学位論文要旨



No 212033
著者(漢字) 原山,耕一
著者(英字)
著者(カナ) ハラヤマ,コウイチ
標題(和) ビールの劣化臭とその生成機構に関する解析的研究
標題(洋)
報告番号 212033
報告番号 乙12033
学位授与日 1994.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12033号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,綜一
 東京大学 教授 森,謙治
 東京大学 教授 児玉,徹
 東京大学 教授 中村,厚三
 東京大学 助教授 清水,誠
内容要旨

 ビールはブランデー、ウイスキー、ワイン、日本酒などに比べてフレーバー的特徴の乏しい飲料であり、それはビールの諸成分の濃度がこれら飲料に比べて全般的に薄いことに起因している。ビールには官能弁別閾値以上の濃度で含まれている香味成分の数が極めて少なく、多数のマイナー成分の寄せ集めがつくる微妙な均衡がビール香味の生命である。そのため特定の成分が僅かでも増えたり、あるいは新規に生成したりすると、その香味が単独では好ましいものであっても、均衡は崩れてしまい香味劣化をもたらす。それが好ましくない香気成分であればなおさらのことである。一旦オフフレーバー(異臭)が発生するとビールはその商品価値を著しく低下させてしまうため、オフフレーバー発生を抑制し、香味耐久性の高いビールを製造することはビール業界の古くからの夢であった。

 ビールのオフフレーバーとしては、発酵未熟臭、微生物汚染によるもの、日光臭などがあげられる。これらのオフフレーバーについては発生機構もある程度明らかにされ、発生を抑制する対策等が技術的にほぼ解決されつつある。それに反して、保存にともない生成するオフフレーバーとしての劣化臭の間題が、いまだ解決されず残されている。37℃でビールを保存すると2ヶ月あたりまでcardboard臭(厚紙臭を連想させる臭い)と呼ばれる劣化臭が強くなり、その後、重く甘い臭いや、皮革製品様のオフフレーバーが強くなる。(E)-2-nonenal(E2N)を含めた類似の臭いを呈する数多くのカルボニル化合物がcardboard臭を含む保存初期に発生する劣化臭を形成すると考えられている。しかし、それらの成分の量比と劣化臭の強さとの関係について、いまだ詳細な報告はなされていない。

 本研究は、cardboard臭を含め保存の初期に発生するビール劣化臭に関与する成分の検出を目的として、多変量解析法をビール香気の分析に応用し、ガスクロマトグラムパターンの中に含まれる情報を要約するとともに、GC分析データに基づき劣化臭に寄与するピーク成分の抽出を試みた。さらに抽出された成分の官能検査の結果、劣化臭に関与することが示された成分についてその生成機構を明らかにした。

第1章ビールの保存にともなう低沸点揮発性成分の変化とその多変量解析による客観的評価

 低沸点揮発性成分の分析に適したヘッドスペースガスGC分析法を用い保存期間の異なるビール香気成分の分析を行なった。得られたGCデータに基づき多変量解析を行なった。クラスター分析では,1週間及び2週間の保存試料が逆転したほかは保存期間に従ったクラスターを形成した。因子分析では固有値1.0以上の12の主成分が抽出されその累積寄与率は93%前後であった。各試料は保存期間にともない第2主成分軸上を正の方向に移動することが確認された。このことから第2主成分軸が保存期間を示す軸と考えられ、保存にともなうビール香気パターンの変化が客観的に評価された。第2主成分で因子負荷量が絶対値0.5以上の高い値を示した12成分が抽出され、最も因子負荷量の大きな成分はfurfuralであった。これら因子負荷量の大きな14成分を用いステップワイズ判別分析を行なった結果、抽出された4成分を用いたJack-Knife法により88%の精度で各群の識別が可能であった。

第2章ビールの保存にともなう中・高沸点揮発性成分の変化とその多変量解析による客観的評価

 薄膜式減圧蒸留法およびCCl3F抽出によるヘッドスペースガスGC分析法を組み合わせたビールの中・高沸点揮発性成分に対する新しい分析法を開発した。その手法によりビール香気成分の分析を行ない、得られたデータに基づき多変量解析を行った。因子分析の結果、固有値1.0以上の16主成分が抽出され、その累積寄与率は95%であった。各試料は保存期間にともない第2主成分軸上を正の方向に移動し、保存にともなうビール香気パターンの変化が客観的に評価された。第2主成分で正に高い因子負荷量を示す15成分と負に高い因子負荷量を示す3成分を用いた判別分析によると100%の精度で各群の識別が可能であった。上記の正に高い因子負荷量を示す15成分中2-furfurylethyl ether(2-FEE)、furfuralを含む9成分を同定し、3成分を推定した。また負に高い因子負荷量を示す3成分中furfuryl acetateを同定した。

