学位論文要旨



No 212058
著者(漢字) 吉永,淳
著者(英字)
著者(カナ) ヨシナガ,ジュン
標題(和) 人骨中の微量元素:生理学的要因ならびに慢性疾患による濃度の変動
標題(洋) Trace Elements in Human Bone:Elemental Variation due to Physiological Factors and the Presence of Chronic Diseases
報告番号 212058
報告番号 乙12058
学位授与日 1995.01.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第12058号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和田,攻
 東京大学 教授 折茂,肇
 東京大学 教授 高井,克治
 東京大学 教授 大井,玄
 東京大学 教授 荒記,俊一
内容要旨 [はじめに]

 人骨中のある種の微量元素(アルカリ土類元素、Pbなど)の生物学的半減期は数年〜数十年と長いことが知られ、これらの元素はbone-seeking element(BSE)と呼ばれている。BSEの骨中濃度は、これらの元素の長期にわたる曝露/摂取の指標として適していると考えられる。しかしながら、Pbを除くと、骨を生物学的モニタリングに用いた例は少ない。各種微量元素の人骨中濃度に関する信頼できる情報も多くないのが現状である。筆者は、前報において肋骨(法医学解剖検体、N=42)の多元素分析を行い、Pbに加え、Zn、Fe、Al濃度が対象者の年齢とともに増加することを見いだした。この結果は、これらの元素の骨における生物学的半減期が長いこと、すなわちBSEであることを示唆していると考えられた。しかしその際用いた分析法の感度の制約から、分析対象になったのは13元素であったため、より感度の高い分析法を用いれば、さらに濃度レベルの低い元素の中にあらたにBSEを見いだすことができる可能性がある。本研究の目的の一つは、人骨(肋骨)の元素組成を、最新の高感度な分析法(誘導結合プラズマ質量分析法:ICP-MS)を用いて明らかにすることにある。その際分析の信頼性も併せて検討した。

 加齢にともなう骨の変化は、骨密度の変化として研究されているが、骨中の主要ミネラルの濃度変化という観点からの研究は少ない。本研究ではこの点についても若干の検討を試みた。

 近年、ヒトの健康・疾病に微量元素がかかわっていることが明らかになってきた。特に必須微量元素のごく軽度の欠乏や、汚染元素への低いレベルでの曝露と、慢性変成疾患(たとえばガン、心臓病)との関連が注目されている。これらの関連を明らかにするためには、長期にわたる微量元素曝露/摂取の指標が必要になるが、骨はこのような目的に適した媒体であると考えられる。そこで本研究の三つめの目的として、肋骨中の微量元素濃度と対象者の慢性変成疾患との関連を検討した。

[対象と方法]1.対象

 1987年12月〜l988年12月に東京都内西部にある病院で死亡し、病理解剖をうけた45人(男17、女28)から肋骨を採取した。対象者の年齢は61〜96歳(平均81.5歳)であった。

2.微量元素分析方法

 肋骨は付着する軟組織を除去した後、蒸留水、有機溶媒で洗浄し、85℃で恒量となるまで乾燥した。乳鉢で粉末とし、約500mgを硝酸で分解し、10mlに希釈した。この検液を適宜希釈して、Na、Mg、Al、P、Ti、V、Cr、Mn、Fe、Zn、Srをプラズマ発光法(ICP-AES)で、K、Caを原子吸光法(AAS)で定量した。Co、Ni、Cu、Cd、Pbは、検液から溶媒抽出し、ICP-AESで定量した。45サンプルのうち、35サンプルについては、検液を希釈してICP-MSで60元素の定量を行った。分析の確度および精度を検討するため、標準試料(国際原子力機関(IAEA)「Animal Bone」、アメリカ商務省標準局(NIST)「Orchard Leaves」)も同様の方法で分解、希釈、抽出、測定した。

3.年齢、性による変動の解析

 各元素濃度は分布の歪度を参考に、必要に応じて対数変換を行った。年齢との関連、男女差は相関分析、平均値の差の検定により解析した。また筆者の前報のデータ(法医学解剖検体からえた肋骨、N=42、男28、女14、年齢2カ月〜82歳)と本研究のデータとをあわせ、対象者の年齢群(20歳間隔)による肋骨中主要元素濃度(Ca、P、Na、Mg)の変動を、分散分析(Kruskal-Wallis test)により検討した。

