学位論文要旨



No 212161
著者(漢字) 松本,宣郎
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,ノリオ
標題(和) キリスト教徒大迫害の研究
標題(洋)
報告番号 212161
報告番号 乙12161
学位授与日 1995.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第12161号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,凌二
 東京大学 教授 城戸,毅
 東京大学 教授 樺山,紘一
 東京大学 教授 青柳,正規
 東京大学 教授 大貫,隆
内容要旨

 後1世紀に古代ローマ帝国の東方属州の、ユダヤ人の間に生まれたキリスト教は300年後の4世紀後半には帝国の国教に等しくなった。その間キリスト教はローマ帝国社会のごく少数者の宗教であり、一般社会からは敵意をもって見られ、しばしば迫害をこうむったが、キリスト教徒自身は帝国住民であることを認容し、社会に対して自己弁明につとめ、また皇帝権力への恭順をしめすなど、妥協的姿勢をとった。ローマ帝国や、キリスト教徒が集中していた都市の当局は、キリスト教徒が告発されて来ればこれを重罪人として扱ったが、彼らが厳しい迫害策を積極的にとることはなかった。しかし都市の民衆たちがキリスト教徒への攻撃を行うことは突発的に生じ、キリスト教徒の中の過激な者が挑戦的に殉教を望むなどして、流血の迫害がおこることもしばしばであった。3世紀半ばに深刻化するローマ帝国の政治・軍事その他あらゆる面における危機的状況のもと、宗教イデオロギーの統一によって権力を維持しようとする皇帝たちの中から、キリスト教徒を敵視し、国家的迫害を加える、デキウスなどの皇帝が現れてくる。キリスト教徒は、迫害の合間の平和な時期に教会の組織を整備し、多くの著作を生み出して教義を固め、他方でギリシャやローマの文化、慣習と融合した意識や生活をももち続け、社会のかなり広い層に浸透しつつあった。

 ローマ帝国の危機を打開したディオクレティアヌス帝の安定した時代の末期に、全帝国規模でのキリスト教徒迫害が着手された。この迫害は正式のキリスト教徒迫害勅令をもって遂行され、教会の破壊、聖書等の没収、高い身分の教徒の追放、帝国民に対する多神教の神々への祭儀の強制、キリスト教徒への棄教の強制、など徹底した方策がとられた。当時帝国は4名の皇帝によって分治されていたが、東西の皇帝の支配下で迫害は異なる様相を示した。西方の迫害は短期間に、さしたる流血もなく終わったが、東方の、ディオクレティアヌス、ガレリウス及び、次の世代の皇帝マクシミヌス=ダイアの領域では10年にわたって激しい迫害が展開された。キリスト教徒迫害はやがて生じた皇帝位をめぐる権力闘争とからんで錯綜した状況を生み出すが、結局内乱に終止符をうったコンスタンティヌスによって迫害もまた停止され、キリスト教は完全な公認をえ、没収財産の返還など、皇帝による支援すら与えられることになった。キリスト教とローマ帝国の関係はここに180度の転換をとげたのである。

 本論文は、キリスト教の歴史の中でも、このように大きな転換の時代におかれる、キリスト教徒「大迫害」を、単に宗教史・キリスト教史プロパーの視点や、純粋な思想史・精神史の視点ではなく、ローマ帝国全般の歴史の中に位置づけて捉えようとする。換言すれば、大迫害にまきこまれたキリスト教徒もまたローマ帝国社会の住人であったことを念頭において考察するものである。それと同時に、ローマ帝国すなわち古典古代の世界が変質し、転換し、衰退してゆく時代の社会とそこにいた人々の意識の解明を、逆にその時代の社会と思潮の主役となってゆくキリスト教の役割をながめることによって試みることをも課題としている。このような、古代の終末におけるローマ帝国社会の、さまざまな問題を変質と転換の層で捉えようとする視点はわが国でも渡辺金一氏や弓削達氏によって、主として経済史からアプローチされ、また、近年ビザンツ帝国時代のキリスト教会が果たした貧民救済の役割など、キリスト教と一般社会史をつなぐ研究、更に教父学プロパーからの研究も行われている。本論文はそれらの研究に啓発されながら、特に欧米のP.ブラウン、W.H.C.フレンドらの、古代末期の精神史と社会史を架橋させる研究に多くを負いつつ、対象をキリスト教徒大迫害に絞って、その展開をいくつかの視点から眺め、上述のような、古代末期社会の人々の精神や意識の変化に関連づけながら明らかにしようとした点で独自性をもつと思われる。本論文の内容は以下の通りである。

