学位論文要旨



No 212176
著者(漢字) 西沢,幸二
著者(英字)
著者(カナ) ニシザワ,コウジ
標題(和) 加味帰脾湯の中枢神経系に対する作用
標題(洋)
報告番号 212176
報告番号 乙12176
学位授与日 1995.03.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第12176号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 助教授 小野,秀樹
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 松木,則夫
 東京大学 講師 久保,健雄
内容要旨 1.緒言

 高齢化、社会環境あるいは生活環境の変化に伴い、老人性痴呆、不安神経症等の精神・神経性疾患が急増している。これらの疾患には脳機能改善薬、抗不安薬及び抗うつ薬等が処方される。しかし、実際のところ、脳機能改善薬の中には、まれに不安や不眠等の副作用を示すものがあり、逆に、不安神経症に有効なジアゼパム等の薬物は、副作用として記憶障害をもたらすことが多いという問題点がある。このような現状のジレンマを打開するためには、記憶障害と不安の症状を同時に改善し、さらには、神経症全般に有効な薬物の開発が望まれる。本研究で取り上げた"加味帰脾湯"は、中国の古典『内科摘要』(薛己、16世紀)に記載され、14種の生薬(人参、白朮、茯苓、黄著、当帰、遠志、柴胡、山梔子、甘草、木香、大棗、生姜、酸棗仁、竜眼肉)が配合される処方である。臨床応用として健忘症、不安神経症、自律神経失調症、更年期症候群、心臓神経症、不眠症、貧血症等に用いられる。これらの適応症から考えて、"加味帰脾湯"は先に述べた記憶障害・不安を含めた神経症全般に有効な薬物の一つにあげられる。本研究では、記憶障害モデル、不安モデル、脳虚血モデル及び自律神経失調症モデルを用い、神経症全般に対する"加味帰脾湯"の作用を行動薬理学的に明らかにした。

2.各種記憶障害マウスに対する作用2-1.正常マウスに対する作用

 記憶能力の評価には、受動的回避学習試験としてstep through(ST) test及びstep down(SD) testを用いた。また、条件回避学習試験としてshuttle box(SB) test及びlever press(LP) testを用いた。これらの試験を用いて正常マウスの記憶獲得、固定及び再現に対する加味帰脾湯(0.5、1.0g/kg,p.o.)の作用を調べたところ、全く影響が認められなかった。自発運動量にも影響しなかった。

2-2.エタノールまたはスコポラミンによる記憶獲得障害に対する作用

 獲得試行前、エタノール(30%、10ml/kg,p.o.)またはスフポラミン(0.5mg/kg,i.p.)をマウスに投与することにより、記憶獲得障害が認められた。加味帰脾湯(0.5、1.0g/kg,p.o.)はST test及びSD testにおけるスコポラミン記憶障害による行動変化に影響しなかったが、1.0g/kgの用量でエタノール記憶障害によるST testの反応潜時短縮、SD testの回避率低下等を有意に阻止した。

2-3.電撃刺激による記憶固定障害に対する作用

 獲得試行直後、マウスに電撃刺激(94mA)を与えることにより、記憶固定障害が認められた。SD testにおいて加味帰脾湯(0.5g/kg,p.o.)は電撃刺激記憶障害によるマウスの床に降りた回数増加を有意に阻止した。

2-4.電撃刺激またはエタノールによる記憶再現障害に対する作用

 テスト試行前、電撃刺激(80mA)またはエタノール(40%、10ml/kg,p.o.)をマウスに与えることにより、記憶再現障害が認められた。加味帰脾湯(1.0g/kg,p.o.)は、ST testにおける電撃刺激による回避率低下を回復させたが、エタノールによる記憶障害に対しては影響しなかった。

2-5.前脳基底部破壊による記憶障害に対する作用

 マウスの前脳基底部を熱破壊することにより、ST testにおけるテスト試行時の反応潜時短縮及びSD testにおける獲得試行直後の床に降りた回数増加が認められた。加味帰脾湯(0.25g/kgx2回/日、0.5g/kgx2回/日,p.o.、破壊後15日間投与)はST testの反応潜時に影響しなかったが、SD testの獲得試行直後5分間のマウスの床に降りた回数増加を抑制した。

2-6.老化促進モデルマウスの記憶障害に対する作用

 老化促進モデルマウス(SAM)のうち、SAM-P/8(5及び10カ月齢)の老化による記憶障害に対する加味帰脾湯長期投与(8%エキス含有飼料、2カ月齢より3または8カ月間投与)の作用を調べた。対照として、正常老化を示すSAM-R/1(5及び10カ月齢)についても検討した。

 ST test10日間のテスト試行において5カ月齢のP/8対照群の記憶保持率は日ごとに低下した。これに対し、P/8加味帰脾湯投与群は有意に高い記憶保持率を維持した。R/1では記憶保持率の大きな低下は認められず、加味帰脾湯の影響も見られなかった。一方、10カ月齢ではP/8とともにR/1の記憶保持率の低下が顕著で加味帰脾湯の改善作用は認められなかった。