第3章因子分析で抽出された因子負荷量の高い成分とビール劣化臭との関連について

 本章では第2章において因子分析により抽出された15成分中2-FEEおよびE2Nを含む10成分についてビール中での定量を行なった。次に37℃、4週間保存ビールに含まれる各10成分をそれぞれ新鮮なビールに添加し、官能検査を行い、これら成分の劣化臭への関与を検討した。その結果、2-FEEは刺激性のある収斂味(astrigent的)を呈する劣化臭に、E2Nはcardboard的劣化臭に関与していることを明らかにした。2-FEEとE2Nの劣化臭に及ぼす影響を比較すると、E2Nの方がより強く劣化臭に関与していることが明らかとなったが、E2N単独添加では通常のビール劣化臭を完全には再現できず、E2Nと2-FEEを同時に添加した試料ではE2N単独添加試料よりもより強く劣化臭が感じられ、また質的にも通常の劣化臭のニュアンスにより近い劣化臭が再現できた。なお、2-FEEのビール中での閾値は2.5ppb前後であった。

第4章ビールの劣化臭に関与する2-Furfurylethyl etherの生成経路

 第3章にて劣化臭に関与することを明らかにした2-FEEについてビール中での生成経路の検討を行った。ビール中の2-FEEは既知物質であるが、その生成機構はいまだ明らかにされていない。そこで2-FEEの生成に関与すると考えられる成分の定量を行った。2-FEEおよびfurfuryl alcohol(FAL)はビールの保存にともない増加したがfurfuryl acetate(FAC)は保存初期に著しく減少した。5%エタノール水溶液にFACを添加し、37℃で保存するとFALと2-FEEが生成した。また5%エタノール水溶液にFALを添加した場合には2-FEEが生成した。FACをビールに添加し、25℃に保存すると2-FEEが生成した。以上の結果, 2-FEEはエタノール存在下でFACからFALを経由する経路とビール中に存在するFALからの経路により生成すると考えられた。

第5章ビールの劣化臭に関与する(E)-2-Nonenalの生成経路

 第3章にてビールの劣化臭に関与することを明らかにしたE2Nの前駆体が、仕込工程中に生成する9-ヒドロペルオキシリノール酸(9-LOOH)であるとする仮説に基づいて、ビール中でのE2Nの生成経路の検討を行った。仕込工程中での9-LOOHの定量法を確立した後、仕込過程で麦汁に9-LOOHを添加し試醸したビールと、9-LOOHを添加せず試醸したビールとの保存にともなうE2N生成量を比較した結果、9-LOOH添加試料でE2N生成量が高くなることを明らかにした。従って仕込工程中に生成する9-LOOHよりビール保存中にE2Nが生成すると考えられた。9-LOOHからのE2Nの生成経路として、銅イオンなどの遷移金属イオンが関与する熱分解機構、遷移金属イオンの関与しない酸分解機構およびlyaseによりE2Nが生成する機構が知られている。lyaseはビールの仕込工程中に失活するためこの機構は考えられない。そこで、ビールに銅イオンまたはEDTAを添加し、無添加ビールとの保存にともなうE2N生成量の比較を行った。その結果、各試料間のE2N生成量に差が認められず、ビール中では熱分解機構によりE2Nは生成しないことが判明した。したがって、E2Nは9-LOOHから酸分解機構で生成すると考えられる。しかし、9-LOOHは麦汁中には存在するがビール中には存在しないことから、仕込工程で生成した9-LOOHが未知のペルオキシ化合物に変換され、製品ビール中に移行した後、保存にともない酸分解機構によりE2Nが生成すると推測された。

結論と展望

 本研究によりビール劣化臭への2-FEE、E2Nの強い関与が明かとなった。2-FEEの生成機構はFACよりFALを経由して、またはビール中に存在するFALより生成すると考えられた。一方E2Nの前駆体である9-LOOHは原料由来のリノール酸が仕込工程中で酵素的過酸化反応をうけることにより生成すると推測された。更に9-LOOHは仕込工程の後期で減少し、未知のぺルオキシ化合物としてビールに移行し、保存にともなって酸分解機構によりE2Nが生成すると推定された。これらビール劣化臭を減少させることによりビールの香味耐久性を向上させることが可能であると考えられる。2-FEE生成量を抑制する対策としては2-FEEの前駆体と考えられるFAC及びFALの生成量を抑制すれば良いであろう。それにはFAC生成量の低い酵母の選択や、FALの生成に関するメイラード反応の制御などが考えられる。E2Nについては前駆体である9-LOOHの仕込工程での生成に関与するlipoxygenase活性の低い原料の選択などが効果的であろう。

