学位論文要旨



No 212133
著者(漢字) 岡本,正則
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,マサノリ
標題(和) カニクイザルの雄性生殖細胞に及ぼす放射線の影響
標題(洋)
報告番号 212133
報告番号 乙12133
学位授与日 1995.02.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12133号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 豊田,裕
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 舘,鄰
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 助教授 佐藤,英明
内容要旨

 人体に対する放射線の影響の中で、生殖細胞の変化に基づく遺伝的影響は身体的影響と並んで重要である。ヒトへの放射線の遺伝的影響を推定するために、従来は主にマウスの実験結果を基礎に評価しているが、ヒトに外挿するに当たっては、ヒトに近縁なサル類を用いた実験的研究を行なうことが重要な知見を提供すると考えられる。これまで放射線の影響の研究にサル類で主に用いられてきたアカゲザルはヒトと異なり繁殖機能に季節性を有しており、生殖細胞への影響を検討することが困難である。一方、アカゲザルと同じマカカ属に属するカニクイザルは周年繁殖動物であることから生殖生理学的にヒトの実験モデルとして有用と考えられる。しかし、カニクイザルを用いた放射線障害に関する研究は少なく、特に生殖細胞への影響に着目した研究はほとんど成されていない。

 以上の観点から、本研究では先ず基礎実験として、精巣照射後のゴールデンハムスターを用いて精子数、精子の運動性、精子の受精能に及ぼす放射線の影響性を検討した。次に、カニクイザルを用いた線高線量率の精巣局部急照射及び低線量率の全身緩照射実験を行なった。そして照射後経時的に精液を採取して精液性状、特に精子濃度及び奇形精子を検査し、これらの成績を指標に雄性生殖細胞の放射線障害とその後の回復を検討した。更に、放射線により誘発される相互転座型の染色体異常について線量効果及び線量率の影響を調べ精液性状への影響と比較検討した。

1.ゴールデンハムスターによる基礎実験

 精巣局部にX線を急照射(0.47〜0.48Gy/分)し、1〜21週後に精巣上体尾部より精子を採取して精子数、精子運動性及び3、6、9週後に体外受精率を検討した。2Gy照射後の精子数の経時的変動は照射後第6週に顕著な低下を認め、その後第9週に対照レベルまで回復した。照射後第6週における精子数と線量との関係は0.25Gy区では対照区との間に有意差が見られなかったが、0.5〜3Gyでは精子数の対数値は線量に対して直線的に低下した。X線照射後の体外受精率は第3週では対照区と有意差のない値であったが、第6週では顕著に低下し、第9週では再び対照区と有意差のない値に回復した。第6週における運動精子の割合は線量の増加に比例して著しく減少し、3Gy以上の線量では最も活発に前進運動を示す精子の割合は対照区の値(80〜90%)と比較して著しく低値(10〜40%)を示した。体外受精成績の線量効果は1Gyより高い線量域では線量の増加に伴って低下し、3Gy以上の線量ではほとんど受精卵は得られなかった。

 以上より、精子の運動性及び受精能に及ぼす放射線の影響は精巣への急照射後一定の期間を経て現れ、その後回復することが示された。また、精子数及び精子運動性は精子の受精能と密接に関係していることが明らかになった。

2.カニクイザルの線照射実験

 1)正常個体についての対照実験:3頭の野生由来(推定年齢5歳以上)及び1頭の室内繁殖(9歳)の成熟雄から電気射精法により精液を2週間ごとに2年間継続して採取し、得られた精子の濃度と頭部に形態異常を示す奇形精子の割合を測定した。その結果、精液性状は1射精当りの精液量、精子濃度の平均値がそれぞれ0.11〜0.16ml、182.68〜360.12×106/mlの範囲であった。精子の運動性は活発な前進運動を示す精子の割合が60〜80%を示した。精液量及び精子濃度が高値を示す個体は精子運動性も高値を示した。奇形精子の割合は0.33〜1.57%であった。

 以上より、年間を通して採取した精液の性状は採取ごとに変動があるものの、電気射精によって同一個体より継続して精液の採取が可能であることが知られた。年間にわたる測定成績から、精液量、精子濃度及び奇形精子のいずれにおいても明瞭な季節的変動は認められなかった。

