学位論文要旨



No 212159
著者(漢字) 石川,准
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,ジュン
標題(和) マイノリティの<存在証明> : 「生きる様式」の社会学的研究
標題(洋)
報告番号 212159
報告番号 乙12159
学位授与日 1995.03.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 第12159号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 庄司,興吉
 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 助教授 上野,千鶴子
 東京大学 助教授 山本,泰
 立教大学 教授 栗原,彬
内容要旨

 <第一章> 私とは何者なのかという自己了解をアイデンティティと呼ぶ。社会的行為には、価値あるアイデンティティの獲得と、負のアイデンティティの返上によって、自らの存在価値を証明しようとする意図が込められる。それを存在証明と呼ぶ。

 しかし、存在証明は自己のみによっては達成されず、他者という承認の与え手を必要とする。他者との関係を通して自己のアイデンティティは現実化し、存在証明は確証される。だが社会は、私と他者との補完性として均衡するわけではない。評価権を有する他者は、私のアイデンティティ請求を拒絶するかもしれない。それに他者は自分の存在証明のために私を定義しなければならない。私も同様である。私の存在証明への他者の評価は、他者自身の存在証明のために歪み、他者の存在証明への私の評価も、同様の理由で歪む。こうして存在証明の相互否認が始まる。

 所属や能力や関係を失うとき、人はアイデンティティ問題に直面する。そしてさまざまな方法を駆使してアイデンティティを支えようとする。四つの方法がある。第一の方法は印象操作である。人は知られると否定的に評価される負のアイデンティティを隠し、価値あるアイデンティティの持主であるように装う。第二の方法は補償努力である。社会的威信の高い集団への所属を達成するとか能力や資格を身に付けるというように、価値あるアイデンティティを獲得することで、負の価値を帯びた自分の名誉を挽回しようとするのがこれである。第三の方法は、他者の価値剥奪である。人から価値を奪うことによって存在証明を実現しようとするのがこれである。第四の方法は、価値の取り戻しである。否定的に評価されてきた自分の社会的アイデンティティの価値を肯定的なものへと反転させることで、自分の価値を取り戻そうとするのがこれである。

 そもそも人が存在証明に没頭するのは、社会がそれを要求するからである。存在証明は社会システムに組み込まれた一つの重要な装置である。だが、もし自分という存在そのもの、アイデンティティ抜きの「本来」の自分に価値を実感することができれば、存在証明は不要になり、人はその分社会的権力から自由になる。これを存在証明からの自由と呼ぶ。

 <第二章> 逸脱の定義をめぐる闘争を逸脱の政治と呼ぶ。逸脱の政治を主題とする逸脱へのコンフリクト・アプローチは、逸脱の烙印を押されるのは犯罪者や非行少年に限ったことではないとして、民族的人種的少数者、女性、同性愛者、障害者が起こす逸脱の政治にも視野を拡大している。

 コンフリクト・アプローチは、烙印論、演劇論、逸脱の政治論を統合することで発展すると考えられる。烙印論は、「逸脱者」に対する社会の冷たい「まなざし」や「扱い」が、かえって彼らの逸脱を助長するという逸脱増幅説を展開した。一方、ゴッフマンの演劇論は、アイデンティティの管理のために人々が行う成り済ましなどの隠蔽や偽装の技術を印象操作と呼び、「逸脱者」は、印象操作によって烙印付与をかいくぐろうとする能動的な人々だと主張する。また、逸脱の政治論は、一定の条件のもとでは、「逸脱者」は、スティグマからの解放をめざして社会の支配的な逸脱の定義に挑戦する集合行為を起こすと主張する。そして、「逸脱者」の反差別・解放運動は、制度化された逸脱の定義の維持・強化を望む人々、他者にスティグマを貼り付けることで存在証明を確保してきた人々の利害と真っ向から対立し、逸脱の定義をめぐる激しい闘争が起きるとして、逸脱の政治を分析する。

