高齢化、社会環境あるいは生活環境の変化に伴い、老人性痴呆、不安神経症等の精神・神経性疾患が急増している。これらの疾患には脳機能改善薬、抗不安薬及び抗うつ薬等が処方されるが、副作用等の問題点も多い。本論文で取り上げた漢方処方"加味帰脾湯"は古文献より健忘症や不安等の神経症全般に有効とされ、臨床においても神経症等に用いられている。しかし、加味帰脾湯の効果を薬理学的に証明した報告は少ない。そこで本論文では記憶障害、不安、脳虚血及び自律神経失調症モデルを用い、行動薬理学的に加味帰脾湯の作用を明らかにした。 本論文では初めに記憶障害に対する作用を明らかにした。加味帰脾湯はマウスのエタノール誘発記憶獲得障害、電撃刺激記憶固定障害ならびに電撃刺激記憶再現障害に対して改善作用を示した。また、前脳基底部破壊マウスの短期記憶障害に対しても改善作用を示した。さらに、加味帰脾湯は老化動物モデルである"老化促進モデルマウス"の記憶障害に対して改善作用を示し、老化による運動量減少を阻止した。加味帰脾湯は正常動物や正常老化を示す動物の記憶には影響しなかった。以上の結果から、加味帰脾湯は記憶の各過程(記憶獲得、記憶固定、記憶再現)に影響を与えることにより、記憶障害を改善する薬物と考えられた。また、加味帰脾湯長期投与により、老化による記憶障害を改善することが明かとなった。加味帰脾湯は正常動物には影響しないことから、加味帰脾湯の改善作用は鎮静などによる二次的な見かけ上の作用ではなく、障害時のみに作用を示す薬物と考えられた。 次に、抗不安作用について明らかにした。抗不安薬ジアゼパムはマウスの新規な環境における自発運動量を有意に増加させ、不安惹起物質-carboline-3-carboxylic acid methyl ester(-CCM)は同運動量を有意に減少させた。これらのことから、新規環境における自発運動量、いわゆる探索行動が不安の指標となり得ると考えられた。加味帰脾湯は正常マウスの探索行動には影響しなかったが、-CCMによるマウスの探索行動減少を有意に改善した。また、water lick conflict testを用いて加味帰脾湯の抗不安作用を検討した。加味帰脾湯はwater lick conflict testの電気ショック(20V)によるラット飲水反応数減少に影響しなかった。続いて、不安惹起物質-CCM投与に加えて弱い電気ショック(5V)を負荷することにより誘発されるラット飲水反応数減少に対する加味帰脾湯の作用を検討した。この条件で加味帰脾湯は用量依存的に飲水反応数減少を回復させた。加味帰脾湯は、この用量でラットの自発飲水量に影響しなかった。以上の結果から、加味帰脾湯は不安惹起物質-CCM投与による各種行動変化を改善することが明かとなり、抗不安作用を有する可能性が示唆された。 続いて、脳虚血障害改善作用について明らかにした。マウスの両側総頸動脈を結紮し、生存時間を測定した。加味帰脾湯は用量依存的に生存時間を延長させ、脳虚血保護作用を示した。脳虚血の神経毒性にグルタミン酸レセプターの一つN-methyl-D-aspartate(NMDA)型レセプターの過興奮が重要な意義を持つといわれていることから、マウスにNMDAを尾静脈内に投与し生存時間を測定した。加味帰脾湯は生存時間を延長させ、NMDA致死に対して拮抗作用を示した。砂ネズミに両側総頸動脈5分間結紮による脳虚血を負荷すると海馬CA1野の遅発性神経細胞壊死がもたらされたが、加味帰脾湯を投与することにより神経細胞壊死は抑制された。以上の結果から、加味帰脾湯の脳虚血障害に対する有効性が示唆された。 最後に、自律神経失調症状改善作用について明らかにした。SART(反復寒冷)ストレス動物では、交感神経と副交感神経のバランスが崩れ、自律神経失調症状がみられる。加味帰脾湯はマウスのSARTストレスによる痛覚閾値の低下を用量依存的に抑制した。また、マウスの摘出十二指腸50%収縮及び100%収縮を示すACh濃度においてSARTストレスによるACh反応性低下を阻止した。加味帰脾湯はSARTストレスによる体重増加抑制、心電図異常、血液性状に対しては影響しなかった。以上の結果から、加味帰脾湯が自律神経失調症状の一部に対して有効である可能性が示唆された。 本研究において、加味帰脾湯の記憶障害、不安、脳虚血障害及び自律神経失調症に対する作用を検討した。その結果、加味帰脾湯は記憶障害のみならず抗不安作用をも有し、さらに神経症に関連する症状に対して幅広い薬効を示すことを行動薬理学的に明らかにした。 以上、本論文は、漢方処方"加味帰脾湯"の効能・効果を初めて行動薬理学的に明らかにしたものであり、漢方処方の薬理学的研究の発展に寄与するところが大きく、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。 |