学位論文要旨



No 212123
著者(漢字) 松戸,隆直
著者(英字)
著者(カナ) マツド,タカナオ
標題(和) 醤油の安全性に関する有機分析化学的研究
標題(洋)
報告番号 212123
報告番号 乙12123
学位授与日 1995.02.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12123号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,謙治
 東京大学 教授 荒井,綜一
 東京大学 教授 児玉,徹
 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 北原,武
内容要旨

 醤油の安全性についてはこれまでも検討されてきたが、近年の食品衛生学の進展により新たな問題が提起された。一つは発癌性を有する微量含有物であるカルバミン酸エチル[1]であり、もう一つは麹菌の生産する可能性のありその内で最も毒性の強いかび毒であるシクロピアゾン酸[2]である(図1)。

図1

 カルバミン酸エチルはアルコール性飲料や発酵食品に広くその存在が知られており、その極微量が醤油中にも含有されることがすでに報告されている。そこで、まずその調査と今後の研究のため正確な分析が必要であり、第1章においてその醤油中の微量分析法の確立について述べる。さらに、醤油におけるカルバミン酸エチルの生成機構が未解明であったので、第2章にてその発酵食品成分としては新規な生成機構について述べる。また、将来的な醤油中のカルバミン酸エチル管理にはその前駆体のシトルリンの分析が欠かせないと考えられたので、第3章にて醤油中のシトルリン分析法について述べる。

 シクロピアゾン酸は麹菌類の一種であるAspergillus oryzaeより生産の報告が知られており、発酵食品製造においては、必ずシクロピアゾン酸非生産性株を使わねばならないものとされている。そこで、第4章にて菌株のシクロピアゾン酸の生産性検討法について述べる。

第1章

 醤油中においては、微量化合物であるカルバミン酸エチルの醤油中の信頼できる分析法が確立されていなかった。そこで、ガスクロマトグラフィー質量分析計を用いた方法を確立した。まず醤油15gをセライト545 15gに混合し、これをアルミナ10g、芒硝40gを積層したカラム管に充填し、ジクロロメタン100mlにて溶出した。これを濃縮後、内部標準物質としてN-メチルカルバミン酸エチルを加え、ガスクロマトグラフィー質量分析計に導入した。定量のためには、m/z62(カルバミン酸エチル用),75(内部標準用)のSIMを用いた。

 30ppbの添加回収率は93.5%と良好であり、17.7ppbのカルバミン酸エチルを含む醤油の10回繰り返し分析の再現性は変動係数(標準偏差/平均値)として2.0%であった。検出限界は醤油中濃度に換算して0.5ppbであり、分析法として良好であると評価できた。

 この方法により、市販醤油26種を分析調査した結果、国内市場由来の2種が20ppbを越える値であり、極一部の醤油のみの問題であると考えられた。

第2章

 醤油製造において高カルバミン酸エチルのものが製造される可能性が示唆されたので、低減化を図るためカルバミン酸エチルの醤油中の生成機構を検討した。まず、他の発酵飲料と同様にエタノールとの加熱時に生成している可能性が考えられたので、火入れ前の生醤油を80℃にてカルバミン酸エチル生成量の経時変化を検討したところ、図2に示すよう加熱時間に従い直線的に増加した。このことにより、ほとんどのカルバミン酸エチルは醤油火入れ時になんらかの前駆体の加エタノール分解により生成することを証明した。ついで、生醤油中のカルバミン酸エチル前駆体を検索した結果、図3に示すようにシトルリン量と80℃、16hの加熱後のカルバミン酸エチル量をエタノール量で除した値の間に相関が認められたことから、生醤油中の前駆体は他の発酵飲料とは異なり主にシトルリンで説明できることを明らかとした。また、通常の本醸造醤油ではシトルリンはほとんど検出されないレベルであることが知られていたので、可能な成因を検討した結果、乳酸量の少ない生醤油に加熱後生成カルバミン酸エチル量が多いことから、このシトルリン生成の原因が乳酸菌発酵の異常にあることを推定するに至った。つまり、乳酸菌の一部が有するアルギニンディミナーゼ経路が何らかの事情で中断されると、アルギニンより変換されたシトルリンが生醤油中蓄積し、これが高いレベルのカルバミン酸エチルとなる可能性を明らかにした。