 反差別・解放運動の分析には、社会運動論を導入する必要がある。今日の社会運動論の中心は資源動員論である。この資源動員論が取り組んだ問題にマンカー・オルソンのただ乗り問題がある。オルソンは、結束して集合行為を起こせば、集合的利益が得られる場合でも、参加を強いる強い圧力や、参加者にだけ与えられる特別な報酬がない限り、人々はただ乗りを決め込むため集合行為は不発に終わる、と主張した。個人的合理性と集合的合理性の矛盾をついた彼のこの議論は、利害や不満さえ共有されれば集合行為は自然に発生すると考えがちだった従来の社会運動論への批判を含んでいた。

 とはいえオルソンにも多くの批判が寄せられた。また集合行為の条件を明らかにしようとする試みも提案された。とくに注目されたのは社会的ネットワークである。

 ところで、価値あるアイデンティティは、オルソンに即していえば、誰もが追求する象徴財であり、物財同様、私財としても集合財としても供給され得るという性質がある。そのため「逸脱者」は存在証明の私的戦略と集合的戦略とを使い分けることができる。人は、成りすましなどの私的戦略を採用し、評価者の逸脱の定義には挑戦せずに、自己に対する否定的な評価の見直しだけを求めるかもしれないし、反差別・解放運動のような集合的戦略を選んで、制度化された逸脱の定義の修正を企てるかもしれない。

 スティグマ共同体が政治化するためには緊密な社会的ネットワークが必要である。スティグマ共同体はその内部に濃密な社会的紐帯を組織してはじめて、これまで存在証明の私的戦略に余念のなかった人々を、逸脱の政治に動員できる。

 <第三章> エスニック・マイノリティが、社会・経済・政治的に平等な扱いを受けているのか、それとも差別的な扱いを受けているのかを示す概念として統合/排除という概念を、また、エスニック・マイノリティが、全体社会の支配的価値観に同調しているのか、それとも自文化を保持しているのかを示す概念として同化/自文化の保持という概念を定義する。この2対の概念を用いて4種類の社会状況を構成し、「統合+同化」をメルティングポット、「統合+異化」をサラダボール、「排除+同化」をアノミー、「排除+異化」をアンダーカーストとする。

 これらのうち、エスニック・マイノリティが到達目標とするのは、サラダボールとメルティングポットである。しかし同化のテンポは急ピッチで進んでも、統合はそれほど進まないために、現実には多くのエスニック・マイノリティがアノミーに流されていく。アノミーにあるエスニック・マイノリティの志向は二極に分解する。一つはメルティングポットへの到達をなおもめざして、いっそうの努力を重ねるグループ、もう一つは失いつつある自文化の取り戻しを求めてアンダーカーストへと向かうグループである。

 マイノリティはマジョリティが軽視し否定している価値に注目し、対抗文化を発達させ、マジョリティとは異なる存在証明のシステムを創造していく。

 <第四章> 自立する障害者たちは、編み出してきた自分流の生活技術を自立生活プログラムという実践的な技法にまとめて仲間に伝える活動を行なっている。そこでめざされている第一は、「自己規制」をしていても前進しない事実を、後続する仲間に実感させ、積極的な選択を鼓舞することである。

 第二は、文脈としてのヒューマニズムを解体することである。愛ゆえの行為とヒューマニズムゆえの行為とはあまりにも易々と正当性を調達できるため、その自由度は途方もなく膨らむ。だから逆に、愛やヒューマニズムの受け手の側が確保できる自由度は、その分だけ極端に減少する。自立生活プログラムには、愛ゆえの行為に逆らってはいけない、と自分に言い聞かせるのではなく、正面衝突を恐れずに自己主張していくことの大切さを仲間に実感させようとする試みを含んでいる。

