人体への放射線の影響を推定するためにはヒトに近縁なサル類を用いた実験的研究が重要と考えられるが、従来、主に用いられてきたアカゲザルはヒトと異なり繁殖機能に季節性を有しているために、生殖細胞への影響を検討することが困難であった。本研究は、アカゲザルと同じマカカ属に属するカニクイザルが、周年繁殖動物であり、生殖生理学的にヒトの実験モデルとして有用と考えられるにもかかわらず、放射線の影響に関する知見が乏しい点に着目し、その雄性生殖細胞への放射線の影響を研究したものである。論文は4章から構成され、成果の概要は以下のように要約できる。 まず、第1章で研究の背景を述べた後に、第2章では、基礎実験として、ゴールデンハムスターを用いて精子数、精子の運動性および精子の受精能に及ぼす放射線の影響性を検討している。精巣局部にX線を急照射(0.47〜0.48Gy/分)し、1〜21週後に精巣上体尾部より精子を採取して検査した結果、精子数は照射後第6週に著しく低下し、その後第9週に対照レベルまで回復すること、照射後第6週における精子数の対数値は0.5〜3Gyの範囲で線量の増加に対して直線的に低下すること、および精子の体外受精率も第6週で顕著に低下するが、第9週には対照区と有意差のない値に回復することを認めた。これらの結果より、放射線の影響は精巣への急照射後一定の期間を経て現れた後に回復し、その過程で精子数と精子の運動性は受精能と密接に関連して変動すると考察している。 第3章では、カニクイザルを用いた線高線量率の精巣局部急照射実験と低線量率の全身緩照射実験の結果について述べている。まず、4頭の正常成熟雄個体から電気射精法により精液を2週間ごとに2年間継続して採取し、精液量、精子濃度、奇形精子率のいずれにおいても明瞭な季節的変動は示さないことを確認している。 次いで、精巣の局部急照射実験では、18頭の成熟雄の精巣局部に、0.25〜3Gyの137Cs-線を高線量率(0.25Gy/分)で急照射した後に、精液を経時的に採取して精子の濃度と頭部に形態異常を示す奇形精子を検査し、さらに精子濃度が照射前のレベルに回復したことを確認した後に、精母細胞における相互転座型の染色体異常を観察している。その結果、2Gy以上の高線量では精子濃度は照射後8週から顕著に低下し、照射前の値の1.6%以下にまで減少したが、35-41週に照射前のレベルに回復した。奇形精子率も線量の増加に伴い上昇し3Gy区で14.9%に達したが、最大頻度を示した時期はいずれの線量においても精子濃度の最低値の時期よりも早く、16〜22週には照射前のレベルに回復した。さらに、転座型染色体異常の出現率は0.25Gy区の0.53%から2Gy区における2.47%までほぼ直線的に増加し、相互転座誘発率は、1Gy当り1.79%と推定された。 全身の緩照射実験では、総線量0.3〜1.5Gyの137Cs-線を8頭の成熟雄に低線量率(1.8×10-5Gy/分、約0.024Gy/22時間/日)で3週間から9週間にわたり連続照射した後に、精子濃度及び相互転座型の染色体異常の検査を急照射実験に準じて実施している。その結果、精子濃度は0.3Gy区では照射の影響は顕著ではなかったが、1.0及び1.5Gy区では照射前の値の0.5%以下に減少し、照射終了後においても低値を続ける個体を認めた。染色体異常の誘発率は1Gy当り0.16%と推定された。 以上の結果より、放射線の精巣急照射後においては、線量の増加に伴い精子濃度の減少と奇形精子の増加が顕著であるが、その影響は一過性であり、一定の期間を経て精子形成が再開して照射前のレベルに回復すること、および奇形精子の回復期間は精子濃度を指標とする期間よりも短かいことを指摘し、放射線に高感受性の時期は、精子濃度については精原細胞期、奇形精子の誘発については精母細胞期から精子細胞期であると推定している。さらに低線量率照射時の精子濃度の減少は同線量の高線量率照射の場合と大差なく、一方、相互転座の誘発率は低線量率では高線量率の約1/10に減少することを見出し、この線量率効果の違いは生殖細胞に及ぼす放射線障害の機序が細胞死と相互転座誘発では異なることに基づくものと考察している。 第4章では、これらの成果を総括してヒトで報告されている成績と比較し、カニクイザルはヒトよりも放射線急照射後の精子濃度の減少が小さく、回復が早いこと、染色体異常の誘発率はアカゲザルで報告されている値よりも高く、よりヒトに近い特性を有することを指摘し、カニクイザルがヒトにおける放射線の遺伝的障害の推定に有用な実験モデルになり得ると結論している。 以上要するに、本論文は、カニクイザルの雄性生殖細胞に及ぼす放射線の影響を検討し、その特徴を明らかにしたものであり、学術上、応用上、貢献する所が少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として十分な価値を有するものと判定した。 |