学位論文要旨



No 212142
著者(漢字) 田村,雅史
著者(英字)
著者(カナ) タムラ,マサフミ
標題(和) 分子性伝導体の電子構造の光学的研究
標題(洋) Optical Study of the Electronic Structures of Molecular Conductors
報告番号 212142
報告番号 乙12142
学位授与日 1995.02.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12142号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木下,實
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 助教授 古川,行夫
内容要旨

 本論支は、金属的伝導性を示すいくつかの分子性伝導体の単結晶試料に対して、偏光顕微反射分光法という実験手段を適用して、室温および低温における光学的性質を測定し、それをバンド理論に基づいて解析することによって、これらの分子性伝導体の伝導電子の電子構造(バンド構造)を導き出した結果について述べている。

 多数の有機超伝導体を含む分子性伝導体は物理・化学の両分野で近年注目を集めており、BEDT-TTFあるいは[Ni(dmit)2]といった分子のラジカル塩などが集中的に研究されてきた。そのうち金属的伝導性を示す物質については、どのような分子間の相互作用が働いて金属的伝導性が実現しているかを理解し、新たな分子性伝導体の開発のための指針を検証したり見いだしたりすることが、研究の重要な要素と考えられている。本論文の研究は、このような分子性伝導体において、物質の金属としての性質を決定するフェルミ面と呼ばれる曲面の形状を、光学的実験の結果から、分子間相互作用の大きさの評価を通じて導き出すことを主な目的としている。その目的のために、微細な単結晶試料にも適する偏光顕微反射分光法を用いて、赤外領域から可視領域にわたる光学的性質を測定した。

 本論文の研究では、次のようにして測定結果を電子構造に結び付けた。分子性結晶は、多数の原子から成る有機分子から構成されているので、無機結晶や合金に用いられている第一原理からのバンド構造の計算を適用するには困難があり、強束縛近似に基づいた構成分子の1種類の分子軌道に注目したバンドモデルが適用されてきた。さて赤外・可視領域において伝導電子の関与する光学遷移の主なものとしては、バンド内遷移とバンド間遷移がある。上述のバンドモデルを仮定すると、結晶構造が層状で二次元的な電子構造をもっていて、かつ比較的単純な分子配列をもつ物質については、簡単な式によって正確にバンド内遷移を記述することができる。このことに着目して、本論文の研究では、赤外・可視領域で測定された偏光反射スペクトルからバンド内遷移の寄与を抽出し、上述のバンドモデルに基づいてフェルミ面とバンド構造を導き出した。また、バンド内遷移とバンド間遷移の分離をよくするために、低温での測定を行なった。

 本論文の構成は、以下のようになっている。

 第1章では、まず分子性伝導体の研究の概観を、特に電子構造の研究に着目して述べた。次に、分子性伝導体への適用を念頭において、電子構造やフェルミ面の研究における光学的方法と他の実験手段との比較によって、光学的研究の特徴や得失を議論した。例えば、伝統的にフェルミ面の研究に用いられる磁気量子振動効果と比較すると、試料の質や要求される低温と磁場などの条件がはるかに緩くて済む。それらの議論に基づいて本論文の研究の目的を明らかにする。

 第2章では、伝導電子の関与する光学遷移の強束縛近似に基づく理論的取り扱いを、バンド内遷移とバンド間遷移のそれぞれについてまとめた。

 第3章では、赤外と可視領域の顕微偏光反射スペクトルの測定と解析の具体的手順、およびその結果からバンド構造とフェルミ面を決定する方法の詳細について述べた。

 第4章では、多数の超伝導体を与えたBEDT-TTF塩の1つである-(BEDT-TTF)2I3の電子構造の研究について述べた。この物質は発見当初から典型的な二次元的構造をもつ物質として注目されてきた。本論文の研究方法は、この物質に対して最初に適用された。そこで、この物質については光学的研究だけでなく、他の研究手段から得られた知見も用いてそのバンド構造とフェルミ面について詳細に調べた。図1に光学的研究から結論された-(BEDT-TTF)2I3のフェルミ面の形状を示す。特に磁気量子振動効果からは、図中P点でのギャップの大きさと、軌道の囲む断面積がそれぞれ求められ、さらに角度依存磁気抵抗振動の測定から、図中のフェルミ面の寸法を表わす4種類の波数(kF)も決定できた。これらの結果から、最初に光学的研究によって予測したフェルミ面の形状が十分正確であったことがわかった。一方で、磁気量子振動効果から強束縛近似のバンドモデルでは予測されていない三次元的なごく小さなフェルミ面が発見され、またサイクロトロン有効質量が光学的研究から予測された値よりも増大していることもわかった。

