学位論文要旨



No 212031
著者(漢字) 秋月,種高
著者(英字)
著者(カナ) アキヅキ,タネタカ
標題(和) 近交系ラット上半身移植モデルを用いた脊髄の虚血耐性および軸索再生に関する研究
標題(洋)
報告番号 212031
報告番号 乙12031
学位授与日 1994.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12031号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 町並,睦生
 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 助教授 長野,昭
 東京大学 助教授 中村,耕三
内容要旨 I.第1章1.はじめに

 近年、神経科学分野の基礎研究の進歩により、末梢神経系と同様に中枢神経系もある程度の虚血耐性や再生能力を有することが明らかになりつつある。

 中枢神経系の中でも大脳や小脳などの高次中枢神経系における虚血耐性と再生に関する研究は、実験モデルの作製が比較的容易なため数多く行われており、多くの成果が得られている。しかし、同じ中枢神経系に属する脊髄に関しては、脳と比較すると非常に複雑な血行形態を有しているため、虚血モデルを作製することは極めて難しく、特に完全虚血モデルの研究報告はわずかに散見されるにすぎない。

 本章の研究では、各種組織の定量的、普遍的な完全虚血が得られ、なおかつ慢性実験が可能な近交系ラット上半身移植モデルを用いて、純粋な完全虚血が脊髄に及ぼす影響を機能的、病理組織学的に詳細に観察した。

2.材料および方法

 本研究は近交系ラット上半身移植モデルを用いて行った。このモデルは近交系ラットであるLewis系ラットの幼若個体(以下、ドナーラットと記す)の上半身を第3胸椎部で離断し、マイクロサージャリーによる顕微鏡下血管吻合を行い、別の同系成熟ラット(以下、レシピエントラットと記す)の鼠径部に移植して作製される。

 ドナーラットは生後2週齢および4週齢のLewis系の雄幼若ラットとし、レシピエントラットは生後10週齢の同系の雄成熟ラットとした。

 モデルの作製方法は、ドナーラットの上半身を第3胸椎部で離断し、下行大動脈と下大静脈を手術用顕微鏡を用いて、レシピエントラットの鼠径部で、大腿動脈および大腿静脈とそれぞれ端々吻合する。血管吻合が終了後、血管クリップを解除し血流を再開させる。完全虚血の開始はドナーラットの心室を結紮した時点とし、終了は血管クリップを解除して血流を再開させた時点とした。

 ドナーラットの虚血時間は2週齢および4週齢とも各々60、90、120分とし、各群10匹ずつモデルを作製した。モデル作製4週間後に、移植されたドナーラットの前肢の自動運動や疼痛刺激に対する反応などを肉眼的に観察し、その程度を5段階に分類して脊髄の神経機能を評価した。

 実験モデルは作製4週間後に屠殺し、ドナーラット脊髄の第7頚髄部をHematoxylin-Eosin(HE)染色、kluver-Barrera(KB)染色およびBodian染色にて光学顕微鏡下に観察するとともに、(1)第7頚髄横断面の面積、(2)前角細胞数、(3)前角細胞面積を計測した。

3.結果

 2週齢ドナーラット60分虚血群では、全体的に見て前肢の自動運動や刺激に対する反応は比較的良好に認められた。すなわち、頭頚部や両前肢を盛んに動かす動作がみられ、また前肢に対する疼痛刺激に対しても俊敏な忌避反応が認められ、両前肢を用いた姿勢制御(起立動作)も認められた。脊髄の組織像でも病理学的変化は比較的軽度であった。また、この群では脊髄の完全横断による影響を検討すろために縦断切片も作成した。その結果、脊髄の断端から約1〜2mm以内の部位には軽度の空胞形成や脱髄あるいはグリオーシスなどの所見が認められたが頚髄膨大部ではそのような明らかな変化は認められなかった。

 同じ2週齢ドナーラットでも虚血時間が90分となると、自動運動や刺激に対する反射は60分虚血群に比較すると弱々しくやや痙性的なものであった。脊髄の組織像では、脊髄前角細胞の萎縮、脱落や脱髄などの所見が顕著であった。