 2)精巣の局部急照射実験:カニクイザルの精巣局部に0.25〜3Gyの137Cs-線を高線量率(0.25Gy/分)で急照射した。電気射精法により野生由来の成熟雄計18頭から精液を照射前及び照射後に2週間ごとに経時的に採取し、得られた精子の濃度と頭部に形態異常を示す奇形精子の検査を実施した。また染色体検査は精子濃度の測定値が照射前のレベルに達して回復を確認した後に、精母細胞における相互転座型の異常を観察した。その結果、1Gy以上の高線量では精子濃度は照射後低下し、1、2、3Gy区においてそれぞれ第17、12.5、14週で最低値に達した。特に、2及び3Gy照射区では8週後から精子濃度の顕著な低下が見られた。照射前の精子濃度値に対する最低精子濃度値の割合(最低値/照射前の値)は1Gyが1.0%、2Gyが1.6%、3Gyが0.4%に減少した。精子濃度が照射前のレベルに回復した時期は、1Gyが35.5週、2Gyが36.5週、3Gyが41.0週であった。奇形精子率は1及び2Gy区が第8週3Gy区が第6週にそれぞれピークを持つ山型の変動を示した。奇形精子のピークの時期はいずれの線量においても精子濃度の最低値の時期よりも早かった。奇形精子の最大頻度は1Gyが6.4%、2Gyが13.9%、3Gyが14.9%に達した。奇形精子率は1Gyでは16週、2Gyでは18週、3Gyでは22週にそれぞれ照射前のレベルに回復した。奇形精子率の線量効果は2Gy以下で線量に対し直線性を示した。

 照射後の転座型染色体異常の誘発率は0.25、0.50、1、2及び3Gy区においてそれぞれ0.53%、1.07%、1.86%、2.47%及び1.33%と、対照区の自然発生頻度(0.09%)に比較して有意に高くなった。染色体異常の線量効果は2Gyに最大頻度を示す山型の曲線で表され、1Gy以下の低線量域では直線性を示した。1Gy以下の線量域での相互転座誘発率は、1Gy当り1.79%と推定された。

 以上より、放射線の精巣急照射後において、精子濃度の変動は低線量域では顕著ではないが、1〜3Gyの高線量域では線量の増加に伴い精子濃度の減少と奇形精子の増加が顕著であった。精子濃度は線量の増加に伴い照射後の減少が著しく、回復期間も遅延した。精子濃度の減少及び奇形精子の増加は一過性であり、一定の期間を経て精子形成が再開して照射前のレベルに回復することが判明した。奇形精子の回復期間は精子濃度を指標とする期間よりも短かいことが明らかとなった。精子形成期間において放射線に高感受性の時期は、精子濃度が最低値を示した時期から精原細胞期と推定された。また、放射線による奇形精子の誘発において感受性の高い時期は、ピークの時期から推定して精母細胞期から精子細胞期であると考えられた。

 3)全身の緩照射実験:総線量0.3〜1.5Gyの137Cs-線を野生由来の成熟雄計8頭に低線量率(1.8×10-5Gy/分、約0.024Gy/22時間/日)で0.3Gyは3週間、1.0Gyは7週間、1.5Gyは9週間連続照射した。精子濃度及び相互転座型の染色体異常の検査は急照射実験に準じて実施した。精子濃度は0.3Gy区では照射の影響は顕著ではなかったが、1.0及び1.5Gy区では照射終了後においても精子濃度の低下する個体が認められた。照射前の精子濃度値に対する最低精子濃度値の割合は(最低値/照射前の値)1.0Gyが0.5%、1.5Gyが0.2%に減少した。精子濃度を指標とした回復期間は1.0Gyが26週、1.5Gyでは1例は44週であったが、1例は第50週においても未回復であった。染色体異常の誘発率は0.3Gyが0.15%、1.0Gyが0.27%及び1.5Gyが0.33%になった。相互転座の誘発率は1Gy当り0.16%と推定された。

 以上の実験結果によると、低線量率照射時の精子濃度の減少及び回復期間は同線量の高線量率照射に比較して大きな差のないことが示された。すなわち、照射時の線量率の違いによる精子濃度に及ぼす影響は認められないことが示唆された。これに対して低線量率の相互転座の誘発率は1Gy当り0.16%であり、高線量率(1.79%)に比較して誘発率が約1/10に減少し、明瞭な線量率効果が示された。精子濃度と相互転座における線量率効果の有無の違いは、精原細胞に及ぼす放射線の影響が細胞死と相互転座の誘発では異なることを示唆するものである。

 結論として、カニクイザルの精子濃度及び奇形精子に及ぼす放射線の影響は低線量域では明瞭ではないが、1〜3Gyの高線量域では線量の増加に応じて顕著になることが明らかになった。また精子濃度と奇形精子の変動は一過性であり、一定の期間を経て照射前のレベルに回復すること、及び回復に要する期間は奇形精子率の方が短いことが明らかになった。精子濃度に及ぼす線量率効果は明瞭に認められなかったが、染色体異常の誘発率は低線量率では高線量率に対して約1/10に減少することが明らかになった。ヒトで報告されている成績との比較では、カニクイザルはヒトより放射線急照射後の精子濃度の減少が小さく、高線量になるに伴いヒトよりも回復も早いことが分かったが、精子形成に対する障害とその後の回復に至る過程では基本的に同様の傾向を示した。また、カニクイザルの染色体異常の誘発率はアカゲザルで報告されている値よりも有意に高く、よりヒトに近い特性を有することが明らかになった。染色体異常の誘発において放射線感受性に種差が生じた要因の一つは、カニクイザルとアカゲザルの生殖機能における季節性の有無によるものと推察された。以上の結果から、カニクイザルはヒトの放射線の遺伝的障害の推定に有用な実験モデルになり得ると考えられる。