4.疾患と肋骨中微量元素レベルとの関連の解析

 肋骨サンプルをえた対象者の病歴および解剖時所見報告から、ガン、脳血管疾患、骨疾患の3つの疾患にそれぞれについて、対象者をおのおのの疾患の有無により2群にわけた。その際の基準は以下の通りである。(1)解剖時に悪性腫瘍が見つかった対象者は、臓器、腫瘍のタイプにかかわらずガン(+)としたところ、ガン(+)は45人中10人であった。これ以外に2人がガンの既往があったが、いずれも切除手術を受け、死亡時に腫瘍はみつかっていなかった。そこでガンの有無による群わけは、ガン切除者を(-)とした場合、(+)とした場合の2通りで統計処理を行った。なおいずれの場合も、ガン(+)の男性は女性に比べて有意に多かった。(2)解剖時に大脳に出血痕、梗塞痕の見いだされた対象者は脳血管疾患(+)とした。44人中30人が(+)であった(1人は脳の検査を行っていなかった)。(3)病歴から、過去に骨粗鬆症と診断された対象者、および老年期に腰椎圧迫骨折あるいは大腿骨頭骨折を経験した対象者は骨疾患(+)とした。45人中12人が(+)であった。

 上記の疾患の有無と肋骨中微量元素レベルとの関連を調べるために、3つのうち1つの疾患の有無を従属変数、肋骨中微量元素レベル(濃度およびCa比)、性、年齢、残りの2つの疾患の有無を独立変数とする判別分析を行い、疾患の有無の判別に有意な寄与をする独立変数を捜した。変数として用いた元素は、ICP-AESあるいはICP-MSで、ほぼすべてのサンプルで検出できたもの(Na、Mg、P、K、Ca、Fe、Zn、Sr、Sn、Ba、Pb)のみとした。変数選択はF値の有意性(p<0.05)を基準とするステップワイズ方式を採用した。

[結果と考察]

 えられた主要な結果および考察を以下にまとめる。

 1.本研究で用いた、新しい分析法であるICP-MSは、確度、精度の点で信頼性のあるものであることが判明した。また非常に高感度であり、検出下限として骨中濃度で0.005〜0.1g/gがえられた。骨の主成分元素の影響が一部の微量元素定量値の確度を損なう他、全体的な感度を制約していた。

 2.ICP-MS、ICP-AES、AASの3つの分析法により、肋骨中のNa、Mg、P、K、Ca、Fe、Zn、Sr、Sn、Ba、Pbが定量可能であった(表1)。そのほかICP-MSにより、18元素の存在が検出できた(表2)。Ca、P以外の微量元素(56元素)は合計しても総重量の0.8%程度であり、骨のミネラルはかなり純粋なリン酸カルシウムであることが判明した。

図表表1 肋骨中に定量できた元素の濃度(算術平均±SD) / 表2 ICP-MSにより肋骨中に検出された微量元素とその濃度範囲

 3.これまでの報告、筆者の前報、および本研究から、アルカリ土類、Pb、Zn、SnがBSEと考えられ、これらの元素の長期にわたる曝露/摂取を評価するために、骨は有用な試料となると考えられた。

 4.成人においては、骨のCa濃度は年齢によらずほぼ一定レベルであったが、P濃度は20〜39歳で最高値をとった後、年齢とともに減少した。その結果、Ca/Pモル比は年齢とともに上昇した(0〜19歳で1.44、80歳以上で1.59)。骨のミネラルにしめるハイドロキシアパタイト(Ca/Pモル比:1.67)の割合が年齢とともに増加するためであると考えられた。

 5.肋骨のNa濃度は0〜19歳で低値、その後上昇した後、ほぼ一定のレベルになり、高齢者で男性の方が女性より高い値を示した。Mgに関しては、Naとまったく逆のパターンを示した。これはNaとMgとの間になんらかの相互作用があることを示唆するものであると考えられたが、そのメカニズム、もつ意味は不明であった。

 6.ガンの有無を判別するのに有意な寄与をする元素に、PbとZnが選択された(図1、2)。どちらも「有」群で高い値を示した(Pb:p<0.001、Zn:p<0.05、Wilcoxonの順位和検定)。Pbの選択は対象者の群分けの基準を変えたり、Pb濃度の代わりにPb/Caを変数としたときには選択されないなど、不安定な傾向があり、今後の再検討を要すると考えられた。Znは各種ガン患者において、代謝(体内分布、排泄など)が変化することが知られており、本研究結果もそれによるものと考えられた。

 7.脳血管疾患の有無の判別にはBaが選択された(図3)。肋骨中Baレベルは、「有」群で有意に高かった(p<0.05、Wilcoxonの順位和検定)。これまでの動物実験、疫学研究で、Ba曝露と脈管系の疾患との関連を示すものがあるが、本研究は生体試料の分析からこの関連を示唆したものである。

 8.骨疾患の有無の判別にはSrが選択された(図4)。肋骨中Srレベルは「有」群で有意に高かった(p<0.05、Wilcoxonの順位和検定)。飲料水中あるいは歯のSr含量とう歯の罹患率とが負の関連をもつという報告、さらに馬の骨のSr含量と破壊荷重との間に正の関連があることが報告されている。本研究結果はこれらの知見と整合性をもっており、骨や歯の健康にSrがなんらかの役割を果たしている可能性が示唆された。今後、骨密度と骨のSr含量、そして骨粗鬆症との関連を調べていく必要がある。

