内容要旨 | | (1)研究の背景 船の安全性は広義の設計と運用の両輪で確保されており,長い良き伝統を保ってきた.船主は自主的な点検を行ない,定期的に船級協会の検査を受け,必要な整備を行なって,必要な一定水準の安全を確保してきた.その点検,検査時の安全性判定は優れた検査員の技術,見識に依存し,大きな問題とならなかった.本論文では,以下,自主的な点検と制度上の検査の両者を「診断」と呼ぶ. しかし近年,多数の国の参入による海事産業の国際競争の激化を背景として,就航船の安全水準のばらつきが顕在化してきている.その例として,サブスタンダード船(老朽化した手入れの不十分な船,以下SS船という)の大事故が続いたことがあげられる.SS船の出現は,就航船の運用,整備の手抜きの問題とともに,船籍国,検査機関,検査員の安全性判定のばらつきの問題でもある. それにより,船体構造の安全性は国際的に同等であるとする常識が,崩れた事態であり,SS船排除の社会的要請は高まってきている. 一方,船体構造に関して,環境保全,乗員の安全,延命のニーズなど安全運航に対する社会的要請は強くなってきており,安全性判定の質的向上が求められている.しかし,現在,船体構造の安全性判定は,主に船級協会の定期検査制度の中で行われているが,不十分であると考えられている. その枠組みでの改善として,検査の強化が図られつつある.また各国が入港時に船体構造を検査する動きも出てきている. そのような国際的制度改革の動向に対し,船体構造の安全性判定の基準や,それを支える工学的知見は満足できる状況にないと思う.元来,船体構造の安全性判定は,就航船すべてに共通のものであり,良好な船の延命の判定と,SS船の排除のための判定が別のものではない. しかし,安全性判定の基礎となる「船体構造診断」は,個船毎の対応に止まっていて,個々の診断結果が他船の診断に生かされていない現状である.わずかに各船級協会,各船主が,個別に損傷情報をもっていて個別に利用している程度である. 元来,船体構造診断は診断者(船籍国,検査機関,検査員)個人への依存度が高く,優れた検査員の技術,見識に依存し,大きな問題とならなかった.長い良き伝統を保ってきた時期は過ぎ,診断者個人への依存度を少なくした「船体構造診断」が求められる時代に来ていると考える. さらに,この技術的背景には,「船体構造診断」および整備において,強度理論と就航船の実績(設計,運航,整備,損傷を含む)が,うまくかみ合ってない状況がある.例えば航空機と比べると,設計と整備の結びつきがきわめて弱く,その改善が,設計・整備の両側で必要であろう. そのような背景と認識から,今後,安全運航の社会的要請に答え,「安全性判定」および「船体構造診断」の再構築が行われるべきと考える. そのためには,第一に,多くの就航船の診断に基づく実績が,集められ解析され,診断時に利用し易い形にした「安全性判定データベース」の構築が望まれる.それは,今後の公正で明確な安全性判定手法/基準のための,基幹的データベースであるべきである. 第二に,上記実績の「安全性判定データベース」への取り入れのために,設計,強度の知見を活用した「船体構造診断」手法の強化が必要である.とくに,精密な船体構造診断の実施を奨励,増加させ,より活用範囲の広い実績データを得るよう指向すべきと考える.今日,その点から精密診断手法の概念・内容が,十分議論されるべき時期である. 以上の視点から,本論文では,必要な「船体構造診断」の基本概念,および実施上の基本原則を論考し,提案した.さらに,実際の船体構造診断においての具体的な考え方,いくつかの新しい解析手法を研究し,VLCCの局部部材の疲労損傷の精密診断を実施し,船体構造の安全性とその診断に関し多くの知見を得て,本論文にまとめた.その主な点を以下に記す. (2)「船体構造診断」の概念 今後の「船体構造診断」は,設計と整備の結びつきを強めたものでなければならない.その診断結果は,合理的な整備に役立ち,また新造船設計へフィードバックされ,すべての新造船・就航船の安全確保に寄与するものである. 「船体構造診断」の目的は,第一に個船の安全性判定であり,その余寿命推定につながるものである.