学位論文要旨



No 212178
著者(漢字) 中島,秀人
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,ヒデト
標題(和) ロバート・フックの科学研究 : 天文学・光学研究を中心として
標題(洋)
報告番号 212178
報告番号 乙12178
学位授与日 1995.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第12178号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 教授 江里口,良治
 東京大学 助教授 橋本,毅彦
 東京大学 教授 村上,陽一郎
 金沢大学 教授 田中,一郎
内容要旨

 バネに関するフックの法則の発見者、あるいは植物細胞の「発見者」として現在に名を残すロバート・フック(Robert Hooke,1635-1703)は、ロンドン王立協会の初期の中心人物であり、アイザック・ニュートンのライバルとして活動した。フック、ニュートンの両者は、ともに中流階層の家庭の病弱な子供として生まれ、少年時代には機械製作を好んだ。二人は、それぞれオクスフォードとケンブリッジに学び、王立協会で活躍し、やがて対峙した。

 しかし、彼らに関する歴史的研究は、好対照をなしている。晩年に爵位を授けられ、数々の栄光に包まれたニュートンについては、膨大な数の研究論文が存在し、研究書や一般向けの伝記も多い。これに対して、フックの伝記はマーガレット・エスピナスの著書一冊のみであり、学術的な研究論文の数も少ない。このような研究の現状は、フックの科学研究が、ニュートンに比べて、学界から著しく低い評価を受けていることを示している。

 本論文の目的は、このようなフックに対する評価を見直し、17世紀後半の科学的営為の文脈において、フックが極めて高い地位を占める人物の一人であったことを論証することにある。

 ロバート・フックの科学研究に高い評価を与える試みは、本論文に始まるものではない。今世紀の初めから第二次世界大戦直後の時期に、フックの科学的業績を高く評価する論文がいくつか現れた。フックは万有引力概念におけるニュートンの先駆者とされ、また17世紀という早い時期にエネルギー概念を持っていたとされた。加えて彼は、近代的な燃焼論を展開した人物として賞賛され、時計技術の改良にも貢献したと考えられた。

 しかし、戦後に登場した職業科学史家の第一世代の人々は、手稿などの精緻な分析を通じて、このようなフックに対する見方を、過大評価として退けた。ニュートンの力学的探求は、フックの引力研究とは独立して始まったものであり、フックの貢献は、惑星運動解析のためのヒントをニュートンに与えたことに過ぎなかった。また、フックの引力概念は「選択的引力」とでも称すべきものであり、万有引力の概念とは異なるものだった。フックはエネルギーに類似する観念を持っていたが、彼のその扱いは混乱に満ちていた。フックの燃焼論は、なるほど近代的燃焼論と似てはいるが、一方で、フロギストン説とも解釈できる構造を持つものだった。そして、フックの時計技術への貢献とされてきたものは、実は他の人の業績であることが示された。

 1970年の中頃から、このようなフックに対する戦後の厳しい評価を見直す動きが見られた。そこでは、地質学や技術的探求といった、それまでフックの科学研究の周辺分野とされてきたものから彼の再評価が試みられた。しかし、その試みは、成功しているとはいえない。

 本論文は、フックの再評価を周辺分野から行なうのではなく、彼に対して、正面から高い評価を与えることを試みる。そこでは、フックの天文研究に焦点が当てられる。本論文の最大の特色は、これまで知られることのなかった天文研究者としてのフックの姿を解明することによって、彼に対する評価を見直すことにある。

 フックの天文研究は、本論文が天文学における「ガリレオ・パラダイム」と名付ける、17世紀中葉の天文学の主流の中で展開されていた。「ガリレオ・パラダイム」は、ガリレオが望遠鏡で成し遂げた発見によって作り出された研究伝統であった。ガリレオは、望遠鏡による観測によって、天空が、逍遥学派が言うような完璧な世界ではないことを明らかにした。例えば、月の表面には、地球と同様の凹凸が見られた。このようなガリレオの発見に刺激されて、人々は望遠鏡を使った天空観測に関心を示すようになった。その研究は、最初はガリレオの発見の再確認に始まり、やがて月面の詳細な地図の作成や、土星の輪のモデルの構築、その衛星の発見などへと進んだ。「ガリレオ・パラダイム」は、このように、太陽系諸天体の詳細な解明を中心課題とするものであり、その研究は、極めて長い焦点距離を持つ望遠鏡(長大望遠鏡)を駆使して遂行された。このような研究伝統の存在は、コペルニクス、ケプラー、ニュートンというような力学の発展史を軸にした天文学史では重視されてこなかった側面である。

