本論文は、フォトリフラクティブ結晶を用いた光位相共役波の発生方法とその計測への応用に関する。位相共役波は、元になる入射波(プローブ波)に対してその波面と伝搬方向を反転させた波として定義され、プローブ波に対して時間を反転させた性質を持つ。近年、媒質の非線形光学効果を利用した位相共役波の発生方法とその応用が盛んに研究されている。本研究では特に、位相共役波の時間反転の性質を利用して、空気の乱流に起因するレーザビームのゆらぎの補正を行った。 従来、距離の測定や大型の構造物の形状測定などのように長光路で光計測を行う場合、空気の乱流に起因する光ビームのゆらぎが大きな問題となっていた。光ビームが空気乱流を通過すると、空気の屈折率が空間的に一様でなくかつ時間的に変動するために、ビームの位置や光強度および光の位相がゆらぐ。そのために測定の精度が低下したり、さらには測定が不可能になる。赤外光を用いれば、波長が長く空気の屈折率が小さいのでこのような光ビームのゆらぎの影響を低減させることができるが、一方で回折が強く起こるために光パワーの損失で測定の光路長が制限されるという問題がある。空気乱流による光ビームのゆらぎは、主として空気の屈折率のゆらぎに起因するため、位相共役波でその光ビームのゆらぎを補正することが可能である。 位相共役波を用いて空気乱流に起因するレーザビームのゆらぎを補正するという考え方は以前からあり、1980年代に若干の実験例も報告されている。それらの実験に共通する問題点は、4光波混合のためにポンプ波を媒質の外から供給する必要があったことである。4光波混合では、互いに対向する2本のポンプ波をプローブ波と同時に非線形媒質に入射させて位相共役波を発生させる。その時、ポンプ波の少なくとも一方とプローブ波とがヒーレンスでなければならなず、また2本のポンプ波の波面が一致していなければならない。このようなポンプ波を必要とすることは応用を考える上で不都合である。 それに対して本研究では、フォトリフラクティブ結晶のBaTiO3およびKNbO3を用いて、自己励起型の位相共役鏡と呼ばれる配置で位相共役波を発生させた。自己励起型の位相共役鏡は4光波混合の一種とみなせるが、ポンプ波がプローブ波からエネルギーを供給されて発振光として得られるので、プローブ波のみを位相共役鏡へ入射させて位相共役波を発生させることができる。フォトリフラクティブ結晶を用いた自己励起型の位相共役鏡に関しては、1982年頃から、さまざまな配置により多数の研究がなされてきた。この種の位相共役鏡を他の位相共役鏡と比較した場合、ポンプ波を外から供給する必要が無いことの他にも計測への応用に有利な次のような特徴を挙げることができる。すなわち、1Wから10mW程度の比較的に低いレーザパワーで20%から60%程度の高い反射率が得られ、かつ波面の精度の高い位相共役波が得られる。 一方、フォトリフラクティブ結晶を用いた自己励起型の位相共役鏡では応答速度が小さいことが大きな欠点と言われていた。空気の乱流によるレーザビームのゆらぎの場合、ゆらぎの速度は光路長や環境に依存するが、数100メートル程度の光路長で標準的な野外の気象条件を仮定すると、10Hz程度までの周波数領域のゆらぎを補正できることが望まれる。従来のフォトリフラクティブ結晶を用いた自己励起型の位相共役鏡ではこのような要請に対して応答速度が十分でなかった。 そこで本研究においては、応答速度を中心として自己励起型のフォトリフラクティブ位相共役鏡の性能の向上を図った。そして、その結果を用いて空気の乱流に起因するレーザビームのゆらぎの補正の実験を行った。また位相共役波の発生過程に関連して、フォトリフラクティブ結晶中の対向伝搬に伴うビームの空間不安定性について調べた。さらにその他の応用として、音響光学変調器の歪み補正を行った。本研究で得られた具体的な成果は以下のようにまとめられる。 1)代表的な自己励起型位相共役鏡である、結晶の内部反射を用いたBaTiO3結晶の位相共役鏡の応答速度について、次のことを実験により示した。第1に、位相共役波が立ち上がった後にプローブ波に小さな位相変化を与えた場合の応答時間は、位相共役波の立ち上がり時間に比べて2桁程度短い。第2に、結晶の温度を25℃から105℃へ上昇させることにより、応答速度が約5倍に向上する。第3に、入射ビームを集光して光強度を増大させることによって応答速度が向上するが、ポンプ波とプローブ波の相互作用領域の長さが入射ビームの直径によって制限されるため、集光の度合いには限度がある。 2)反射回折格子によるリング位相共役鏡において、プローブ波の入射条件の変化に帰還ビームが自動的に追随する新しい光学系を考案した。