最近の理論的手法の発展とスーパーコンピュータの計算速度の飛躍的な進歩によって、実験で得られたデータを一切用いることなく純粋に理論的に、電子の量子力学的振舞から材料の物性、諸性質を予測することができるようになってきた。一方、最近の情報処理関係技術の発達はめざましく、オフィスコンピュータやパーソナルコンピュータも急速に普及しつつある。それに伴い、大容量・高密度の外部記録媒体の開発が急務となっている。そのニーズに応えるものとして、現在最も盛んに研究・開発が進められているのがレーザー光を用いた光磁気メモリである。 Pt/Coなどの金属人工格子は(1)垂直磁気異方性を示すこと、(2)短波長の光に対してのカー回転角が大きくブルーレーザによる記録密度の向上に適していること、(3)希土類を用いていないために腐食に強い、などの理由から次世代の光磁気メモリ材料として期待されている。 本研究は、第一の性質に主題を絞り、金属人工格子の垂直磁気異方性の物理的起源を電子構造に遡って解明し、より大きな垂直磁気異方性を示す金属人工格子の設計指針を確立することを目的としたものである。 金属人工格子の電子構造は、LMTO-ASA(Linear Muffin-Tin Orbital-Atomic Sphere Approximation)法を用いて第一原理的に求め、スピン方向による全エネルギーの差(磁気異方性エネルギー)を計算した。 まずはじめに、実験において最も盛んに研究が行われているCo系人工格子について計算を行い、実験と比較することにより、現在の計算技術のレベルで磁気異方性エネルギーのような微小量でも計算可能であることを示した。次にこれと関連して、Fe系人工格子の計算を行いCo系の結果と比較することで、垂直磁気異方性に対する界面の電子状態の寄与について議論した。最後に、垂直磁気異方性に対する表面磁気異方性とひずみの効果を調べる目的でCol原子層の単層膜とバルクのCoについての計算を行い、ここで従来の現象論との比較を行うとともに、垂直磁気異方性が発現するために必要な条件についての考察を行った。主な成果は以下のとおりである。 1.Co系人工格子 計算に用いた構造モデルを図1に示す。各原子面はfcc構造の(111)面と同じで最密構造となっている。磁気異方性エネルギーの値は全エネルギーに対して非常に小さく、計算の精度に関しては注意を要する。計算の精度を良くするためにはブリルアンゾーン内においてできるだけ多くのk点で固有値を計算する必要がある。実際に、Pd/Co人工格子の磁気異方性エネルギーを計算する際には、E=-8.9463401Ry-(-8.9464275Ry)=0.0000874Ryという計算をしなければならない。得られた差は固有値の和の10-5程度に過ぎない。k点数を変化させて計算を行ったところ、ブリルアンゾーン全体で9600個のk点をとれば、0.1meVの精度が得られることがわかった。Pd/CoやPt/Co人工格子の磁気異方性エネルギーの値は1meVのオーダーであるので、これだけの精度があれば、これらの人工格子が垂直の磁気異方性を示すことを予言して差し支えないといえる。 図1:計算に用いた金属人工格子の構造モデル。 計算の結果、Pd(2ML)/Co(1ML)、Pt(2ML)/Co(1ML)、Cu(2ML)/Co(1ML)、Ag(2ML)/Co(1ML)、Au(2ML)/Co(1ML)人工格子の磁気異方性エネルギーはそれぞれ1.10,1.84,-0.01,-0.11,1.11meV/unitcellとなった。磁気異方性エネルギーの値は正のときに垂直の磁気異方性を示す。Pd/Co、Pt/Co、Au/Coは実験においても垂直磁気異方性を示す代表的な系として知られているが、計算結果も実際に正となっており垂直の磁気異方性を予測する計算結果となった。一方、Cu/Co、Ag/Coでは磁気異方性エネルギーの値が負となり面内の磁気異方性を示す。Ag/Coは実験においても、面内の磁気異方性を示すことが知られており、今回の計算結果と一致する。 磁気異方性エネルギーの価電子数依存性を調べてみると、いずれの系においても磁気異方性エネルギーが正になる価電子数と負になる価電子数があり、垂直磁気異方性に寄与する電子状態と、面内の磁気異方性に寄与する電子状態が混在する。注目されることは、いずれの系においてもEにフェルミレベルの付近、価電子数が29から30の付近をピークとするような極大が存在することである(図2)。 2.Fe系人工格子 計算の結果、Pd(2ML)/Fe(1ML)、Pt(2ML)/Fe(1ML)、Ag(2ML)/Co(1ML)、Au(2ML)/Co(1ML)の磁気異方性エネルギーはそれぞれ0.43,-0.03,0,57,1.025meV/unit cellとなった。 