学位論文要旨



No 212035
著者(漢字) 水本,忠武
著者(英字)
著者(カナ) ミズモト,タダタケ
標題(和) 戸数割に関する研究
標題(洋)
報告番号 212035
報告番号 乙12035
学位授与日 1994.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12035号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,学
 東京大学 教授 荏開津,典生
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 助教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 八木,宏典
内容要旨

 課題と研究方法 本論文の第1の課題は、1878年(明治11)から1921年(大正10)までの府県裁量的賦課方式の実態を解明することにある。その際(1)府県から市町村に戸数割を配当する基準は、どのようなものであったか。その歴史的変化をトータルとして把握することにある。また(2)県から配当された戸数割額を市町村が各納税義務者に配賦する場合に、なんらかの課税標準を設定して賦課(等級賦課)を実施している事例を分析することにある。つまりこの点の分析を通して、等級賦課がいつから行われてきたのか。課税当局が等級賦課を導入せざるをえなかった社会・経済的背景はどのようなものであったのか。さらにその基準はどのように変化し、その内実は何であったのかを究明することにある(第1章から第4章)。

 第2の課題は、1921年に制定された府県税戸数割規則が目指した歴史的意義を、勅令第282号と統一的に捉えることによって、明らかにすることにある(第5章から第7章)。

 第3の課題は、市町村段階での戸数割賦課方式の歴史的展開を府県との相互規定関係を視野にいれ、具体的に分析することにある。対象村は埼玉県下の潮止村、八幡村、八條村(現八潮市)である(第8章)。

 第4の課題は、戸数割賦課異議申立(行政救済)の事例考察を行うことである(第9章)。これによって、戸数割の納税義務者対象規定の変動を明らかにすることを意図する。

 第1.2の課題分析には、埼玉県立文書館の布達・訓令・戸数割等級規程、その他の税制関連資料、埼玉県立図書館の布達集、埼玉県立議会図書室の県議会議事録等を利用した。第3の課題分析には、八潮市立資料館所蔵の予算・決算書、戸数割賦課に関する等級規程、資力算定標準表等の資料を利用した。第4の課題分析には、埼玉県立文書館所蔵の異議申立書、岩手県は県庁文書学事課所蔵の異議申立書、山口県は県立文書館所蔵の異議申立書をそれぞれ利用した。

 県からの戸数割配当基準 埼玉県の場合、1921年の府県税戸数割規則の制定以前においては、戸数を基準にした「戸数比例配当法」を採用していた。政府が出してきた1913年(大正2)の府県税規則(案)では、府県からの配当基準は、直接国税・府県税の徴収額および現在戸数を基準とする内容であったが、埼玉県は従来、県として採用してきた「戸数比例配当法」を主張し、直接国税・府県税の徴収額を基準に採用することには反対してきた。しかし、1918年(大正7)の府県税戸数割規則(勅令案 未定稿)に対する埼玉県からの回答では、戸数2分の1、直接国税・府県税の徴収額2分の1を基準として採用することに同意している。最終的には、1921年府県税戸数割規則が制定され、1926年(大正15、昭和元)の税制改革によって、戸数割が市町村の独立税になるまでの期間は、戸数と直接国税・府県税の徴収額を基準に配当していた。

 等級賦課の内容と展開 埼玉県が戸数割等級規程を最初に設定したのは、1886年(明治19)であった。規程設定にいたる社会・経済的背景には、松方デフレ下での県民生活の窮乏、農村の疲弊、地主-小作への農民層分解の進展が見られ、納税義務者間での貧富間格差の拡大が無視しえない程度までに展開していたことがあげられる。そのような社会・経済的背景から設定されたのが、乙第92号であった。これは納税義務者の等級を個数によって区分し、個数は土地、家屋、納税額、公債証書利子、株券ごとに算出するものである。村全体の総個数で県から配当された戸数割額を割って1個当たりの金額が算定される。各納税義務者の納税額は、1個当たり金額×納税義務者の総個数によって算出される。1889年(明治22)8月、新市制町村制の出発に際して、新町村は旧来の地方制度と比べて自治分権が備わったという理由で乙第92号は廃止される。戸数割賦課方式に関してはその後、埼玉県の委任事項として町村に任せることになる。