 序説「ローマ帝国とキリスト教-その関係の転換点としての大迫害-」では、ローマ帝国社会の中にキリスト教徒が出現して以後について、キリスト教史をローマ帝国史の枠内で捉える、という視点から整理し、そのような流れの中で大迫害を位置づけ、また本論文の以下の章の構成を明らかにしている。主として欧米の初期キリスト教史の新しい研究の成果を踏まえて述べたものである。初期のキリスト教徒迫害は、異教徒民衆レヴェルのもので、時間的にも限定されたものであったこと、キリスト教徒の側の一般社会に対する姿勢や、彼らが抱いていた社会や倫理に関する意識については、を特殊キリスト教的性格をもつ面と、一般社会の通念と共通する部分がある点をあわせ考えるべきことを指摘した。そして、大迫害は皇帝の主導権によって着手されたこと、その後の迫害の展開にも、帝国社会の統治や政治抗争に規定された皇帝たちが常に決定的影響力をもったことがあらかじめ示されている。

 一「キリスト教徒大迫害の視角」では、研究の出発点として、この問題をローマ帝国史の中で追究してゆく上での前提的な諸視角を挙げて、研究の現段階をあきらかにした。まず大迫害時代史の再構成のための史料問題と、大迫害をローマ帝国史の中に置く視点からして不可欠な帝国史全般のクロノロジー確定の問題とを取り上げた。史料としては特にラクタンティウスのde mortibus persecutorumを重視し、その史的価値を確認するとともに、その他エウセビオスのHistoria Ecclesiastica,de Martyribus Palaestinaeの評価、そしていわゆる異教史料の活用の可能性について積極的評価を試みた。クロノロジーの問題については研究史上多くの点で論争があるために、いささか羅列的に述べざるを得なかったが、それぞれについて論者の見解を示した。最後にこの大迫害に関わった、異教徒・キリスト教徒についての個々あるいは集団的なプロソポグラフィ研究の重要性をも指摘した。

 二「キリスト教徒大迫害の展開」では、まず3世紀半ばから303年の大迫害にいたる帝国の社会的・宗教的状況を、一貫してキリスト教徒と社会との関係に着目して跡づけた。ウァレリアヌス帝の迫害に際しては、キリスト教徒の属した社会層と迫害策との間に相関があった点を指摘し、迫害下のキリスト教徒の側に様々な姿勢の相違があったことをも見出した。この見方は後の大迫害分析にも共通する視点として受け継がれる。次いでは大迫害の実態を、迫害した皇帝の意図を迫害勅令を考察することによって明らかにし、迫害を遂行した具体的な人々について、若干のプロソポグラフィ研究を行い、帝国側には、厳しい迫害者と寛大な迫害者が併存しており、政府の目的はキリスト教徒の殱滅にはなかったことを指摘し、他方キリスト教徒についての人物研究も行って、彼らの姿勢が硬軟両極端とその中間とに分かれることも示した。

 三「大迫害にみる神観念の交錯」では、大迫害の時代に統治し、迫害あるいは寛容政策をとった皇帝たちについて、特に彼らが支配の拠り所とした神(々)についての観念を史料から探り出し、それと各皇帝のキリスト教徒対策の関連性を眺めた。コンスタンティヌスについては、キリスト教への好意ある姿勢も単にキリスト教に帰依した故とは言えず、異教的一神教の要素をもっていたことが指摘され、ディオクレティアメスについては多神教への真撃さ、神託への傾倒が見出され、キリスト教徒迫害に向かう皇帝意識がいっそう浮き彫りにされた。ガレリウス、マクシミヌス=ダイアについてもディオクレティアヌスと相似た神観念が根底にありながらも、それぞれの特性をもったことが指摘された。後2者の神観と迫害策との関係は第四、五章において詳述される。