図表図2 生醤油を80℃にて加熱したときのカルバミン酸エチル生成量 / 図3 生醤油中のシトルリン量とそれを80℃、16時間加熱した後のカルバミン酸エチル量とエタノール量の比の相関
第3章

 先に明らかにされた前駆体シトルリンを指標とすれば適格な発酵管理が可能となると考えられたので、発酵管理に応用可能な分析法を検討した。従来法ではアミノ酸分析計による方法と比色法のみであったので、HPLCポストカラム反応法の応用を試みた。

 分離条件は分析時間短縮のため、グラディエントを行わない一定移動層送液モードで分析可能なODSイオンペア法を検討した。その結果、イオンペア試薬としてドデシル硫酸ナトリウム(SDS)を用いる5mM-SDSを含む20%-アセトニトリル(pH3.5)を移動相とすることにより、短時間での分離が最適と判断された。

 また、ポストカラム反応にはジアセチルモノオキシムとアンチピリンの酸性条件下の呈色反応を採用し、ウレイド基選択性反応を指向した。HPLCシステムを図4のように組み立て、ポストカラム反応の条件最適化の結果、シトルリンに相対したピークが観察されたのみならず、醤油中には含量が少ないもののカルバミン酸エチル前駆体になり得る尿素も同時定量が可能であることが明らかとなった。

図4 シトルリン分析用HPLCフローダイヤグラム

 分析法は、醤油250lを50mlメスフラスコに採取し、精製水にて希釈し、この5lを確立したHPLCに導入するのみである。100ppmの添加回収率は、シトルリン108.4%、尿素98.3%であり、そのときの10回測定の変動係数はシトルリン2.39%、尿素4.48%であり、分析法として良好の値を示した。清酒やワイン中の尿素についても分析が可能であり、この場合はHPLC導入前に100倍の希釈を行うこととした。このときの回収率、再現性とも良好であり、清酒やワインについても良好な分析法であることが示された。図5に醤油と清酒を分析したクロマトグラムを示す。

 市販醤油を分析した結果、推測できるカルバミン酸エチル量として食品衛生学的に特に問題となるような値のものは無かった。

第4章

 シクロピアゾン酸について検討した。醤油中に混入する可能性は麹菌自体が生産する場合であり、麹菌のシクロピアゾン酸生産性の確認が必要とされる。液体培養液をそのままHPLCにて分析する方法を検討したところ、カラムにTSKgel ODS80TMを用い、移動相に5mM-ZnSO4を含む50mM-リン酸-アセトニトリル(55:45)にてシクロピアゾン酸に相対するピークが観察できた。さらに定量精度とピーク同定の向上を図るため、内部標準物質を選定した結果インドメタシンが最も良好であったので、これを用いた内部標準法とした。分析法は、培養液1mlを採取し、これに1500ppm-インドメタシンのエタノール溶液20lを添加混合し、その10lをHPLCへ導入することとした。培養液のクロマトグラムを図6に示す。10ppm標準を用いた15回の繰り返し分析では変動係数3.09%であり、また最小検出限界は0.3ngと判断された。これらのことより、この方法はシクロピアゾン酸の信頼できる分析法であると考えられた。同時に、確認法としてクリーンアップの不要な二段逆方向展開TLC法も併せて確立した。

図表図5 醤油(A)および清酒(B)中のシトルリン、尿素分析におけるクロマトグラム / 図6 菌培養液中のシクロピアゾン酸分析におけるクロマトグラム

 大桃らの培地にて静置培養したシクロピアゾン酸生産の経時変化を検討したところ、3-5週間で最大となったので、シクロピアゾン酸生産性の検討には4週間培養で行うこととした。また、麩麹についてもクリーンアップなしての分析が可能であったので、経時変化を検討したところ3日から2週間の間で最大であったので、1週間の麩麹で生産性検討をすることとした。さらに、菌株の液体培養の結果と麩麹での結果は生産の有無に関しては同様であることも明らかになった。実際に醸造に使用している麹菌について生産性を確認したところ、生産性は無く、醤油製造に関するシクロピアゾン酸の問題は全くないものと考えられた。