 SD testにおいてP/8のテスト試行10日間の床に降りた総回数は5、10カ月齢ともにR/1と比較して高値であった。10カ月齢のP/8加味帰脾湯投与群の床に降りた回数はP/8対照群と比較して有意に減少していた。加味帰脾湯はR/1に対しては影響しなかった。

 加味帰脾湯は5カ月齢のP/8及びR/1の運動量には影響しなかったが、10カ月齢のP/8で老化によると考えられる自発運動量減少を有意に阻止した。10カ月齢のR/1に対して加味帰脾湯は影響しなかった。

 条件回避学習におけるP/8の回避率は5、10カ月齢ともにR/1と比較して低値を示した。P/8の反応数は10カ月齢のSB testのみR/1と比較して低値を示したが、他の反応数に有意な差はみられなかった。加味帰脾湯は10カ月齢のP/8のSB test 1日目の回避率及び10カ月齢のR/1のLP testの反応数を増加させたが、他に影響を与えなかった。

 以上の結果から、加味帰脾湯は各種記憶障害時の行動変化を改善することが明かとなった。

3.抗不安作用

 抗不安薬ジアゼパム(0.25及び0.5mg/kg,s.c.)はマウスの新規な環境における自発運動量を有意に増加させた。一方、不安惹起物質-carboline-3-carboxylic acid methyl ester(-CCM、3.0mg/kg,i.v.)はマウスの新規環境における自発運動量を有意に減少させた。これらのことから、新規環境における自発運動量、いわゆる探索行動が不安の指標となり得ると考えられた。加味帰脾湯(2.0g/kg,p.o.)は正常マウスの探索行動には影響しなかったが、-CCM(3.0mg/kg,i.v.)によるマウスの探索行動減少を有意に改善した。

 さらに、water lick conflict testを用いて加味帰脾湯の抗不安作用を検討した。加味帰脾湯(0.5〜2.0g/kg,p.o.)は電気ショック(20V)によるラットの飲水反応数減少に影響しなかった。続いて、不安惹起物質-CCM(0.1mg/kg,i.v.)投与に加えて弱い電気ショック(5V)を負荷することにより誘発されるラット飲水反応数減少に対する加味帰脾湯の作用を検討した。この条件で加味帰脾湯は用量依存的に飲水反応数減少を回復させ、2.0g/kgの用量では有意な回復がみられた。加味帰脾湯は、この用量でラットの自発飲水量に影響しなかった。

 以上のことから、加味帰脾湯は不安惹起物質-CCM投与による各種行動変化を改善することが明かとなり、抗不安作用を有する可能性が示唆された。

4.脳虚血障害に対する作用

 マウス両側総頸動脈を結紮し、生存時間を測定した。加味帰脾湯(0.5〜2.0g/kg,p.o.、虚血負荷前5日間投与)は用量依存的に生存時間を延長させ、脳虚血保護作用を示した。脳虚血の神経毒性にグルタミン酸レセプターの一つNMDA型レセプターの過興奮が重要な意義を持つといわれていることから、マウスにN-methyl-D-aspartate(NMDA、80mg/kg)を尾静脈内に投与し、生存時間を測定した。加味帰脾湯(0.5〜2.0g/kg,p.o.、虚血負荷前5日間投与)は0.5g/kg及び2.0g/kgの用量で生存時間を延長させ、NMDA致死に対して拮抗作用を示した。砂ネズミに両側総頸動脈5分間結紮による脳虚血を負荷すると海馬CA1野の遅発性神経細胞壊死がもたらされたが、加味帰脾湯エキスを8%含む飼料を34日間投与することにより神経細胞壊死は抑制された。以上の結果から、加味帰脾湯の脳虚血障害に対する有効性が示唆された。

5.SARTストレスマウスの自律神経失調症状に対する作用

 SART(反復寒冷)ストレス動物では、交感神経と副交感神経のバランスが崩れ、自律神経失調症状がみられる。加味帰脾湯(0.5、1.0g/kg,p.o.、ストレス負荷前日より8日間投与)はマウスのSARTストレスによる痛覚閾値の低下を用量依存的に抑制した。また、マウスの摘出十二指腸50%収縮及び100%収縮を示すACh濃度にないてSARTストレスによるACh反応性低下を阻止した。加味帰脾湯はSARTストレスによる体重増加抑制、心電図異常、血液性状に対しては影響しなかった。

 以上の結果から、加味帰脾湯が自律神経失調症状の一部に対して有効である可能性が示唆された。

6.結論

 本研究結果から、加味帰脾湯は記憶障害改善のみならず、抗不安作用をも有し、さらに神経症に関連する症状に対して幅広い薬効を示すことを行動薬理学的に明らかにした。加味帰脾湯は正常時には影響せず、障害時のみに作用を発揮する興味深い薬物と考えられた。