 2週齢ドナーラット120分虚血群では、脊髄機能の廃絶が明確に認められ、組織像においても神経細胞のほぼ完全な脱落が認められた。

 4週齢のドナーラット群では、いずれの虚血時間においても脊髄機能の脱落が2週齢ドナーラット群より顕著であり、病理学的変化もより高度に認められた。

4.考察

 脊髄は脳とは異なり、非常に複雑な血行形態を有しているため、純粋な完全虚血モデルを作製することは非常に困難であった。しかし、今回の研究に用いた近交系ラット上半身移植モデルでは、脊髄の長時間の完全虚血状態を得ることができる。また、脳や脊髄に障害を与えるような実験においても、全身管理を全く必要とせずにその個体を長期間生存させておく慢性実験を行なうことも可能である。

 本章の研究結果からは、幼若ラットの脊髄は虚血時間が長いほど脊髄神経機能の低下や病理組織学的変化が大きいが、60分間というかなり長時間の完全虚血に対してもある程度の耐性を有すると考えられた。さらに、同一虚血時間では生後2週齢のドナーラットの方が4週齢のものより機能的、病理組織学的変化が少なかったことから、より幼若である方が虚血耐性が高いことが推察された。

II.第2章1.はじめに

 第1章の研究結果から、近交系ラット上半身移植モデルにおいては2週齢のドナーラットを用い60分の虚血時間で移植した場合のドナーラット脊髄の機能的、組織学的変化は比較的軽度なものであることが判明した。さて、この脊髄の切断端から神経軸索の再生が起こるか否かについては、中枢神経系の再生(軸索再生)という観点からも、非常に興味深いものがある。そこで、本章の実験的研究では近交系ラット上半身移植モデルにおいて、移植されたドナーラット脊髄の切断端に別の同系成熟ラットから採取した末梢神経(坐骨神経)を縫合移植して、その中へ脊髄から神経軸索が再生、伸展して行くか否かについて観察した。

2.材料および方法

 ドナーラットは2週齢、レシピエントラットは8週齢のLewis系雄ラットを用いた。第1章の実験と全く同様に、ドナーラットをレシピエントラットの鼠径部に移植し、別のLewis系成熟雄ラットより採取した長さ3cmの坐骨神経片をドナーラットの脊髄断端に端々縫合した。

 モデル作製後6週(A群)、10週(B群)、14週(C群)目に、ドナーラット前肢の動作が第1章の実験の評価基準であるGrade-3以上の個体を屠殺し、脊髄の断端に移植した坐骨神経中の神経軸索を光顕的、電顕的に観察した。これらの標本から有髄軸索の密度(1平方mmあたりの個数)と直径(短径)のヒストグラムを求めた。また、A群では電顕像から有髄軸索の髄鞘の厚さを計測した。

 8週齢のLewis系雄ラットの鼠径部に別の同系成熟ラットより採取した長さ3cmの坐骨神経片のみを移植したもの(sham operation)を対照群とした。

3.結果

 準超薄切片トルイジンブルー染色標本の光学顕微鏡的観察では、すべての標本において免疫学的移植拒絶反応にともなうリンパ球や好中球などの小円形細胞の浸潤は全く認められなかった。

 脊髄の断端に移植した坐骨神経には、A、B、C群すべての群の近位部(神経縫合部から5mmの部位)および遠位部(神経縫合部から25mmの部位)に有髄軸索を認めた。

 有髄軸索の密度と径は、C群が最も大きく、次いでB群、A群の順であった。A、BおよびC群すべてにわたり、移植坐骨神経の近位部の標本では遠位部のものより有髄軸索の密度と径が大きかった。また同じ群においても、遠位部では髄鞘の崩壊物やマクロファージなどが近位部より多く認められた。

 透過型電子顕微鏡による観察では、全ての群の移植坐骨神経の近位部においてSchwann細胞に囲まれた有髄、無髄軸索を多数認め、Schwann細胞の周囲には基底膜の存在もみられた。移植坐骨神経の遠位部においても、Schwann細胞に囲まれた有髄、無髄軸索を認めたが、軸索密度は同じ群の近位部のものより低かった。坐骨神経移植6週後(A群)の有髄軸索の髄鞘の厚さは、近位部で0.67±0.21m、遠位部で0.42±0.17mと、近位部のほうが遠位部より厚い髄鞘を有していた。また、移植坐骨神経の遠位部では、変性した髄鞘などの軸索崩壊産物と、それらを清掃するマクロファージなどが近位部より多く認められた。

 一方、sham operationとして鼠径部皮下に坐骨神経のみを移植した対照群では、移植坐骨神経中に正常な有髄軸索は存在せず、崩壊した軸索や髄鞘あるいはそれらを捕食するマクロファージなどが多数認められるのみであった。