 ガリレオに始まるこの伝統は、イギリス革命期の英国の科学者グループによって受容され、その後、オクスフォードやロンドンの自然学者たちに引き継がれた。彼らは、望遠鏡の改良と、太陽系の天体の観測に取り組んだ。フックの天文研究は、先行するこのイギリスの「ガリレオ・パラダイム」を引き継ぐものであり、彼もまた、長大望遠鏡の改良や、惑星の細部の観測に取り組んだ。フックは長大望遠鏡の専門家として当時海外でも知られており、その改良をめぐって、ヘヴェリウスのような有力な天文学者たちと論争し、あるいは協力した。フックはまた、地球の公転運動を証明するための恒星の視差の検出といった、星の精密観測にも取り組んだ。彼はそのために、望遠照準や接眼マイクロメーターなどの精密観測器機を改良し、望遠鏡観測にこれを応用した。天空の精密観測は、「ガリレオ・パラダイム」の成熟期に現れた課題であり、それは1675年に設立されたグリニッジ天文台へと引き継がれた。フックのこうした天文研究は、当時の最先端を走る高水準のものだった。

 このように本論文は、天文学という科学革命の中心的な分野においてフックが高い位置を占めていたことを示すことによって、彼が科学史上重要な人物であったことを立証しようとするのである。なるほどフックは、コペルニクスからニュートンへという天文学の力学的発展史において重要な人物ではない。しかし、ガリレオ以来の観測天文学の伝統において、彼はきわめて高い地位を占める人物であったのである。

 本論文は、そこからさらに考察を進め、天文学を含むフックの諸研究が、17世紀前半に栄えたグレシャム・カレッジの「数学的諸科学」の研究伝統の延長線上にあったことも明らかにする。数学的諸科学は、航海術などの実用と結びついたものであり、天文学はその中心的な構成要素であった。数学的諸科学の伝統は、初期の王立協会にも引き継がれたが、その影響は、17世紀の末に向かって衰退して行った。こうして、17世紀末の王立協会は、先行するグレシャム・カレッジとは性格を異にする機関になった。フックの科学的営為は、数学的諸科学からの別離の始まりという、イギリス科学の性格の変化の中で考察されるであろう。

 実用と強い結びつきを持つ数学的諸科学は、フックの自然哲学の性格に影響を与えた。フックは、天文学に限らず、様々な実験観測に寄与した。彼は、『ミクログラフィア』に見られるように顕微鏡観察を行ない、ボイルの気体実験のために真空ポンプを作製した。その際にフックの用いた実験観測器機は、非常に高度なものであって、専門の職人の協力を得て初めて作ることのできるものであった。そして、これらの職人たちの技術は、航海術などの実践を通じて培われたものであった。フックはそれを、自然の探求に持ち込んだのである。

 こうして作られた実験器機でフックは、未知の現象を解明していった。このようなフックの科学的営為は、実験的であり、クーンが「ベーコン的諸科学」と名付けたものに該当する。これに対して、ニュートンの科学は、実験の結果作り上げられたというよりは、力学の場合のように、先行する人々の業績をまとめ上げたものであり、非常に理論的であった。確かにニュートンも実験を行なったが、彼の実験器機は、簡単に自作が可能なものに過ぎなかった。その意味で、ニュートンの科学は、クーンのいう「古典的諸科学」の性格を色濃く持っている。フックとニュートンの科学の性格の差は、ニュートンの発明した反射式望遠鏡に対する二人の評価に典型的に現れた。ニュートンは自らの望遠鏡の理論的可能性を提示して満足したのに対して、フックはニュートン式望遠鏡の観測における実用性を問題にした。本論文では、フックとニュートンの光学論争の分析を通じて、このような両者の実験器機への態度の違いも浮き彫りにされる。

 以上のような議論全体を通じて、本論文は、理論科学におけるニュートンに匹敵する地位を、フックが17世紀の実験科学において占めていたことを明らかにする。そして、力学史、光学史といった科学の理論的営みに焦点を当ててきたこれまでの科学史の歴史記述が批判され、実験哲学の歴史を、理論哲学の歴史と同様に重視する必要性が強調されるのである。

審査要旨

 本論文は、17世紀における西欧近代科学の形成に大きな貢献をしながら、ライヴァル、アイザック・ニュートンの影に隠れて、これまで十分な歴史的考察の光が投ぜられてこなかったロバート・フックの生涯と科学的業績を本格的に論じたものである。とくにフックの前半生に関して、これまでのいくつかの通説を正し、比類のない正確さで、生涯の軌跡を辿り直した。また、フックの科学研究スタイルについては、光学・天文学研究、とりわけ望遠鏡の製作・改良に焦点を当て、理論に重点を置く伝統に対して、実験観測の側面を重視する視点の確立にフックが大きく寄与していることを確認した。これまでのフックの科学的経歴に関する研究は多くなく、今後、国際的にも高く評価されるものと期待される。