 第三は、障害を個性として受け入れることである。障害を吹っ切る実践は、障害による機能的制約を、どう納得し受け入れるかを軸に展開する。2種類の吹っ切り方がある。障害と自分との関係を否認し、障害を差し引いた残りが自分だとする生き方と、障害を個性として受容する生き方である。第一の方法は、障害の補償を個人の道徳的責務と定める、この社会の支配的枠組に絡め取られることになると彼らは考える。一方、第二の方法には、社会の支配的な枠組、社会を社会として成り立たせている制度そのものを問いつめようとする意図があると彼らは考えている。

 <終章> 差別によって深刻なアイデンティティ問題を負った人々は、印象操作や補償努力あるいは他者の価値剥奪のような既成の存在証明の枠組を追認する方法によってアイデンティティ問題の緩和を図りはするものの、問題が深刻であるほど、事の本質が実感できるほど、価値の取り戻しや存在証明からの自由を希求する。

 価値の取り戻しと存在証明からの自由とは、概念上は区別できても、現実には、一つ一つの集合行為において、一人一人の志向のなかで、未文化のまま醸成される。それらは、既成の支配的な存在証明の体系を掘り崩す潜在力を有するという意味において類似している。価値を増殖しようとする営みと価値から自由になろうとする営みとは、アイデンティティ問題を解決するための手段という意味をはるかに超えて飛躍する。存在証明の悪循環を乗り越え、共生と多様性の祝福へと社会を向かわせる動的契機がはらまれている。

審査要旨

 本論文は、少数民族や障害者など社会的少数者の内側から意味づけられた生き方、すなわち主体的な「生きる様式」の問題を、「マイノリティの<存在証明>」の問題として追究したものである。

 第一章で著者は、<存在証明>を、積極的消極的自己了解を意味するアイデンティティの「管理」と定義し、「所属」「関係」「能力」という項目からなるアイデンティティの管理の方法として、「印象操作」「補償努力」「他者の価値剥奪あるいは差別」および「価値の取り戻し」の4つをあげる。そして、たえず存在証明を要求する社会のなかで、マイノリティが創造する生きる様式への視座を拓く。

 ついで第二章で、著者は、逸脱者とみなされ、烙印を押されて差別されるマイノリティが、印象操作などによる防衛を越えて「価値の取り戻し」のために運動する様を分析し、存在証明論と社会運動論との関連を明らかにしたうえで、かれらの運動が「ナルシシズムへと向かう内向きのベクトルと、人間解放へと向かう外向きのベクトルのはざまにある」という。第三章は、こうしたはざまから立って「同化志向」を「異化志向」に転じ、存在証明としてマイノリティ文化を創造する様式の分析である。

 こうした分析をふまえて最後に第四章で、著者は、自らをマイノリティたらしめている「障害」をむしろ積極的に受け入れることによって価値を取り戻し、差別と同情の文脈となっているヒューマニズムそのものを脱構築する様式を分析する。こうして、マイノリティの存在証明の主な型を析出した著者の結論は、「多様性を祝福する様式」という主体的生き方の提案であり、それへ向けての更なる研究への展望である。

 この論文にたいして、(1)「存在証明」論がアイデンティティ論を下敷きにしているわりには、多様で豊富なアイデンティティ論の系譜をふまえ切れていないのではないか、(2)問題をマイノリティの内側からとらえようとしているため、かえってかれらを差別する社会的な構造や機制への視点をふさいでいないか、(3)マイノリティの存在証明努力が今や研究者の視界を越える論点や議論を提起しているのに、それらに後れをとる面すらかかえていないか、などの疑問や批判が出され、審査の全過程をつうじて活発な議論が展開された。しかし著者も、これらの疑問や批判に対しては相応に防戦し、自らの論文の問題や限界にも理解を示した。

 以上いくつかの問題点にもかかわらず、上に述べたようにマイノリティの<存在証明>への深い洞察をともなう研究は高く評価され、これによって著者が個性的研究者たりえていることが十分示されているので、本論文は博士(社会学)の学位に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50927