反射回折格子によるビーム結合では、ビームの交差角度を小さくすることで比較的に細いビームに対しても相互作用長を長くすることができる。そのため、位相共役鏡において入射ビームを細く集光して光強度を増大させることが可能になり、それによって応答速度を高めることができる。しかし従来の位相共役鏡の光学系では入射ビームを細く集光すると入射の位置や角度に対する許容範囲が狭くなるという問題があった。新しい光学系では図1に示すように帰還ビームの光路に3枚のレンズが配量されており、プローブ波の入射位置または入射角度が変化した時にその3枚のレンズの作用によって帰還ビームの入射位量または角度がプローブ波と等しく変化する。この光学系によって、広い入射の許容範囲と高い応答速度とを両立することができる。KNbO3結晶を用いた実験で、直径50mのプローブビームに対する入射角度と入射位置の許容範囲はそれぞれx=55mrad,y=67mrad,およびx=2.1mm,y4.2mmであった。そして、10mWの光入力パワーに対する位相共役波の立ち上がり時間は50msであった。また、位相共役波の反射率についても自己励起型の位相共役鏡として良好な72%が得られた。 図1 帰還ビーム追随型の位相共役鏡。1,位相共役ビーム;2,プローブビーム;3,ポンプビーム(発振により立ち上がる);4,帰還ビーム;M1〜M4,平面鏡;L1〜L3,凸レンズ。 3)反射回折格子の配置ではトラップ密度の高い結晶を用いることで大きな結合係数が得られること、そしてそれによって自己励起型の位相共役鏡に必要な結晶長を短縮できることを示した。入射ビームを細く集光して応答速度をかせぐとすれば、究極的には回折拡がりを考慮しなければならないので結晶は短い方が良い。コバルトを100ppmドープしたBaTiO3結晶を使用し、結晶の長さを通常の位相共役結晶の約1/5の1.1mmとして実験を行った。まず、対向する2ビームを用いた2光波の結合で48cm-1までの結合係数が得られた。次に、反射回折格子による自己励起型のリング位相共役鏡において、10mWのレーザ入力パワーに対して位相共役波の立ち上がり時間が35msで定常状態の反射率が50%という結果を得た。 4)自己励起型の位相共役鏡を用いて400mの折り返し光路で実験を行い、空気の乱流に起因するレーザビームのゆらぎを減少させられることを示した。上記の1)〜3)の成果を応用して、反射回折格子による帰還ビーム追随型の位相共役鏡と、結晶の内部反射を用いた位相共役鏡の2種類の位相共役鏡を用いて実験した。図2にレーザビームの戻り位量の時間変動を示す。上から順に、帰還ビーム追随型の位相共役鏡、内部反射を用いた位相共役鏡、および通常のコーナキューブ反射器を用いて光路を折り返した場合の測定結果で、これらの結果から位相共役鏡を用いることでゆらぎが減少させられたことが分かる。16mWのレーザ入力パワーに対して、帰還ビーム追随型の位相共役鏡を用いた場合に2Hz程度までの周波数領域のゆらぎが補正され、内部反射の位相共役鏡を用いた場合に10Hz程度までのゆらぎが補正された。10Hz程度までのゆらぎが補正できることは、数百メートル程度までの距離における光計測システムに有効であると考えられる。 図2 レーザビームの戻り位置の時間変動。上から順に、帰還ビーム追随型の位相共役鏡、内部反射を用いた位相共役鏡、およびコーナキューブ反射器を用いた場合の測定結果を示す。 5)フォトリフラクティブ結晶中での光ビームの対向伝搬によるパターン形成(あるいは空間不安定性)を見出した。具体的には、KNbO3結晶に対向して伝搬する2ビームを入射させて、その2ビームの周囲に六角形や対角2ビームの放射パターンが自己組織的に形成されることを観測した。そして、そのようなパターン形成をもたらす空間成分間の結合について考察した。位相共役においては常に対向して伝搬する2ビームが存在するので、このような対向伝搬に伴うパターン形成は位相共役との関連が深い。実際に、六角形のパターン形成は位相共役実験を行っている時に初めて見出された。 6)音響光学変調器からの回折光を位相共役波に変換して、その位相共役波がもう一度音響光学変調器で回折された後に取り出すという方法で、波面の歪みが補正されて周波数がシフトした光が得られることを示した。BaTiO3結晶の自己励起型位相共役鏡を用いて実験を行った結果、音響光学変調器において生じる波面の歪みを/100以下(はHe-Neレーザの波長の633nm)まで補正することができた。この方法は、音響光学変調器を周波数シフタとして用いてヘテロダイン干渉計を構成し、ナノメートル領域の計測を行う場合に有効である。 |