 四「迫害帝ガレリウス-311年の寛容令をめぐって-」では、仮借ない迫害推進者であったガレリウス帝が発した寛容令を、強烈な皇帝意識をもつ同帝の主体的判断による発令と捉え、そこに至るまでの同帝の政策と権力抗争への関わり方を跡づけた。ガレリウスについてはキリスト教史料の偏見に影響を受けて、研究者の間でも皇帝として低い評価を与えられがちであったが、論者は法典や他の史料、それにキリスト教史料の読み直しによって、同帝が有能熱心な皇帝であり、キリスト教徒迫害の苛烈さも、そのような姿勢からとられたものであることを立証した。第一章で指摘した当該時代クロノロジーの一部について、コンスル表や貨幣の研究を用いて解明した。

 五「マクシミヌス=ダイアのキリスト教政策」では、これもキリスト教史料で憎悪をもって描かれてきた迫害帝のキリスト教政策を、幅広い史料・碑文・貨幣の検証によって、この皇帝の行政全般の評価確定の中で捉えた。この皇帝もまたすぐれた行政官であり、彼のきびしい迫害は、もちろん彼自身の強烈な伝統的多神教への信仰が背景にあったが、それよりも彼の統治した帝国東方の宗教状況と、それに関連して、東方諸都市市民からの迫害要求の動きがあったこと、そのキリスト教徒対策も流血を意図せず、異教への改宗説得を旨とする穏やかさをもっていたこと、及び激化する帝国内権力闘争が彼のキリスト教政策に少なからぬ影響を与えたことを明らかにし、そのように迫害に関わった諸階層の人々と彼らの都市の宗教と政治の状況について社会史的考察を行った。

審査要旨

 論文「キリスト教徒大迫害の研究」は、303年2月のディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒迫害の開始から313年のミラノ勅令等の寛容令にいたる時期に着目し、そこにおける錯綜した事実関係を主としてエウセビオスやラクタンティウスらの文献史料を通じて、整合的に解明しようとしたものである。

 大迫害に関する研究は、これまでキリスト教の発展の歴史のなかで論じられてきた。それらは、個々の局面における迫害者の糾弾や殉教者の美談として語られることが多く、しかも、細部の事実の個別研究は膨大な蓄積を有し、その全体像をとらえることは極めて困難であった。したがって、大迫害の全体を扱った研究は欧米においてすらほとんど見られない。そのような研究状況のなかで、著者は一貫した視点から大迫害の全体像をとらえ、その性格を明らかにすることで独創的な成果をあげている。著者の視点とは、大迫害をキリスト教史のなか説明するのではなく、広くローマ帝国の政治史および社会史との関連のなかで分析することにあり、その点で際立った特徴をなしている。すなわち、皇帝の宗教意識に注目するだけでなく、上層市民および民衆の宗教意識にも目を配り、それらが諸皇帝の乱立するテトラルキア体制の政策と戦略のなかでどのような役割を果たしているかが究明されている。

 膨大な史料は護教作家の偏見と伝承過程の混乱なかで矛盾に満ちており、それらの整合的な解明は困難を極める。しかし、著者は敢えて大迫害の全体をとらえる姿勢を崩さず、それらの史料の整合性を検証しながら、齟齪の多い史料の位置付けに成功している。この時期における異教徒民衆のキリスト教徒への反感は希薄になり、諸皇帝の宗教意識と現状認識には微妙な差異が識別されることになる。それ故、大迫害の終結はキリスト教の勝利として語られるべきではなく、ローマ帝国社会の変質過程のなかに位置付けることができるのであり、本論文によってそれはみごとに論証されたと言えよう。

 しかし、本書にまったく問題がないわけではない。ひとつは、錯綜した事実関係を解明するあまり、筆力のある著者にしても意味の分かりにくい箇所が散見されることである。もうひとつは、社会史的なアプローチを試みる箇所では欧米の諸研究の整理に傾きがちであり、プロソポグラフィッシュな事例の抽出が網羅的であったかどうかに若干の疑念を残している。しかし、それらの欠点は本論文全体の価値を損なうものではなく、博士論文として十分な評価に値するとの結論に達したのである。

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