図1 -(BEDT-TTF)2I3のフェルミ面の形状

 以下の各章は、-(BEDT-TTF)2I3において確立された光学的研究手法を、層状構造をもつ他の数種類の分子性伝導体に適用した結果の記述にあてられている。

 第5章では、-(BEDT-TTF)2I3を取り上げた。この物質は、BEDT-TTF分子が強く二量化した構造をもつ点で、前章の-(BEDT-TTF)2I3と大きく異なっている。しかし、バンド内遷移からフェルミ面を決定するに当たって、摂動論に基礎を置く取り扱いによって前章の場合と同じ手法が適用できることを明らかにし、実際に解析を行ってバンド構造とフェルミ面を導いた。この摂動論的取り扱いは化学的にみれば二量体を1つの超分子と見なすことに相当していることにも言及した。

 第6章では、[Ni(dmit)2]の閉殻陽イオンとの塩としては最初に超伝導状態への転移が見いだされた(CH3)4N[Ni(dmit)2]2について述べた。この物質の構造上の特徴は、異なる2つの方向に伸びる分子鎖からなっていて、全体として二次元的な電子構造を有していることである。本論文の研究では、それぞれの分子鎖からの寄与を分離して、結晶全体の電子構造を導くとともに、層内での分子鎖内と分子鎖間のそれぞれの分子間相互作用の大きさも評価した。

 第7章では、(C2H5)2(CH3)2N[Ni(dmit)2]2を取り上げた。この物質は、層内で各分子が互いにほぼ平行でありながら、1つの分子が他の2つの分子を橋掛けするという特異な配列様式によって二次元的な電子構造を獲得している。本論文の光学的研究によって、この物質の二次元性が実証され、橋掛けによる分子間相互作用の大きさも評価された。

 第8章では、第5章の-(BEDT-TTF)2I3と同形の結晶構造をもつ-(DMET)2AuBr2について述べた。この物質は非対称な分子から成っており、また約150K以上の温度で金属的伝導を失うが、低温のスペクトルから第5章の方法でバンド構造とフェルミ面を導き出すことができる。また、光学スペクトルと伝導性との相関、すなわち150K以上で光学スペクトルから外挿して見積られる伝導度が確かにゼロに近付くことと、これに伴ってバンド間遷移のスペクトルの分裂が消失することについても議論する。

 第9章は結論に当たっての注意として、光学的研究から得られた観点に基づいて、本論文では取り扱わなかったものも含めて、分子性伝導体全般の物理的な特徴付けを述べた。すなわち、1種類の分子軌道のみに注目した強束縛近似か多くの場合に適用可能であったことから、これらの物質の電子構造が比較的単純に理解できるものであることを結論するとともに、このような枠内では理解できないような実験事実、例えば、第4章で述べた強束縛近似バンドモデルから予測されなかった小さなフェルミ面が存在する問題を指摘する。

 以上のように、本論文は主としてバンド内遷移からバンド構造やフェルミ面の形状を導き出すことを取り扱っている。ここで示したように、導き出された結果を他の研究手段から得られた知見と比較したり相補的に組み合わせることによって、分子性伝導体のバンド構造とフェルミ面を実験的に確立すると同時に、基礎となっている強束縛近似の妥当性を検証することができる。一方で、バンド間遷移によるスペクトルの形状と強度を定量的に計算することは、バンドモデルが与えられていても容易ではない。しかし、バンド間遷移から得られる定性的情報は、分子性伝導体の電子構造を知る上で有力な手かかりとなり得る。これに関連して、分子性伝導体の結晶に映進またはらせんの対称性がある場合には、特定の偏光方向に対してバンド間遷移が完全に消失する、という一種の選択則といえる法則などを本論文の研究過程で見いだしたので、それを補章として論文末尾に加えた。

審査要旨

 本論文は、金属的伝導性を示すいくつかの分子性伝導体の単結晶試料に対して、偏光顕微反射分光法という実験手段を適用して、室温および低温における光学的性質を測定し、それをバンド理論に基づいて解析して、これらの分子性伝導体の伝導電子の電子構造(バンド構造)を研究したものである。