図表図1 ガンの有無によりわけた肋骨中Pbのプロット。●は男性 ●は男性、○は女性、☆、★はガン切除者。 / 図2 ガンの有無によりわけた肋骨中Zn濃度のプロット。図中のマークは図1と同じ。 / 図3 脳血管疾患の有無によりわけた肋骨中Ba濃度のプロット。●は男性、○は女性。 / 図4 骨疾患の有無によりわけた肋骨中Sr濃度プロット。図中のマークは図3と同じ。
[結論]

 本研究で用いた3つの分析法で、日本人肋骨中に11元素(Na、Mg、P、K、Ca、Fe、Zn、Sr、Sn、Ba、Pb)が定量できた。肋骨中主要元素(Ca、P、Na、Mg)濃度の変動には性、年齢といった生理学的要因が関与していることが判明した。対象者をガン、脳血管疾患、骨疾患といった疾患の有無により2群に分けると、両群間で肋骨中のPb、Zn、Ba、Srレベルに偏りが見いだされた。

審査要旨

 本研究は、現代日本人肋骨の微量元素を多元素同時分析手法を用いて測定し、各種微量元素濃度の性、年齢による生理学的変動およびガン、脳血管疾患、骨疾患による変動について検討したものであり、以下の結果がえられている。

 1.本研究で用いた、新しい分析法であるICP-MSは、確度、精度の点で信頼性のあるものであることが判明している。また非常に高感度であり、検出下限として骨中濃度で0.005〜0.1g/gがえられている。

 2.ICP-MS、ICP-AES、AASの3つの分析法により、肋骨中のNa、Mg、P、K、Ca、Fe、Zn、Sr、Sn、Ba、Pbが定量可能であった。そのほかICP-MSにより、18元素の存在が検出できている。Ca、P以外の微量元素(56元素)は合計しても総重量の0.8%程度であり、骨のミネラルはかなり純粋なリン酸カルシウムであることが判明している。

 3.これまでの報告、筆者の前報、および本研究から、アルカリ土類、Pb、Zn、Snが骨における生物学的半減期の長い元素と考えられ、これらの元素の長期にわたる曝露/摂取を評価するために、骨は有用な試料となると考えることが可能であるとしている。

 4.成人においては、骨のCa濃度は年齢によらずほぼ一定レベルであったが、P濃度は20〜39歳で最高値をとった後、年齢とともに減少している。その結果、Ca/Pモル比は年齢とともに上昇している(0〜19歳で1.44、80歳以上でl.59)。骨のミネラルにしめるハイドロキシアパタイト(Ca/Pモル比:1.67)の割合が年齢とともに増加するためであるとしている。

 5.肋骨のNa濃度は0〜19歳で低値、その後上昇した後、ほぼ一定のレベルになり、高齢者で男性の方が女性より高い値を示している。Mgに関しては、Naとまったく逆のパターンを示している。これはNaとMgとの間になんらかの相互作用があることを示唆するものであると考えているが、そのメカニズム、もつ意味は不明であるとしている。

 6.ガンの有無を判別するのに有意な寄与をする元素に、PbとZnが選択されている。どちらも「有」群で高い値を示した(Pb:p<0.001、Zn:p<0.05、Wilcoxonの順位和検定)。Pbの選択は対象者の群分けの基準を変えたり、Pb濃度の代わりにPb/Caを変数としたときには選択されないなど、不安定な傾向があり、今後の再検討を要すると考えられる。Znは各種ガン患者において、代謝(体内分布、排泄など)が変化することが知られており、本研究結果もそれによるものと考えることが可能であるとしている。

 7.脳血管疾患の有無の判別にはBaが選択されている。肋骨中Baレベルは、「有」群で有意に高かった(p<0.05、Wilcoxonの順位和検定)。これまでの動物実験、疫学研究で、Ba曝露と脈管系の疾患との関連を示すものがあるが、本研究は生体試料の分析からこの関連を示唆したものである。

 8.骨疾患の有無の判別にはSrが選択された。肋骨中Srレベルは「有」群で有意に高かった(p<0.05、Wilcoxonの順位和検定)。飲料水中あるいは歯のSr含量とう歯の罹患率とが負の関連をもつという報告、さらに馬の骨のSr含量と破壊荷重との間に正の関連があることが報告されている。本研究結果はこれらの知見と整合性をもっており、骨や歯の健康にSrがなんらかの役割を果たしている可能性が示唆されている。今後、骨密度と骨のSr含量、そして骨粗鬆症との関連を調べていく必要がある。

 以上、肋骨に含有される各種微量元素のレベルおよびその変動といった、これまでに報告のほとんどなかった事項について詳細に検討し、また本研究の結果は人骨を用いた生物学的モニタリングの可能性を示唆するものである。したがって学位の授与に値するものと考えられる。

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