第二に公共的「安全性判定データベース」への診断結果の提供である.また診断時,「安全性判定データベース」を活用することが,第一の目的の経済的技術的価値を,高めるものである. 悪い船は悪いとして,診断される公正さが基本である.また,「船体構造診断」は,個人への依存度が出来るだけ少ない,明確さを重視しなければならない.そして「船体構造診断」は良い船の運航を,阻害するものであってはならない.また精密診断を行なった船は,余寿命推定がより確実になるので,将来制度上,運航経済面で優遇されることが期待される. 「船体構造診断」は検査点検だけでない.その結果を分析解析し,さらに技術的考察を加え,対象船の安全性判定を行い,さらに今後の安全性判定のために,診断結果を提供する,一部またはすべてのプロセスである. 「船体構造診断」は,診断結果の情報の質から,精密診断(密),定期診断(中),入港時診断(粗)および臨時診断(粗ないし密)に分けられる.なお,精密診断,入港時診断は制度上何もなく,わずかに個別に試みられている現状である. 本論文では,さらに精密診断について具体的に研究し,その内容の要点を以下に述べる.なお,入港時診断については,全く新しい取組が必要であり,その糸口として主要点検項目の提案と技術課題の摘出を行った. (3)精密診断実施の基本原則 精密診断の実施の頻度は少なくても,その診断結果の汎用性は高い.その実施上の考え方は統一されているべきである.本論文では,大損傷は除き,種類,頻度の多い疲労損傷を主対象とし,その実施時の基本原則を提案した.定期診断,臨時診断においても,この原則の考え方は,応用可能である.著者が特に強調する要点を以下に述べる. 1)検査点検においては,現状のような損傷調査だけでは不具合である.無損傷個所の調査およびその特徴の分析を重視すべきである. 2)荷重解析においては,損傷個所だけを考えて,解析対象荷重成分を選んではならない.無損傷個所も評価する前提で、広く複合荷重成分を選び、その位相差を考慮してその組み合わせを求める. 3)疲労強度評価で用いられる表現応力(Reference Stress)の算定手法(FEMの要素選択,算定位置など)には,信頼出来る一般的な定義はない.公称応力では,診断結果の汎用性は期待できない.いわゆるHot Spot Stress法により診断を行うべきである.そして疲労試験データと実船の作用応力の算定手法は一致させる. 4)疲労強度に関しては,疲労強度を支配する多くの因子(腐食環境,平均応力,荷重の不規則性,材料特性など)を考慮する.損傷の有無の傾向とそれらの因子の関係を注意し調査する.また定量的影響が不明な因子についても記録に残す. 5)構造安全性判定においては,線形被害則の機械的適用は避け,それを参考にして,損傷の有無の傾向を重視し,前記2)3)による作用応力を指標として線引きを行う. (4)精密診断実施手法 さらに精密診断実施手法として,下記手法の採用を提案する. 1)疲労試験片および実船構造の応力解析の整合性を重視したホットスポット応力5法. 近傍の応力から外挿してホットスポット応力を求める従来の方法(SR202法)では,荷重形式の単純な疲労試験片では良くても,複雑な荷重を受ける実船の複雑な構造では,合わないことがある.ホットスポット応力5は,ソリッド要素によるFEM解析で止端部から5mm位置の表面応力とする直接的定義である. この方法は,複数の対象構造,複数の荷重負荷形式,さらに溶接部の設計代表寸法が反映できる点で,部材位置が異なっても公正な安全性評価を可能とし,より実用的であることが確認できた. 2)複合荷重下の合成局部応力を求める離散化解析法(DISAM法) 従来,位相関係などが異なる複数の荷重成分(例えば,船体波浪曲げモーメントと船則波浪変動圧)から,合成応力を解析するのは困難であった. 各荷重成分の量,周波数特性,位相関係が応力解析においても反映されよう離散化解析法(DIScrete Analysis Method,DISAM法)を,局部部材疲労強度評価へ適用し,部材の位置による強度評価に偏りのない局部応力解析の実施を提案する.局部応力の算定モデルはホットスポット応力5法とする. とくに水面付近の波浪変動圧の非線型現象(波浪により没水,空中露出を繰り返す)については,次の2点の近似手法を用いる. 