審査要旨

 ビールは保存に伴い劣化臭と呼ばれるオフフレバーが生成し、ビールの商品価値を著しく低下させる。本論文は、このビール劣化臭に関与する成分の検出を目的として、多変量解析法をビール香気の分析に応用し、ガスクロマトグラムパターンの中に含まれる情報を要約するとともに、GC分析データに基づき劣化臭に寄与するピーク成分の抽出を試みている。さらに抽出された成分の官能検査の結果、劣化臭に関与することが示された成分の生成機構について研究した結果を述べたものである。

 第1章では、低沸点揮発性成分の分析に適したヘッドスペースガスGC分析法による結果を述べている。保存期間を変え、劣化程度の異なるビールを調製し分析を行った。因子分析では固有値1.0以上の12の主成分が抽出されその累積寄与率は93%前後であった。各試料は保存期間にともない第2主成分軸上を正の方向に移動することが確認された。このことから第2主成分軸が保存期間を示す軸と考えられ、保存にともなうビール香気パターンの変化が客観的に評価された。第2主成分で因子負荷量が絶対値0.5以上の高い値を示した12成分が劣化臭に関与する成分として抽出された。これら因子負荷量の大きな成分を用いたステップワイズ判別分析により、88%の精度で各試料の識別が可能であった。

 第2章では、薄膜式減圧蒸留法およびCCl3F抽出によるヘッドスペースガスGC分析法を組み合わせたビールの中・高沸点揮発性成分に対する新しい分析法を開発した。因子分析の結果、固有値1.0以上の16主成分が抽出され、その累積寄与率は95%であった。また、第2主成分軸が保存期間を示す軸として抽出され、保存にともなうビール香気パターンの変化が第1章と同様に客観的に評価された。第2主成分で因子負荷量が±0.5以上の18成分を用いた判別分析によると100%の精度で各試料の識別が可能であった。上記の18成分の内、正に高い因子負荷量を示す15成分中2-furfuryl ethyl ether(2-FEE)、furfuralを含む9成分を同定し、(E)-2-nonenal(E2N)を含む3成分を推定した。また負に高い因子負荷量を示す3成分中furfuryl acetateを同定した。

 第3章では、因子分析で抽出された因子負荷量の高い成分とビール劣化臭との関連について述べている。因子分析により抽出された15成分中2-FEEおよびE2Nを含む10成分についてビール中での定量を行なった。次に37℃、4週間保存ビールに含まれる各10成分をそれぞれ新鮮なビールに添加し、官能検査を行い、これら成分の劣化臭への関与を検討した。その結果、2-FEEは刺激性のある収斂味を呈する劣化臭に、E2Nは段ボール紙などの厚紙を連想させる劣化臭に関与していることを明らかにした。

 第4章では、ビールの劣化臭に関与する2-FEEの生成経路について述べている。2-FEEおよびfurfuryl alcohol(FAL)はビールの保存にともない増加したがfurfuryl acetate(FAC)は保存初期に著しく減少した。 5%エタノール水溶液にFACを添加し、37℃で保存するとFALと2-FEEが生成した。また5%エタノール水溶液にFALを添加した場合には2-FEEが生成した。FACをビールに添加し、25℃に保存すると2-FEEが生成した。以上の結果,2-FEEはエタノール存在下でFACからFALを経由する経路とビール中に存在するFALからの経路により生成すると考えられた。

 第5章では、ビールの劣化臭に関与する(E)-2-nonenalの生成経路について述べている。E2Nの前駆体が、仕込工程中に生成する9-ヒドロペルオキシリノール酸(9-LOOH)であるとする仮説に基づいて、ビール中でのE2Nの生成経路の検討を行った。仕込過程で麦汁に9-LOOHを添加し試醸したビールと、9-LOOHを添加せず試醸したビールとの保存にともなうE2N生成量を比較した結果、9-LOOH添加試料でE2N生成量が高くなることを明らかにした。従って仕込工程中に生成する9-LOOHよりビール保存中にE2Nが生成すると考えられた。

 以上本論文は、ビールの保存にともない生成する劣化臭に寄与する成分を、多変量解析により抽出し、抽出された成分の中から劣化臭に直接関与する化合物を特定し、それらの生成機構について明かにしたものであり、応用的研究への展望を示し、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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