 1902年(明治35)、埼玉県では、県税賦課規則の改正に伴い、本格的な県税戸数割等差設定に関する標準を新設する。この標準規程は、乙第92号を基本的に踏襲したものである。乙第92号との相違点は、戸数割の等差設定標準の範囲を広くとっていることと、町村の取捨選択可能部分を設定していることである。県は町村に対し、この標準の範囲内で戸数割等差設定規程を義務的に作成させ、県の許認可権限の下に置く体制を確立した。この標準はどちらかと言えば、資産所有や有産者の所得を基準にしたものであり、この標準に基づく戸数割の等級賦課は1921年まで実施される。

 府県税戸数割規則制定の歴史的意義 府県税戸数割規則制定に漕ぎつけるまでには、政府は府県税規則(案)、府県税戸数割規則(勅令案 未定稿)を府県に提示し、それに対する回答を求めた。この二案を含め、府県税戸数割規則における資力算定の方法は、これまで埼玉県が採用してきた戸数割賦課方式とは決定的に違う内容を持っていた。埼玉県のそれは、土地、家屋、国税・府県税納税額等、どちらかと言えば、資産所有や有産者階級の所得を基準に個数を算出し、等級区分を設けて賦課する方式であった。それに対し政府の二案および府県税戸数割規則では、所得を中心に納税者の資力を算定する内容であり、その所得の中には、これまで課税対象外になっていた日雇い賃銀や小作農家の小作所得が含められた大衆課税方式を導入する内容であった。したがって、府県税戸数割規則を文字どおり実施した場合には、賃金労働者や小作人へ重課をもたらす一方、有産者には軽課になるということが判明した。しかし、この時期は全国的に小作争議が高揚し、労働運動も一定の広がりを見せ始めていた時期であり、なお地主層が大勢を占めていた町村長をして、実施困難と認識させ、規則の修正や実施延期の陳情運動へと向かわせることになる。この運動は埼玉県はもとより全国的に展開し、最終的には全国町村長会に集約され、内務省をはじめとする政府関係機関に対し、強力な陳情運動が展開された。その運動への妥協として、政府は勅令第282号を発布したのである。

 勅令第282号は府県税戸数割規則に基づく資力算定に当たって、資産状況斟酌部分を10分の2としているのに対し、10分の4まで認めたものであり、結果として資力算定における所得部分の割合を10分の7から10分の5まで引き下げることになった。この勅令第282号の発布以降、陳情運動は終息へと向かう。ただし、この勅令が発布されたとは言え、府県税戸数割規則が目指した所得にウェイトを置いた戸数割賦課方式は制度的に確定され、その所得算定には、日雇い賃金や小作農家の小作所得が組み込まれ、大衆課税方式の導入が図られた。そこに府県税戸数割規則が目指した最大の歴史的意義が存在したのである。

 村段階での戸数割賦課方式の展開 前記三村でも、明治期からすでに等級による戸数割賦課方式を採用してきており、それは、乙第92号の方式、1902年の埼玉県の等差設定標準に準拠した賦課方式を実施してきていることが明らかになった。府県税戸数割規則の制定以前においては、等級区分の標準は資産を中心としたものであったが、時には俸給・歳費・年金等も標準に取入れたこともあった。しかし、所得を恒常的に資力算定標準に算入させてくるのは、府県税戸数割規則の制定以降である。所得の中には日雇い賃金や小作農家の小作所得が含められていることが、所得算定標準(基準)表から明らかになった。府県税戸数割規則の歴史的意義としての大衆課税化が実証できたのである。なお、小作所得を課税対象とすることは、これまでいくつかの村について報告されている、いわゆる自小作前進を課税面から捕捉していくという、大きな問題をはらむものであった、と准測できよう。

 戸数割賦課異議申立に関する事例考察 異議申立をその内容に沿って四類型に区分し、I、II、IV類型を考察した。構戸、独立生計者に関する申立では、府県税戸数割規則の制定以前には、止宿や下宿した者に対し、戸数割を賦課した場合に対する申立は、申立人の要求を認めて、戸数割賦課は違法であるとの判決が下されていた。この点、制定後には同種の申立は県参事会での裁決は不成立、行政裁判所の判決では、敗訴になっている。こうして府県税戸数割規則制定の歴史的意義のひとつに数えられる納税義務者対象規定の拡大が明確に把握できたのである。最後に、炭鉱労働者への戸数割賦課はきわめて軽課であり、他の納税義務者との間に不公平が存在することを明らかにした。