 以上、醤油の食品衛生学的安全性に関する二化合物、カルバミン酸エチルおよびシクロピアゾン酸について研究した。その結果、それらが現状では問題でないことを明らかとし、またそれらの管理方法を確立して将来的にも問題とならないような方法を、有機分析化学を応用して提起することができた。

審査要旨

 本論文は,醤油の安全性に関係する二化合物に関するもので,4章よりなる。近年の食品衛生学の発展により,醤油の安全性に新たな問題が提起された。一つは発癌性を有する微量含有物であるカルバミン酸エチル〔1〕であり,もう一つは麹菌の生産する可能性があり,のうちで最も毒性の強いかび毒であるシクロピアゾン酸〔2〕である。これらの化学構造を下図に示す。著者はこれら二化合物の含有量の精密な分析法を確立し,それを実際に利用して醸造醤油の安全性を明確にし,さらには今後の管理方法を提起することを目的として以下の研究を行った。

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 緒論において研究の背景と意義について概説した後,第1章においては,微量含有化合物であるカルバミン酸エチルの醤油中の新規な分析法について述べている。検討により,固相抽出法とガスクロマトグラフィー質量分析計でのSIM(Selected Ion Monitoring)を用い,N-メチルカルバミン酸エチルでの内部標準法で定量する方法を確立した。評価の結果,検出限界,回収率,再現性とも分析法として満足のいく方法と考えられた。その方法により,市販醤油26種類を分析した結果,ほとんどのものが20ppbを越えない値であることを示し,ごく一部分の問題であることを明らかにした。

 そこで,第2章において,カルバミン酸エチルの低減化を図るためカルバミン酸エチルの醤油中の生成機構について述べている。まず,他の発酵飲料と同様にエタノールとの加熱時に生成している可能性が考えられたので,検討の結果ほとんどのカルバミン酸エチルは醤油火入れ時に生成することを証明した。ついで,生醤油中のカルバミン酸エチル前駆体を検索した結果,他の発酵飲料とは異なり主にシトルリンで説明できることを明らかにした。さらに検討の結果,このシトルリン生成の原因が乳酸菌発酵の異常にあることを推定するに至った。

 第3章では,先に明らかにされた前駆体シトルリンを指標とすれば適確な発酵管理が可能となることから,HPLCポストカラム反応法を用いた発酵管理に応用可能な分析法の確立について述べている。すなわち,分離にODSイオンペア法を採用して短時間化を図り,またジアセチルモノオキシムとアンチピリンの酸性条件下の呈色反応を採用してウレイド基選択性としたシステムである。これによりシトルリンのみならず,尿素も同時定量が可能となり,また清酒やワインについても定量が可能であった。市販醤油を分析した結果,推測できるカルバミン酸エチル量として食品衛生学的に問題となるような高含量のものが無いことを明らかにした。

 第4章では,シクロピアゾン酸について述べている。醤油中に混入する可能性は麹菌自体が生産する場合であり,麹菌のシクロピアゾン酸生産性の検討が必要とされるので,液体培養液をそのままHPLCにて分析する方法の確立に成功した。また確認方法としてクリーンアップの不要な二段逆方向展開TLC法をも確立している。それらの方法にてシクロピアゾン酸生産能の検討が可能であり,またふすま麹についてもクリーンアップ無しで分析が可能であることを明らかにした。また,液体培養の結果とふすま麹での結果は生産の有無に関しては同様であることも明らかにしている。さらに,実際に醸造に使用している麹菌について生産性を確認し,生産性がないことを証明した。

 以上本論文は,醤油の食品衛生学的安全性に関する二化合物,カルバミン酸エチルおよびシクロピアゾン酸について,それらの微量分析法を確立してそれらが現状では問題でないことを示し,またそれらの管理方法を確立して将来とも問題とならないようにしたものであって,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判定した。

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