4.考察

 本章の実験では、ドナーラット脊髄の断端に移植した末梢神経中に多数の有髄軸索が認められたが、髄鞘の厚さは正常のものより薄く、移植後の経過時間が長いほど、また同じ群では近位部の方が遠位部より軸索密度と軸索径が大きいことなどから、これらの有髄軸索は脊髄から再生、伸展してきたものと考えられた。したがって、中枢神経系も末梢神経系と同様に軸索再生能を有することが推察された。ただし、再生軸索の起源、機能回復の程度、軸索再生の至適条件などに関しては、今後の研究が必要である。

 今回の研究に用いた近交系ラット上半身移植モデルは、モデル作製後の特別な全身管理を全く必要としないために、脊髄虚血や脊髄切断に関する各種の慢性実験に応用することが可能である。したがって、本モデルは一過性中枢神経系虚血や脊髄損傷における基礎的な諸問題の究明や、神経細胞壊死部に対して幼若神経細胞移植などを行なう実験、あるいは機能回復をめざした臨床治療の開発研究などに応用することができると思われる。

審査要旨

 本研究は、神経科学の基礎領域あるいは臨床領域で重要な研究課題のひとつとなっている、脊髄の長時間の虚血に対する耐性や神経軸索再生の態度を明らかにするため、幼若近交系ラットの上半身をマイクロサージャリーを用いた動静脈一対の血管吻合で成熟同種ラットの鼠径部に移植する実験モデルを用いて、長時間の完全虚血が脊髄に及ぼす影響を機能的、組織学的に詳細に観察し、さらに移植された幼若ラットの脊髄の断端に末梢神経を縫合することにより脊髄からの神経軸索の再生を観察したものであり、下記の結果を得ている。

 1.生後2週齢および4週齢の幼若なLewis系ラットの上半身を、各々60、90、120分の血流停止時間で同系成熟ラットの鼠径部に移植し、4週後の移植幼若ラット前肢の機能と脊髄の組織学的観察を行った結果、幼若ラットの脊髄は比較的長時間の完全虚血に対しても、機能的、組織学的にある程度の虚血耐性を有することが示された。特に、生後2週齢の幼若ラットでは、60分間の完全虚血に曝されても比較的良好な脊髄機能の温存が認められることが示された。

 2.同一週齢の幼若ラット群で比較したところ、60分間の完全虚血では比較的良好な脊髄機能の温存が認められ、90分間の完全虚血でもある程度の脊髄機能の温存が認められたが、完全虚血時間が120分になると脊髄の病理組織学的変化は高度となり神経機能はほぼ廃絶されたことから、同一週齢の幼若ラットでは虚血時間の長さに比例した脊髄機能の低下と、病理組織学的変化が生じることが示された。

 3.同一虚血時間に曝された生後2週齢と生後4週齢の幼若ラットの脊髄の機能的、組織学的変化を比較した結果、生後2週齢のものより生後4週齢の幼若ラットのほうが機能低下、病理組織学的変化が大きかったことから、ラットの脊髄においては、同一の虚血時間ではより幼若である方が虚血耐性が高いことが示された。

 4.生後2週齢のLewis系ラットの上半身を60分の虚血時間で同系成熟ラットの鼠径部に移植し、脊髄断端に他の同系成熟ラットより採取した坐骨神経を縫合し、その中の神経軸索を経時的に観察したところ、坐骨神経のみを成熟ラットの鼠径部に移植した対照群では経時的に観察しても神経軸索が認められなかったが、幼若ラットの脊髄の断端に坐骨神経を移植した実験群では小径ではあるが多数の神経軸索が認められることが示された。

 5.幼若ラットの脊髄の断端に移植した坐骨神経中に認められた有髄軸索の密度と径が経時的に増大していたこと、また脊髄との縫合側の方が末梢側より有髄軸索密度と径が大きかったことから、移植坐骨神経中に認められた有髄軸索は幼若ラットの脊髄から再生、伸展してきたものであることが示された。したがって、幼若ラットの脊髄は完全に横断されてもその断端からの軸索再生能を有し、さらに60分間という比較的長時間の虚血に暴露されてもその能力を有することが示された。

 以上、本論文は近交系幼若ラットの上半身をマイクロサージャリーを用いて同系の別の個体に移植するという実験モデルにより、幼若ラットの脊髄がかなり長時間にわたる完全虚血に対してもある程度の耐性能を有することを明らかにし、さらに虚血に暴露された幼若ラットの脊髄が軸索再生能をも有することも明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった、脊髄の完全虚血に対する耐性や神経軸索再生能の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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