定量的に明らかにすることが可能となった。

 この開発した方法を野球投手の直球とカーブの投球動作に適用してその有効性を実証した。すなわち、判別がほとんど不可能とされていたその両者間の差を定量的に指摘した。続いて、幼児から小学生児童、および男女大学生の全力での投球動作の解析結果が記述されている。それらを要約すると、最も遠くに、あるいは速く投げられる投球動作の特徴は、(1)体幹に近い部分が先に加速され、リリースの瞬間に近づくにつれてボールを持つ末端部が加速されること、(2)肘が両肩の延長線を超える程度に肩が伸展されること、であることが明らかにされた。最後に、本研究で得られた知見に基づいた練習方法を女子大学生に適用した。その結果、これまで練習効果が認められにくいと考えられてきた女子大学生に、20%以上の遠投距離の増加が認められた。しかし、その程度の投球能力の改善では各種のボールゲームを楽しむのに十分でなく、より早期における練習の必要性が提案されている。

 これらの研究成果のうち、投球動作における前腕部や手首を含む上肢の運動の分析法を確立したことは、投球動作にとどまらずラケットスポーツにおける打動作等の解析にあたってもきわめて有効であると評価できる。そしてまた投球能力の異なる被検者を対象として、上肢の動きの特質を細部にわたって定量的に明らかにしたことは、投球動作の指導法の確立のために重要な知見を与えるものである。

 以上のように独創的で新しい知見をもたらした本論文は、体育学・スポーツ科学の発展に大きく寄与するものであり、博士(教育学)の学位論文として十分優れたものであると判断された。

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