工学修士板倉嘉哉提出の論文は「DSMC法による極超音速反応非平衡流の解析」と題し、本文6章および付録3章から成っている。 宇宙往還機等が地球低軌道から離脱し大気圏へ再突入する場合、物体前方には非常に強い衝撃波が発生し、衝撃波背後の領域では分子の内部エネルギモードの励起及び化学反応等が進行することになり、流れ場内でのこれらの進行度が、空力特性及び空力加熱に影響を及ぼすことがよく知られている。再突入物体への空力加熱の推算は、宇宙往還機開発における最も重要な課題の一つであるが、地上実験設備では完全なシミュレーションが不可能な場合もあり、数値流体力学による流れ場の再現が重要な役割を果たすことになる。 数値流体力学で再突入物体周りの流れ場を再現するには、分子内エネルギ及び化学反応等の現象を、本質を失うことなくモデル化して取り扱う必要があり、支配的となる物理化学的現象は分子振動と解離反応であるが、両者間には強い連成関係があることが知られている。しかし、その詳細なメカニズムはまだ不明なところが多く、従来の研究では分子振動と解離の連成関係を分子レベルで考慮した解析は少ない。また、化学反応モデルの特性が流れ場の構造にどう影響を及ぼすかについて考察したものは極めて少ないのが現状である。 著者は本論文において、高層の希薄な環境下における熱的及び化学的に非平衡な極超音速流の構造を明かにするために、分子運動論の支配方程式であるボルツマン方程式と等価なDSMC(Direct Simulation Monte Carlo)法により流れ場の数値シミュレーションを行っている。反応モデルには、著者の提案する分子振動と解離の連成関係を考慮した振動エネルギ依存解離モデル(VEDD:Vibrational Energy Dependent Dissociation)及び既存の3種のモデルを用いて解析を行い、反応モデルが流れ場の構造に及ぼす影響を調べるとともに、実験結果との比較によって提案する反応モデルの有効性を確認している。 第1章は序論で、従来の非平衡極超音速流に関連する研究を概観し、本論文の目的を述べている。 第2章では、流れ場内で化学反応を取り扱う場合の基礎知識として、巨視的及び微視的立場から化学反応をとらえ、両者の立場における適用限界と問題点について解説し、現象の本質を明白にしている。 第3章では、DSMC法のアルゴリズムの詳細について述べている。 第4章では、数値シミュレーションにおける境界条件の設定と用いた分子モデルについて述べている。分子モデルとしては、弾性衝突の断面積モデル、内部エネルギ緩和モデル、化学反応モデルに相当するRoss,Light&Schulerモデル、Birdモデル、Jaffeモデルと、著者の提案するVEDDモデルを、それらの理論的背景とともに解説している。 第5章では、2次元円柱及び球周りの極超音速反応非平衡流のDSMC法による数値シミュレーション結果の詳細について述べている。円柱に対する解析では、流れ場の構造の解明に主眼をおいて、広い範囲のクヌーセン数に対して前記4種の反応モデルを適用して解析を行っている。その結果、円柱後流領域に比較的高温な領域が存在し、クヌーセン数が小さくなるにつれてその温度が低下すること、また、反応モデルが温度場及び濃度場に与える影響は大きく、クヌーセン数が小さくとその効果が大きくなることを示している。特にVEDDモデルによる振動温度場の構造の変化は著しいが、これは、同モデルでは解離反応への振動エネルギ供給比率が高いので、解離反応の活発な領域では振動温度の低下が顕著となるためであり、反応モデルにおける解離条件及び解離への内部エネルギ供給比率が流れ場の熱的構造に与える影響が大きいことの根拠としている。また、VEDDモデルにより得られた円柱表面の圧力係数、熱伝達係数、抵抗係数は実験結果とよく一致することを示し、その結果は空力特性の推算に有用であることを確認している。 衝撃波の位置は衝撃波層内のエネルギ状態に強く依存するため、化学反応の進行度を表す一つの指標となり得る。そこで球に対する解析では、著者の提案するVEDDモデルの有効性を確認するために、バリスティックレンジによって測定された衝撃波離脱距離を比較の対象にしている。その結果、既存の反応モデルでは解離反応を過大詳価する傾向があり、衝撃波離脱距離は実験結果と比較して狭まるが、VEDDモデルによる結果及びその速度依存性は実験値とよく一致することが示され、モデルの有効性が確認された。また、球よどみ点への空力加熱の実験結果との比較においては、VEDDモデルによる推算値は比較的良好な一致が得られているが、その速度依存性については、壁面における触媒性等のより詳細な境界条件の検討が必要であることを示唆している。 第6章は結論で、前章までの結果のまとめを行っている。 なお、付録(A)ではDSMC法で重要となる分離の仮定の成立条件を導き、空間及び時間刻みの関係を規定するCFL条件を示し、付録(B)では計算に用いた窒素、酸素及び酸化窒素の有効解離エネルギを回転エネルギ及び回転温度の関数として与えている。付録(C)では本論文で用いた4種の反応モデルの熱的非平衡状態での特性について述べ、VEDDモデルでのみ、分子振動と解離の強い連成関係が再現できることを示している。 以上要するに、本論文は高層の希薄な大気中での再突入物体に生じる熱的及び化学的に非平衡な極超音速流に対して、DSMC法による数値シミュレーションによって検討を行い、分子振動と解離の連成関係を考慮した新しい反応モデルを提案して、反応モデルにおける解離条件及び解離へのエネルギ供給比率が熱的構造に与える影響が大きいことを明らかにするとともに、提案する反応モデルの有効性を確認したものであり、その成果は流体力学上新しい知見をもたらし、航空宇宙工学上貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |