学位論文要旨



No 212057
著者(漢字) 笠原,悦夫
著者(英字)
著者(カナ) カサハラ,エツオ
標題(和) 小児期の体力評価とその臨床応用
標題(洋)
報告番号 212057
報告番号 乙12057
学位授与日 1995.01.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12057号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柳澤,正義
 東京大学 教授 矢崎,義雄
 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 助教授 川久保,清
 東京大学 講師 川内,基裕
内容要旨 I.はじめに

 近年、肥満を背景とした高脂血症、成人型糖尿病、高血圧に代表される、いわゆる小児成人病の増加が注目されている。その主な成因には過食と不活動の問題が挙げられるが、これまでの日常小児科診療における治療の指針は両親への食事管理に偏っており、身体運動指導については十分行なわれていない。その理由は、幼小児や疾病児に対し体力を手軽に測定し、その内容を評価、応用する方法論が確立されていなかったためと思われる。

 一方、成人領域では運動負荷試験の体力指標を用いて個々の心肺機能の障害の程度を把握し、疾病の診断や治療にまで応用されている。特に、運動療法の分野では、心肺機能の評価に基づいた至適運動強度の設定により、種々の疾患の改善を目標とした効果的な運動指導が行なわれている。その一連の概念を応用して小児でも施行しうる簡便な方法を開発することは、運動不足などによる不活動を成因とした小児疾患への診療の選択の幅を広げることになると考える。

 心肺機能の客観的な評価方法は、最大酸素摂取量(maximal oxygen uptake:VO2max)や無酸素性作業閾値(Anaerobic Threshold:AT)に代表される運動負荷試験の指標によって行なわれる。小児に対し従来の方法に基づいてこれらの指標を測定することは、日常小児科診療の中では困難である。そこで、心拍数が約120拍/分を超えるような中等度運動時の定常心拍数と酸素摂取量との間には、直線的な比例関係が成立することから、トレッドミル歩行運動負荷と心拍数測定のみによる簡便な心肺機能評価指標(SLOPE 150)を開発し、小児肥満を対象に従来の指標との比較において、その有用性と実用性について検討することを第一の目的とした(研究1.)。

 さらに、小児肥満の運動療法への臨床応用として研究1.で示した簡便な心肺機能指標をもとに有酸素運動による至適運動量の設定を行ない、その実用性について検討することを第二の目的とした(研究2.)。

II.研究1.

 6〜15歳の小児肥満45人(男:女27:18)と同年齢の非肥満25人(男:女14:11)を対象として、4km/hの一定歩行速度で3分ごとに2.5%ずつ傾斜角度を多段階漸増させるトレッドミル歩行運動負荷中の心拍数測定から、心拍数150拍/分での運動量(SLOPE 150)を測定した。なお運動量は酸素摂取量の単位(ml/kg/min.)に換算して示した(図1.)。

図1.SLOPE 150による簡便な心肺機能指標の測定

 さらに、SLOPE 150と従来法との比較をみる目的で、以下の検討を行なった。肥満群36人(男:女20:16)と、同年齢の15人(男:女12:3)の上級水泳選手を対象に、自転車エルゴメーターによる直線的漸増負荷で呼気ガス分析を用いて、VO2maxに代わる最高酸素摂取量(PeakVO2)とAT及び運動時心拍数を測定した。また、日常身体活動性との比較で本肥満対象の18人(男:女12:6)について、一日平均歩数を測定した。この検討により、以下の結果を得た。

 1)SLOPE 150とAT、PeakVO2との間には、良好な正の相関関係が得られた(表1)。

 2)AT時における心拍数は対象児において約130拍/分台、運動鍛練児においては約160拍/分台にあった。

 3)肥満度とPeakVO2、AT及びSLOPE 150との間にそれぞれ良好な負の相関関係が得られた(表1.)。

 4)臨床的な肥満の重症度分類によるSLOPE 150値の比較では、高度肥満と男子の中等度肥満で有意な低下が見られた(表2.)。

 5)初診時から平均9.8ヶ月の経過により変化した肥満度とSLOPE 150値の関係から肥満度の改善が良好な児ほどSLOPE 150値は増加傾向が見られ、心肺機能の改善を定量的に示した。

 6)性別と年齢によるSLOPE 150の生理的推移において男女とも思春期前までは身体発育に伴い増加傾向を見せるが、それ以降男子では一定であり女子では低下傾向を見せた。

 7)SLOPE 150値と一日平均歩数との関連で、7500歩/日未満の不活動群は、それ以上の活動群との比較で、有意にSLOPE 150値が低かった(P<0.01)。

図表表1.SLOPE 150とAT、PeakVO2の相関関係と肥満度と心肺機能指標との相関関係 / 表2.非肥満児と肥満児の間でのSLOPE 150値の比較

 以上の結果から、SLOPE 150による測定は、従来法との間に相関を認め、肥満による心肺機能低下を定量的に示した。さらに小児期において見られる性別や年齢など生理的な体力変化や日常身体活動との関連においても従来の指標による先行研究とほぼ一致した所見を見出した。これらのことから、SLOPE 150はATやVO2maxなどの心肺機能指標に代わる簡便で実用的な指標として有用であることが示された。

III.研究2.

 研究1.においてSLOPE 150と実測したAT値との関係式(Y=4.491+0.636X,Y=AT,X=SLOPE 150)からAT値を推定し(Predicted AT)、AT時における心拍数(Prescribed HR at AT)を求めた(図2.)。

図2.SLOPE 150を用いた簡便な至適運動強度の設定

 心拍モニターなどを用いて、AT時の心拍数を至適運動強度とする運動を監視しながら、以下の検討を行なった。9〜15歳の5人の単純性肥満男児(肥満群)と中等度以上の肥満を伴う3人の小児糖尿病男児(糖尿病群)を対象に、入院管理下にそれぞれ肥満群で1週間、糖尿病群で3週間の運動療法による短期的効果をその前後の変化で検討した。この間、年齢別栄養所要量のほぼ20%以下という緩やかな食事制限のもとで、設定された運動を一日に約2時間程度行なった。運動療法前後の体格、及び空腹時における血清脂質、糖代謝の種々のパラメーターの比較から以下の結果を得た。

 1)両群共に除脂肪体重の減少を伴わない、体重の減少と肥満度の改善が得られた(表3.)。

 2)両群共に運動療法前に見られた血清脂質、糖代謝系などの異常値について改善を示した(表3.)。

 3)運動療法前にブドウ糖負荷試験により耐糖能異常を示した2例について、運動療法後の同試験では1例で過剰なインスリン分泌の改善を、もう1例では、インスリン分泌レベルは低値で変わらぬものの血糖の低下を見た。

表3.運動療法前後での体格、及び血清脂質,糖代謝系のパラメーターの変化

 以上の結果から、SLOPE 150とATとの相関関係式を利用した簡便な至適運動強度設定により、小児肥満及び小児糖尿病児に対し、過度の食事制限を伴わない運動療法による治療効果が示された。特に、体脂肪の選択的減量と個々の糖尿病児におけるインスリン分泌能や感受性の改善も含めた脂質、糖代謝への作用は有効な有酸素運動による効果を示していた。

IV.結論

 運動時における定常心拍数と酸素摂取量の直線的比例関係を利用し、トレッドミル歩行による漸増多段階運動負荷で求めた心拍数150拍/分の運動量で示した指標(SLOPE 150)は、VO2maxやATなどの従来法と比較し、小児においてこれらに代わり得る簡便な心肺機能指標であることが示された。特に、有酸素運動能の優れた指標であるATと関連した簡便指標は、初めての試みである。

 小児肥満における体力評価においてもSLOPE 150は肥満による心肺機能低下の程度を定量的に示し、体力的観点からの肥満治療の指針の一助となるものと思われた。また、性別や小児期の成長に伴う生理的な変化を加味した検討をさらに行なえば、本法は一般小児領域における確立した心肺機能評価法として用いることも可能と思われる。

 さらに、SLOPE 150とATとの関係式を利用した至適運動量の設定による運動指導は、有酸素運動を目的とした運動療法に有用であることが示され、小児成人病領域に留まらず、心肺機能の低下が予想される他疾患児に対しても臨床応用が可能と考える。

審査要旨

 本研究は、小児領域において心肺機能を主とする体力発達と健康との関連に基づいて適切な運動指導を行なるための簡便な体力評価指標を開発し、それを応用して実際に小児成人病児の運動療法を試みたものである。

 身体的不活動が小児期においても肥満症や糖尿病などの成人病の主要な原因となっているが、小児科診療の中で具体的な運動療法の方法論は確立していない。そこで、漸増多段階歩行運動負荷時の定常心拍数150拍/分の運動強度(SLOPE 150)を小児でも簡便に測定しうる新たな体力指標とし、従来有酸素性運動能力の評価指標として最も有用で信頼性が高いとされてきた最大酸素摂取量(VO2max)や無酸素性作業閾値(Anaerobic Threshold:AT)との比較において運動生理学的意義と運動療法の臨床的効果を検討したところ、下記の結果を得ている。

研究1

 1.6〜15歳の肥満児及び非肥満児を対象に、トレッドミル漸増多段階歩行負荷運動による定常心拍数150拍/分の運動強度を酸素摂取量に換算した値(SLOPE 150)は、自転車エルゴメーターによる症候限界直線漸増(Ramp)負荷下での呼気ガス分析で求めたVO2max、ATと良好な相関関係があった。また、AT時の心拍数は健常小児では150拍/分付近にあり、肥満児ではやや低下しているもののSLOPE 150はATに近似する心肺機能指標として代用しうることが示唆された。

 2.肥満度とVO2max、AT、及びSLOPE 150の間にそれぞれ良好な相関関係が得られ、臨床的な肥満の重症度分類による群別では、男女の高度肥満と男子の中等度肥満で有意なSLOPE 150値の低下を示し、肥満による心肺機能低下を定量的に示した。

 3.肥満児の治療経過の中で、肥満度の改善度とSLOPE 150値の改善度との関係から、肥満改善による心肺機能の向上を定量的に示した。

 4.年齢と性別による生理的な身体発育との関係では、SLOPE 150値は男女とも思春期前までは増加傾向を見せるが、それ以降では男子で一定となり女子では低下する傾向があり、VO2maxやATの生理的推移と同様の変化を示した。

 5.SLOPE 150値と歩数計による一日平均歩数との比較で、活動量の少ないものは有意にSLOPE 150値の低値を示し、日常活動性と心肺機能との関連を定量的に示した。

研究2

 5人の高度肥満児と3人の成人型糖尿病児を対象に、SLOPE 150と実測したAT値との相関関係式から推定したAT値をもとに、AT時レベルの心拍数を個々の対象において設定し、この心拍数を目標とする入院管理下での運動療法を行なった。この間、年齢別栄養所要量の20%以下の緩やかな食事制限のもと1〜3週間の短期的効果を検討したところ、全対象に除脂肪体重の減少を伴わない体重減少と肥満度の改善が得られ、血清脂質、糖代謝系などの異常値について著明な改善を示した。また、糖尿病群の個々の症例においては、運動療法前後のブドウ糖負荷試験によりインスリン分泌能やインスリン感受性の改善に著明な効果が見られた。これらのことから、SLOPE 150値とATとの相関関係式を利用した至適運動量の設定による運動指導は、有酸素運動を目的とした小児の運動療法に簡便に実用しうることを示した。

 以上、本論文は、トレッドミル漸増多段階歩行負荷を行なって簡便に測定しうる新しい心肺機能指標SLOPE 150が、従来の心肺機能指標によく相関し、肥満児の心肺機能低下をよく反映することを示し、さらに、実際これを応用して有酸素運動療法指導が可能であることを示したものである。従来、適切で簡便な指標のなかった小児の心肺機能評価と運動療法に重要な貢献をなすものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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