 本論文は9章からなる。第1章は序論で、分子性伝導体の研究の概観を述べ、電子構造の研究における光学的方法の特徴や得失を他の実験手段と比較したうえで、研究の目的を明らかにしている。第2章では、伝導電子の関与する光学遷移の強束縛近似に基づく理論的取り扱いを述べ、第3章に、赤外と可視領域の顕微偏光反射スペクトルの測定とそこからバンド構造とフェルミ面を決定する解析の手順を述べている。

 第4章は本論文の中核をなすもので、典型的な二次元的構造をもつ-(BEDT-TTF)2I3の結晶に、上記光学的方法を適用してそのバンド構造とフェルミ面の形状を決めた。この形状は基本的には正しいものと考えられたが、結晶の対称性から、若干の修正が必要と予測され、熱起電力、磁気量子振動効果、角度依存磁気抵抗振動などの測定へと発展させ、詳しい解析によってより正確な電子構造を得ている。特に磁気量子振動効果から、軌道断面積を求め、光学的研究から得られたフェルミ面の縮重点に小さいギャップが存在することを示し、強磁場下では磁気的なbreak downが生じていることを示した。また、強束縛近似のバンドモデルでは予測されなかったごく小さな三次元的なフェルミ面を見いだし、サイクロトロン有効質量が光学的研究から予測された値よりも増大していることも示した。角度依存磁気抵抗振動の測定からは、フェルミ面の寸法を表わす4種類の波数(kF)を決定した。

 以下の各章は、上で確立した光学的研究手法を、それぞれ特徴の異なる層状構造をもついくつかの分子性伝導体に適用した研究について述べている。第5章では、BEDT-TTF分子が強く二量化した構造をもつ-(BEDT-TTF)2I3について摂動論的手法を採用してバンド構造とフェルミ面を導いた。第6章では、(CH3)4N[Ni(dmit)2]2について調べている。この物質は、異なる2つの方向に伸びる分子鎖からなっていて、全体として二次元的な電子構造をなしている。各分子鎖からの寄与を分離して結晶全体の電子構造を導き、分子鎖内と分子鎖間のそれぞれの分子間相互作用の大きさを評価した。第7章では、(C2H5)2(CH3)2N[Ni(dmit)2]2を取り上げている。この物質は、層内で各分子が互いにほぼ平行であるが、一分子が隣接する二つの分子を橋掛けするという配列様式によって二次元性を獲得していると考えられているが、これを実験的に示し、橋掛けによる分子間相互作用の大きさを評価した。

 第8章は、-(BEDT-TTF)2I3と同形の結晶構造をもち非対称な分子から成る-(DMET)2AuBr2の研究である。この物質は約150K以上の温度で金属的伝導を失うが、低温のスペクトルから第5章の方法でバンド構造とフェルミ面を導き出すことができ、光学スペクトルと伝導性との相関、すなわち150K以上で光学スペクトルから外挿して見積られる伝導度が確かにゼロに近付くことを示した。また、これに伴ってバンド間遷移のスペクトルの分裂が消失することについても議論している。

 第9章では結論に当たっての注意として、光学的研究から得られた観点に基づいて、分子性伝導体全般の物理的な特徴付けを述べている。すなわち、一種類の分子軌道のみに注目した強束縛近似が多くの場合に適用可能であったことから、これらの物質の電子構造が比較的単純に理解できることを結論するとともに、このような枠内では理解できないような実験事実、例えば第4章で見いだした強束縛近似バンドモデルからは予測されなかった小さな三次元フェルミ面の存在を指摘し、より高度な理論的研究の必要性を提案している。

 以上のように、本論文は分子性伝導体に関して、主としてバンド内遷移からバンド構造やフェルミ面の形状を導き、その結果を他の研究手段から得た知見と比較したり相補的に組み合わせることによって、結晶の電子構造を詳しく研究しており、理学、特に物性物理、物性化学分野への貢献が大きいと判断する。なお、本論文の第4-8章は、薬師久弥、黒田晴雄、徳本圓、小林速男、小林昭子、加藤礼三、田島裕之、増田理麻、内藤俊雄、宇治進也、寺嶋太一、青木春善、木下實の各氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53881