審査要旨

 高齢化、社会環境あるいは生活環境の変化に伴い、老人性痴呆、不安神経症等の精神・神経性疾患が急増している。これらの疾患には脳機能改善薬、抗不安薬及び抗うつ薬等が処方されるが、副作用等の問題点も多い。本論文で取り上げた漢方処方"加味帰脾湯"は古文献より健忘症や不安等の神経症全般に有効とされ、臨床においても神経症等に用いられている。しかし、加味帰脾湯の効果を薬理学的に証明した報告は少ない。そこで本論文では記憶障害、不安、脳虚血及び自律神経失調症モデルを用い、行動薬理学的に加味帰脾湯の作用を明らかにした。

 本論文では初めに記憶障害に対する作用を明らかにした。加味帰脾湯はマウスのエタノール誘発記憶獲得障害、電撃刺激記憶固定障害ならびに電撃刺激記憶再現障害に対して改善作用を示した。また、前脳基底部破壊マウスの短期記憶障害に対しても改善作用を示した。さらに、加味帰脾湯は老化動物モデルである"老化促進モデルマウス"の記憶障害に対して改善作用を示し、老化による運動量減少を阻止した。加味帰脾湯は正常動物や正常老化を示す動物の記憶には影響しなかった。以上の結果から、加味帰脾湯は記憶の各過程(記憶獲得、記憶固定、記憶再現)に影響を与えることにより、記憶障害を改善する薬物と考えられた。また、加味帰脾湯長期投与により、老化による記憶障害を改善することが明かとなった。加味帰脾湯は正常動物には影響しないことから、加味帰脾湯の改善作用は鎮静などによる二次的な見かけ上の作用ではなく、障害時のみに作用を示す薬物と考えられた。

 次に、抗不安作用について明らかにした。抗不安薬ジアゼパムはマウスの新規な環境における自発運動量を有意に増加させ、不安惹起物質-carboline-3-carboxylic acid methyl ester(-CCM)は同運動量を有意に減少させた。これらのことから、新規環境における自発運動量、いわゆる探索行動が不安の指標となり得ると考えられた。加味帰脾湯は正常マウスの探索行動には影響しなかったが、-CCMによるマウスの探索行動減少を有意に改善した。また、water lick conflict testを用いて加味帰脾湯の抗不安作用を検討した。加味帰脾湯はwater lick conflict testの電気ショック(20V)によるラット飲水反応数減少に影響しなかった。続いて、不安惹起物質-CCM投与に加えて弱い電気ショック(5V)を負荷することにより誘発されるラット飲水反応数減少に対する加味帰脾湯の作用を検討した。この条件で加味帰脾湯は用量依存的に飲水反応数減少を回復させた。加味帰脾湯は、この用量でラットの自発飲水量に影響しなかった。以上の結果から、加味帰脾湯は不安惹起物質-CCM投与による各種行動変化を改善することが明かとなり、抗不安作用を有する可能性が示唆された。

 続いて、脳虚血障害改善作用について明らかにした。マウスの両側総頸動脈を結紮し、生存時間を測定した。加味帰脾湯は用量依存的に生存時間を延長させ、脳虚血保護作用を示した。脳虚血の神経毒性にグルタミン酸レセプターの一つN-methyl-D-aspartate(NMDA)型レセプターの過興奮が重要な意義を持つといわれていることから、マウスにNMDAを尾静脈内に投与し生存時間を測定した。加味帰脾湯は生存時間を延長させ、NMDA致死に対して拮抗作用を示した。砂ネズミに両側総頸動脈5分間結紮による脳虚血を負荷すると海馬CA1野の遅発性神経細胞壊死がもたらされたが、加味帰脾湯を投与することにより神経細胞壊死は抑制された。以上の結果から、加味帰脾湯の脳虚血障害に対する有効性が示唆された。

 最後に、自律神経失調症状改善作用について明らかにした。SART(反復寒冷)ストレス動物では、交感神経と副交感神経のバランスが崩れ、自律神経失調症状がみられる。加味帰脾湯はマウスのSARTストレスによる痛覚閾値の低下を用量依存的に抑制した。また、マウスの摘出十二指腸50%収縮及び100%収縮を示すACh濃度においてSARTストレスによるACh反応性低下を阻止した。加味帰脾湯はSARTストレスによる体重増加抑制、心電図異常、血液性状に対しては影響しなかった。以上の結果から、加味帰脾湯が自律神経失調症状の一部に対して有効である可能性が示唆された。

 本研究において、加味帰脾湯の記憶障害、不安、脳虚血障害及び自律神経失調症に対する作用を検討した。その結果、加味帰脾湯は記憶障害のみならず抗不安作用をも有し、さらに神経症に関連する症状に対して幅広い薬効を示すことを行動薬理学的に明らかにした。

 以上、本論文は、漢方処方"加味帰脾湯"の効能・効果を初めて行動薬理学的に明らかにしたものであり、漢方処方の薬理学的研究の発展に寄与するところが大きく、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。

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