学位論文要旨



No 212160
著者(漢字) 池田,謙一
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ケンイチ
標題(和) 投票行動の認知社会心理学
標題(洋)
報告番号 212160
報告番号 乙12160
学位授与日 1995.03.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会心理学)
学位記番号 第12160号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飽戸,弘
 東京大学 教授 山口,勧
 東京大学 助教授 岡,隆
 東京大学 教授 鈴木,裕久
 専修大学 教授 児島,和人
内容要旨

 本論文は、投票行動を「社会的現実感」(ソーシャル・リアリティ:social reality)という側面から検討する試みである。

 社会的認知の研究分野では信念や知識をスキーマと呼び、それがものごとの判断や行動に対して及ぼす影響力を強調してきたが、筆者はスキーマに含意されているものごとの現実感(リアリティ)に注目する。日本の政治とはこういうものだ、自民党とはこういう政党だ、というような政治的スキーマは、政治に対する本源的なリアリティ感覚を含んでいるが、人がこれをいかにして投票に結びつけているか、それを探ることが本論文の目的である。

 第I章による導入の後、本論文第II章ではこうした観点から政治的信念の最重要変数の一つとして「政党スキーマ」を取り上げ、全国調査に基づきその実証的な適合性を検討した。そして、この政党スキーマ概念を操作化する際に、政党に関する有権者の自由回答データを縮約し尺度化する方法を開発した。

 この分析の過程で、政党スキーマは、政党が一個の行動主体=アクターと見なされることによって成立していることが明らかとなった。すなわち政党とは、有権者にとってはイデオロギーの表明媒体でもなく、それに対して帰属意識のある集団でもなくて、一定の能力、実績、行動指向と行動様式を伴った一個の行動主体だと認知されていた。ここには「金権腐敗」や「批判ばかりの政党」といった非政治学的政党認識(=アクターの行動様式の認知)が投票行動に影響を及ぼす理由も見て取れよう。

 有権者の政党スキーマの中ではイデオロギーや政策争点についての政治的認識は、実証的に見て大きな位置を占めるものではないが、理論的には投票する際の情報コストの縮約という観点から重視されてきた。しかし政党スキーマとは独立して取り上げても、これら変数が投票行動に対して持つ影響力は大きくない。1980年代には同様の実証的問題に注目が集まり、政党(政権)に対する業績評価と将来期待という2変数がこれらに代わる変数として議論されたが、筆者はこれらがマクロな社会の動きに対する有権者のフィードバック入力を可能にする「システム認知」変数であることを指摘し、実証に付した(第III章)。

 さて、投票行動の認知社会心理学の大前提は、人間の「能動性」である。それは、政党スキーマが有権者自身の政党に対する認識の枠組みとして、そこから政党や投票についての情報処理が行われる準拠点だという意味で能動性の基礎となっていることを強調する。また、業績評価等のシステム認知によって有権者が情報の洪水の中でいかに(認知的な意味で)経済的に自らの判断を下し、それを社会全体に対するフィードバックとして打ち返しているかという点での能動性も重視する。

 だが、投票行動は能動性だけの固まりではない。それは情報的・社会的な制約を負っている。第IV章、第V章では、投票に対する社会的属性の制約性の弱さを示した後、情報環境や対人環境というよりソフトな制約、具体的には対人的なコミュニケーション・ネットワークやマスコミュニケーションの持つ投票への制約性を議論した。

 従来、オピニオンリーダーや選挙運動に動員される組織という積極的なコミュニケーションの説得者については投票行動論の中で広く論じられてきたのではあるが、それ以上に、有権者が囲まれている対人的環境の政治色が重要である。この政治色は、有権者が政治について直接明示的に話す話さないに拘わらず、かれが偶発的に接触する政治的情報のバイアスを規定する。

 実証データを分析してみると、こうした対人環境の政治色はきわめて等質的であることが明らかとなる。すなわち、ある政党Aに好意的な対人環境では他の諸政党に対する好意的なバイアスがほとんどかからないため、政党Aについての好意的な政治情報のバイアス=情報環境的制約がきわめて強く出る。そして、このことはほとんど全ての政党に当てはまる。このため、説得的コミュニケーションの強度と比べても、対人環境の政治色の方が投票行動を同調方向へ規定する度合いがはるかに強いことが判明した。

 一方、マスメディアは、今や有権者にとって避けがたい巨大な情報的制約であるが、新聞や番組の接触パターンで実証的に検討する限り、それが投票行動という行動にまで重大な影響を及ぼすとは認められない。もちろん、対人環境の政治色の強い影響力とは比較すべくもない。人はメディアによって投票するのではなく、集団の中で投票しているのである。

 以上の論点を踏まえ、第VI章では投票行動のリアリティにより迫る努力が展開された。まず、フェスティンガーによって提唱され発展したソーシャル・リアリティ論の視点を変え、私たちを支えるものごとの「ほんとうらしさ」の社会的メカニズムが議論された。

 第1に、公式的な制度が私たちのリアリティの最基層にある。それは公式の情報の正当性、公共のメディアの正当性などによるものである。

 第2に、「対人的な支え」がリアリティの形成に関与している。上記の対人環境の規定力の強さからもそれは推し量られる。等質的な対人的情報環境はソーシャル・ネットワークに強力なリアリティ形成力を与える。