 論文は大きく二部に分けられる。第一部「フックの略歴と科学的研究の概要」は、フックの生い立ちの略述と、彼の自然科学研究の近代科学史の流れにおける位置付けに割かれている。フックの伝記の部分において中島氏は、生地を調査し、父ジョン・フックの遺書を発見したのを始め、ロバート・フックの学歴を詳細に跡づけ直した。オックスフォード大学卒業にまつわるこれまでの疑念を晴らすことも試みられている。さらにフックの科学的活動の中心であったロンドンにおけるロイヤル・ソサエティとグレシャム・カレッジの学問的性格をも先行研究により特徴づけ、フックが理論と実践の交錯する特異な研究伝統の中にあったとしている。

 第二部「フックの天文学・光学研究」では、ニュートンらに比べて、これまでどうしてフックに焦点が当てられて来なかったのかを省みている。フックというと、バネの伸び縮みに関するフックの法則や、著書『ミクログラフィア』における顕微鏡を通じての細胞の観察などによってしか知られていなかった。あるいはせいぜいニュートンに楯突いた科学者としてその名前のみがわずかに知られているに過ぎなかった。戦後になって地質学や時計の改良に関して多少評価が改まっただけと言ってよかった。

 このような研究情況を突破するのに、中島氏はフックの光学・天文学研究に焦点を当て、同時代のコンテクストの中に捉え直す。とくに当時の先端科学技術の一つと目される望遠鏡製作においてフックが演じた巨大な役割を明らかにしている。望遠鏡の製作を通して天文現象に関する従来の知見を大きく正した重要な科学者にガリレオ・ガリレイがいる。太陽黒点や、太陽系の諸惑星の形状の観測を望遠鏡の性能を高めることによってを体系的になし、改良していったのがガリレオであった。中島氏は、この研究伝統を「ガリレオ・パラダイム」と呼び、フックがこの伝統の新たな段階に位置していたことを確認する。17世紀半ばの英国で、この研究伝統は、たんにガリレオが成し遂げたことを追認するのみならず、きわめて長い焦点距離をもつ望遠鏡(長大望遠鏡)を駆使して遂行するようになっていた。フックは英国におけるこの研究伝統の先頭に立ち、ポーランドの天文学者ヘヴェリウスらと論争したり協力したりしながら、研究の前線を前進させていった。たとえば、フックは地球の公転運動を証明するための恒星の視差を検出しようとして天体の精密観測に取り組み、そのために接眼マイクロメーターを改良したりした。これらの精密天文観測技術は、1675年設立のグリニッジ天文台に受け継がれた。この例からも見られるように、フックは当時の観測天文学の最前線にいたものと考えられる。

 中島氏はこのようなフックの天文学研究に光を当てながら、17世紀後半の科学の研究伝統には、ニュートンの理論力学研究の代表作である『自然哲学の数学的諸原理』(プリーンキピア)などとは対照的な、「実験観測的伝統」といった側面があったことを証明しようとする。フックは、この伝統を自らが在職していたグレシャム・カレッジの同僚たちと共有し、しばしばニュートンの科学的業績をも出し抜くことができた。たとえば、ニュートンが誇りとしていた反射望遠鏡の実効に正当な疑義を呈することができた。したがって、ニュートンとフックの対立とこれまで言われてきたことがらは、たんに個人的な対立関係なのではなく、それぞれの属する研究伝統のスタイルの相違から説明されるべきものなのである。フックはそれゆえ、17世紀後半の英国における実験観察に重点を置く科学研究伝統の代表的人物として理解できる。彼は望遠鏡、顕微鏡、真空ポンプ製作を通して科学の前線の拡大に貢献した科学者であったのである。

 中島氏は、したがって、たんにフックの生涯と業績に関して新たな知見を打ち出したのみならず、17世紀の科学研究伝統にあった理論的傾向と実験観察を重視する傾向を明らかにするという一般的な考えをも提出した。フックの天文学研究をさらに一般的な科学研究にまで射程を延ばすべきであるとか、理論的傾向をそう軽視すべきではないとか、もっと科学技術研究の社会的次元に光を当てるべきであるとかの批判的意見も出されたが、中島氏はこれらのより深化されるべき点をよく認識しており、今後のさらなる研究で発展させられると判断される。審査委員会全員は、本学位論文はそれ自体で十分な研究レヴェルに到達しているということについて一致し、それゆえ中島氏が博士(学術)の学位を授与されるに値すると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50929