審査要旨

 人体への放射線の影響を推定するためにはヒトに近縁なサル類を用いた実験的研究が重要と考えられるが、従来、主に用いられてきたアカゲザルはヒトと異なり繁殖機能に季節性を有しているために、生殖細胞への影響を検討することが困難であった。本研究は、アカゲザルと同じマカカ属に属するカニクイザルが、周年繁殖動物であり、生殖生理学的にヒトの実験モデルとして有用と考えられるにもかかわらず、放射線の影響に関する知見が乏しい点に着目し、その雄性生殖細胞への放射線の影響を研究したものである。論文は4章から構成され、成果の概要は以下のように要約できる。

 まず、第1章で研究の背景を述べた後に、第2章では、基礎実験として、ゴールデンハムスターを用いて精子数、精子の運動性および精子の受精能に及ぼす放射線の影響性を検討している。精巣局部にX線を急照射(0.47〜0.48Gy/分)し、1〜21週後に精巣上体尾部より精子を採取して検査した結果、精子数は照射後第6週に著しく低下し、その後第9週に対照レベルまで回復すること、照射後第6週における精子数の対数値は0.5〜3Gyの範囲で線量の増加に対して直線的に低下すること、および精子の体外受精率も第6週で顕著に低下するが、第9週には対照区と有意差のない値に回復することを認めた。これらの結果より、放射線の影響は精巣への急照射後一定の期間を経て現れた後に回復し、その過程で精子数と精子の運動性は受精能と密接に関連して変動すると考察している。

 第3章では、カニクイザルを用いた線高線量率の精巣局部急照射実験と低線量率の全身緩照射実験の結果について述べている。まず、4頭の正常成熟雄個体から電気射精法により精液を2週間ごとに2年間継続して採取し、精液量、精子濃度、奇形精子率のいずれにおいても明瞭な季節的変動は示さないことを確認している。

 次いで、精巣の局部急照射実験では、18頭の成熟雄の精巣局部に、0.25〜3Gyの137Cs-線を高線量率(0.25Gy/分)で急照射した後に、精液を経時的に採取して精子の濃度と頭部に形態異常を示す奇形精子を検査し、さらに精子濃度が照射前のレベルに回復したことを確認した後に、精母細胞における相互転座型の染色体異常を観察している。その結果、2Gy以上の高線量では精子濃度は照射後8週から顕著に低下し、照射前の値の1.6%以下にまで減少したが、35-41週に照射前のレベルに回復した。奇形精子率も線量の増加に伴い上昇し3Gy区で14.9%に達したが、最大頻度を示した時期はいずれの線量においても精子濃度の最低値の時期よりも早く、16〜22週には照射前のレベルに回復した。さらに、転座型染色体異常の出現率は0.25Gy区の0.53%から2Gy区における2.47%までほぼ直線的に増加し、相互転座誘発率は、1Gy当り1.79%と推定された。

 全身の緩照射実験では、総線量0.3〜1.5Gyの137Cs-線を8頭の成熟雄に低線量率(1.8×10-5Gy/分、約0.024Gy/22時間/日)で3週間から9週間にわたり連続照射した後に、精子濃度及び相互転座型の染色体異常の検査を急照射実験に準じて実施している。その結果、精子濃度は0.3Gy区では照射の影響は顕著ではなかったが、1.0及び1.5Gy区では照射前の値の0.5%以下に減少し、照射終了後においても低値を続ける個体を認めた。染色体異常の誘発率は1Gy当り0.16%と推定された。

 以上の結果より、放射線の精巣急照射後においては、線量の増加に伴い精子濃度の減少と奇形精子の増加が顕著であるが、その影響は一過性であり、一定の期間を経て精子形成が再開して照射前のレベルに回復すること、および奇形精子の回復期間は精子濃度を指標とする期間よりも短かいことを指摘し、放射線に高感受性の時期は、精子濃度については精原細胞期、奇形精子の誘発については精母細胞期から精子細胞期であると推定している。さらに低線量率照射時の精子濃度の減少は同線量の高線量率照射の場合と大差なく、一方、相互転座の誘発率は低線量率では高線量率の約1/10に減少することを見出し、この線量率効果の違いは生殖細胞に及ぼす放射線障害の機序が細胞死と相互転座誘発では異なることに基づくものと考察している。

 第4章では、これらの成果を総括してヒトで報告されている成績と比較し、カニクイザルはヒトよりも放射線急照射後の精子濃度の減少が小さく、回復が早いこと、染色体異常の誘発率はアカゲザルで報告されている値よりも高く、よりヒトに近い特性を有することを指摘し、カニクイザルがヒトにおける放射線の遺伝的障害の推定に有用な実験モデルになり得ると結論している。

 以上要するに、本論文は、カニクイザルの雄性生殖細胞に及ぼす放射線の影響を検討し、その特徴を明らかにしたものであり、学術上、応用上、貢献する所が少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として十分な価値を有するものと判定した。

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