 第3は、内在的な力である。政治に対する内面的な信念もまたリアリティの源泉となる。ある政党スキーマの持ち主はそれを用いて政治的な事件や出来事について推論するという第II章での議論は、このスキーマそのものが現実のリアルさを解釈する枠組みとなって働くことを示唆している。そして、スキーマに沿って一貫して解釈できてこそ、事件や出来事はリアリティを帯びるのである。スキーマに依拠した情報の解釈は人間の能動性の一つの現れであるが、それは別の側面から見れば人間のリアリティ感覚取得を支える枠組みなのである。

 こうした点を踏まえて、さらに有権者一人一人の投票のリアリティに迫ろうとすると、上記3つのリアリティ形成力を区別するだけでなく、次のように考える必要が生じる。すなわち、政治に対するリアリティ感覚の異なる人々は、異なる対人環境やメディア環境によって支えられており、またその感覚の差異によって彼らが考慮するシステム認知要因も異なる、と考えるのである。換言すれば、異なるリアリティ感覚の人々は心的なロジック(psycho-logic)もそこで考慮される要因もまた互いに異なるのである。

 これを実証するため、まずリアリティ感覚の異なる人々を分類する試みがなされた。つまり、各政党スキーマをその認知的顕出性の差によって重み付けし、クラスター分析にかけ、「政党スキーマ・マップ」を作成した。1993年7月総選挙時の日本人のリアリティ世界は、6つの異なるリアリティ感覚(=内在的な政治のリアリティ)に分かれていた。すなわち、「自民党ファン」、「自民党ぎらい」、「新党ファン」、「新党ぎらい」、「共産党ぎらい」、政党認知の弱い「非スキマティクス」の各クラスターである。

 これらのクラスターは、デモグラフィックな差が小さい一方で、高度の心理面での差、対人環境の差に彩られていた。また、経済的な面での満足感や年収などの差は小さく、経済的な意味付けではクラスター化されていなかった。

 こうした政治的認識世界の違いは、投票のロジックの違いでもあった。

 現状肯定派である非スキマティクスや、共産党への嫌悪感だけで構成されるクラスター、つまりともに政治のリアリティの弱い人々の間では、投票行動は政党の政権担当能力認知と対人環境に左右されていた。アクターの能力の判断か、周囲の意見によるのである。

 また、自民党支持のリアリティが生きる自民党ファンや、新党の能力発揮の場を見たい新党ファンでは、アクターの能力判断はもはや意味がない。それには各々強く肯定的な答えが出ている。そのリアリティ感から投票を引きはがすのは、自らのリアリティ認知と異なる集団的対人的な環境であった。

 さらに、自民党ぎらい・新党ぎらいでは、共通してイデオロギーと対人環境が自民党へと票を引っ張り、政権交代意見が既成野党・新党へと引っ張っていた。政治をネガティブにとらえたときに、イデオロギーや争点上の判断が意味を持つのであった。

 人々は、自らのリアリティの中で政治的アクターの能力を評価し、ときに政権交代という争点に反応し、投票する。そのロジックは、リアリティの違い、すなわち属する政党スキーマ・マップのクラスターの違いによって体系的に異なっていた。一方、この心理的なリアリティをリアル・リアリティの側から「足を引っ張る」のが集団的対人的な環境である。自民党ファンであっても新党に投票するのは、新党に好意的な対人環境のゆえであるらしく、自民党を嫌悪しながら自民党に投票するのも対人環境や加入集団環境のゆえである。同様に、新党に嫌悪感を持っていても対人環境が新党系に好意的ならば新党への投票に向かう力が働く。

 このように、投票行動のリアリティは重層構造を持ち、リアリティ世界の異なる人毎に異なるロジックがある。これを明らかにした点に本論文の学術的貢献があろう。

審査要旨

 本論文は「投票行動研究における認知心理学的アプローチ」について、その重要性と有効性を、理論的・実証的に検討したものである。特に、スキーマモデルと、ソーシャル・リアリテイ論を結び付け、投票行動を説明しようとするもので、その発想、方法論とも、独創的で新鮮なものといえよう。

 審査過程において、こうした認知心理学的研究はまさに時宜を得た課題であり、検討された膨大なデータの解析、考察の手堅さは、高く評価された。なかでも「政党スキーマ」を検出するための、自由回答の整理分析のための方法論を開発、発展させ、政党スキーママップの異なるごとに政党選択の心理ロジックが異なることを示した点は注目される。

 ただし、従来のオーソドックスな、政治学・社会学での投票行動研究、投票研究におけるマスコミの効果研究などとの関連、そこでの概念規定とその使用慣行の差異、結果の比較考察などについての配慮など、やや粗雑な点がみられるなど、間題点も指摘された。

 最終試験ではこれらの点について著者の見解を求め、著者にこうした点についても今後の課題として十分認識されていることが確認された。

 結論として審査委員会は、本論文の示す達成度は、それが抱える若干の短所を考慮してもなお十分に評価されるものであり、本論文を博士(社会心理学)の学位に値するものと判定した。

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