1)水面付近では,没水時はストリップ法による圧力値,空中露出時は圧力=0として水面付近の波浪変動圧の特徴を表現する. 2)水面付近では,波高を3段階程度(例えば2m,5m,10m)に分け,荷重応力解析を行ない,他波高の場合は,内挿または外挿する. 以上の手法による,VLCCの診断で得られた合成作用局部応力は,満載吃水線付近に集中した損傷個所と,無損傷個所の差を,良く説明する指標になっていることが確認できた. この方法は,複数の荷重間の組み合わせ法が不明で,亀裂発生個所にかかる曲げ応力/軸応力の比率が異なる多数の類似個所を,同時かつ公正に評価する場合にとくに有用であり,汎用性も高い. (5)精密診断実施例から得られた主な知見 本論文では,VLCCのサイドロンジ(船側縦通肋骨)に発見された疲労損傷の精密診断をとりあげた.この実施例は,VLCC9隻の点検の結果,損傷個所は少ないが,類似の構造個所が極めて多く,損傷の分布傾向はいくつかの明かな特徴をもっていて,従来の知見だけでは解明できない多様な側面をもつ,難しい精密診断例である. また対象の局部構造は,船体構造の部材結合部として一般的な,隅肉溶接継手の止端部であり,その精密診断結果も,今後の設計および整備に,有益なものであると考える.以下に得られた主な知見を述べる. 1)疲労強度を考慮したロンジの断面形状の選択. 従来,ロンジの断面形状の違いは,ロンジ寸法(断面係数)決定に反映されていなかった.多く用いられている非対称断面(L2型)と,対称断面(T型)の,水圧負荷時の曲げねじり効果による強度差を,局部応力5での差として明かにした.今後は水圧が負荷される骨部材で疲労が問題の時は,出来るだけ対称断面(T型)を採用すべきと考える. 2)サワー原油中での造船材の疲労特性 サワー原油(SOUR CRUDE:硫化水素を含んだ原油)中で,造船材(50kgクラスの高張力鋼(TMCP)および軟鋼)の疲労試験を初めて行ない,高応力下では,亀裂伝播が早く寿命が短くなることを明かにした.その傾向は,試験片の破面観察で,局所の水素脆化現象によることが確認できた. 従来,水素脆化現象は60kgクラス以上の高張力鋼での問題と考えられていたが,硫化水素の存在する腐食環境下などでは,50kgクラス以下の造船材においても,局所の水素脆化現象が起きる可能性があることを明らかにした. 3)圧縮平均応力下の隅肉溶接止端部の疲労特性 従来,圧縮の平均応力下(R=-∞)での,造船材の隅肉溶接止端部の疲労試験データはなかった.ここでは引張り平均応力下(R=0)と同一試験片で,圧縮の平均応力下(R=-∞)での隅肉溶接止端部の疲労試験を行い,局部応力5ベースのS-N線図で,平均応力影響を確認できた. (Rは応力比:min./max.) 圧縮の平均応力下では,亀裂伝播に停留傾向が現われ,疲労寿命が大幅に延びる.一般に,船体構造では,貨物タンクとバラストタンクのように,同一構造でも平均応力の符号が変わる類似区画はよくあり,上記データは,その診断時に広く活用することができる. 4)50kgクラスの高張力鋼(TMCP)の疲労特性 損傷材の形態/材質調査のサンプリング材精査の結果,実船に使われている50kgクラスの高張力鋼(TMCP)の材料強度/疲労強度上の問題はとくになかった.隅肉溶接止端部の疲労試験では,高張力鋼の疲労強度は,軟鋼のそれを平均値で上回るが,ばらつきを考慮すると,ほぼ同等とするのが妥当であることが確認できた. 結び 今後の船の安全運航をより確実にするためには,設計強度の知見を活用した船体構造診断の手法強化が必要であるとの認識が,本論文の出発点である.その視点から,今後の船体構造診断の概念および実施上の原則,および有益な診断手法を提案した. そして,VLCC船体構造の疲労損傷の精密な診断にそれを適用し,提案手法の実用性を明らかにするとともに,いくつかの新しい知見を得た.得られた手法・知見は,対象船の対策に止どまらず,一部は船級協会規定に反映されつつある.さらに,本論文は,今後の船体構造の安全向上のために,設計・診断および関連する研究分野の進むべき方向を,明らかにした. |