審査要旨

 本論文は、戦前の地方財政における主要な財源のひとつであった戸数割に関する理論的、実証的研究である。

 戸数割は、1878年の「地方税規則」制定に際して道府県税として法定され、市町村においては府県税付加税としての戸数割が実施された。その後、1926年の地方税整理に伴って道府県税としての戸数割は廃止され、かわりに市町村独立税としての戸数割が認められたが、これは1940年の税制改革の際に廃止された。すなわち、租税体系における戸数割は、1878年〜1925年は道府県における独立税、市町村における府県税付加税として位置づけられ、1926年〜1939年には市町村における独立税として位置づけられたのである。

 租税収入に占める戸数割の比重は時期により変動するが、道府県においてはおよそ20〜30%、町村においては50〜70%で推移する。すなわち、町村財政における戸数割依存度はきわめて高かったのである。それにもかかわらず、従来の研究においては戸数割の実態は必ずしも十分に解明されておらず、多くの不明確な問題が残されたままであった。

 その大きな理由は、戸数割の場合、課税対象(課税物件)や課税標準などの賦課方式が概してあいまいであったことである。すなわち、1921年の「府県税戸数割規則」によって課税標準の統一的規定が定められる以前は、賦課方式は基本的に課税権者すなわち道府県の裁量に任されていた。したがって、1921年以前には、道府県から各市町村に対して戸数割の賦課がなされたわけであるが、その際何らかの課税標準が示される場合(「等級賦課」など)と、細目については市町村会に一任される場合(「見立割」)とがあった。いずれにしても道府県がどのような基準で市町村に戸数割を配当したのか、その歴史的実態が解明されなければならないが、従来、道府県レベルの研究は最も手薄であった。本論文では、埼玉県を中心に県から市町村への戸数割の賦課(「戸数比例配当法」)の歴史的展開過程を詳細に分析するとともに、市町村レベルでの各納税義務者への賦課方式(土地、家屋、納税額、公債証書利子、株券などを一定の計算方式で評価・積算する「等級賦課方式」)を、あわせて解明・分析することによって、府県の裁量に委ねられていた時代の県レベルから市町村レベルにいたる戸数割の歴史的実態がはじめて総合的に明らかにされている。

 また、本論文は同時にそうした戸数割賦課方式の持つ歴史的意義の解明を行っている。すなわち、1921年に制定された「府県税戸数割規則」は、第1次世界大戦期における地方財政、とくに町村財政の急膨張への対応と、他方では大正デモクラシーといわれた時代潮流のもとで展開しはじめた労働者の運動や、農村における小作争議の増大傾向などに対して、「課税の公平」を図ろうとしたものであったが、実態的には所得面での課税対象領域を、日雇労働者の賃金や小作農民の小作地からの所得にまで拡大するものであった。

 その結果は、町村内での地主と小作農民の対立を強めるなど、各種の社会的摩擦を引き起こし、これに対する市町村や県当局の対応はむしろ政府に対して上記規則の修正や施行延期を求めるものであった。そこで、政府は翌1922年に勅令第282号による一定の譲歩を余儀なくされたのであった。

 本論文が主たる分析の対象とした埼玉県下の潮止村等々(多くは現在の八潮市)は、東京都に隣接して、雇用労働の機会も多く、また小作争議なども発生し、当時の社会、経済の変化を最も鋭敏に反映した地域であった。そうした地域での戸数割とその賦課方式の変化が及ぼした社会的影響の分析は単なる一地方の事例にとどまらず、戸数割そのものの歴史的性格を端的に示唆するものといってよい。

 以上のように、本論文は従来の農村史、地方財政史研究において、その重要性が認識されながらも多くの未解明の課題を残してきた戸数割に関する研究領域の空白を埋めるうえで大きな貢献をしたのみならず、詳細な実証分析を通じて、町村レベルでのその実態と歴史的意義を明らかにした。よって審査委員一同は、本論分が十分博士の学位授与に値すると判断した。

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