Co系の結果と比較すると、Pd/Feの異方性エネルギーはPd/Coのそれよりも減少した。同様に、Pt/Feの異方性エネルギーもPt/Coのそれよりも減少したが、Ag/Feの場合にはAg/Coのそれよりも増加した。つまり、Pd、Pt系ではCo層をFe層で置換することにより磁気異方性エネルギーが減少するが、逆にAg系の場合には増加する。 実際に、Fe系について磁気異方性エネルギーの価電子数依存性を計算すると、Co系と曲線の形が非常に類似しており、価電子数29から30の付近にピークをもつような極大か存在する(図3)。つまり、Fe系の磁気異方性エネルギーの価電子数依存性は、リジッドバンドモデルに基づいてCo系のそれから類推することができる。これは、Coの原子番号とFeの原子番号が1つしか違わないために、電子構造が類似しているためである。 図表図2:磁気異方性エネルギーの価電子数依存性。 / 図3:Co系、Fe人工格子の磁気異方性エネルギーの価電子数依存性が類似している様子。 今回計算した系に関してはCo系、Fe系を問わずフェルミレベル付近での磁気異方性エネルギーの価電子数依存性は共通して価電子数29から30付近にピークをもつことがわかった。。この様子を図4に模式的に示す。Pd/Co、Pt/Co人工格子はユニットセルあたり価電子数を29個もっているが、Co層をFe層で置換することにより価電子数が1減少し、その結果として磁気異方性エネルギーが減少する。一方、Ag/Co人工格子は31個の価電子をもち面内の磁気異方性を示すが、Co層をFe層で置換し価電子数が1つ減少したことにより、磁気異方性エネルギーが増加し、垂直の磁気異方性を示すようになる。したがって、価電子数をコントロールすることにより、人工格子の磁気異方性を制御できるものと考えられる。磁気異方性エネルギーのこのような挙動に対しては、界面における電子状態の混成が重要な要因であることがわかった。Pd/Co、Pt/Co程度の混成のときに垂直磁気異方性が実現するが、バルクのCoのように混成か大きくても、Ag/Co、Cu/Coのように混成が小さくても垂直磁気異方性は実現しない。 図4:Co系、Fe人工格子の磁気異方性エネルギーの価電子数依存性の模式図。3.人工格子の磁気異方性の歪依存性 表面磁気異方性の垂直磁気異方性に対する効果を調べる目的で、Co層の相手の物質をPd、真空、Coと変化させた3つの系について計算を行った。Co/真空はCol原子層の単層膜に相当し、Pd/Co人工格子のPd原子球を真空の球に置き換えたものである。Co/Coはバルクのfcc Coか歪んだ構造に相当する。この計算では、歪つまりCoの原子間距離の違いが磁気異方性に及ぼす影響を除くために、面内でのCoの原子間距離はすべて同じ値とした。計算の結果、Co単層膜はE=-4.03meV/unitcellとなり非常に大きな面内の磁気異方性を示す結果となった。また、バルクのCoはE=0.13meV/unitcellとなり、垂直磁気異方性を示すものの、Pd/Coの磁気異方性エネルギーと比較すると一桁ほど小さい。このことから、Coの面内方向での原子間距離が同じであっても、界面で接している物質の違いによって磁気異方性は大きく異なることがわかった。 磁気異方性エネルギーの歪依存性を調べる目的で、以上の3つの系の原子間距離を変化させて計算を行った(図5)。Pd/Co人工格子の磁気異方性エネルギーは、Coの面内方向での原子間距離が大きくなるにしたがって増加する。逆に、Co単層膜の場合は磁気異方性エネルギーが減少し、面内の異方性がますます大きくなる。このことは、人工格子の磁気異方性の歪依存性を単にCo層内に導入された歪だけで議論することはできず、Co層がどのような物質と接しているのかを考慮に入れなければいけないことを示している。これらの2つの系に比べて、バルクのCoの磁気異方性エネルギーの歪依存性は非常に小さい。いくつかの、実験的な報告によるとPd/Co人工格子の磁気異方性の歪依存性は大きく、磁気異方性の原因であると指摘されている。今回の計算結果もこれを支持するものであるが、バルクのCoの磁気異方性の歪依存性が小さいことから、歪に誘導された磁気異方性に寄与するのは界面付近のCo原子であることが推測される。 図5:磁気異方性エネルギーの歪依存性。 本研究の結果、垂直磁気異方性の起源は磁性層内のひずみと異種金属間の電子状態の混成にあることが明らかになった。例えば、Pt、Pd、AuなどのようにCo層と混成軌道を作るような物質でPt/Co、Pd/Co、Au/Coなどの人工格子を作製し、面内の原子間距離を広げることが大きな垂直磁気異方性を得るための指針となろう。つまり、Au/Pt/Co/PtなどはAuがptをひずませ、結果としてCo層をひずませるので1つの選択であると考えられる。この他に合金の多層膜も考えられよう。 |