学位論文要旨



No 212180
著者(漢字) 棚本,哲史
著者(英字)
著者(カナ) タナモト,テツフミ
標題(和) 拡張t-J模型の磁気的性質
標題(洋) Magnetic Properties of the Extended t-J Model
報告番号 212180
報告番号 乙12180
学位授与日 1995.03.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12180号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 今田,正俊
 東京大学 教授 安岡,弘志
 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 助教授 永長,直人
内容要旨

 酸化物高温超伝導の発見以来多くの実験的、理論的な研究がなされてきたが、その超伝導の発現機構についての理論的解明は未だ不完全である。

 高温超伝導酸化物には共通してCuO2面が存在する。絶縁体状態ではCu(3d9)O(p6)という電子状態を有し、ホールは酸素サイトにドープされ、系は2次元の強相関電子系としての振る舞いを示す。

 スピン励起は低エネルギーの電子物性に大きな役割を果たす。実験的には中性子散乱や核磁気共鳴(NMR)などの手段により調べることができる。中性子散乱の実験においてはLa2-xSrxCuO4(LSCO)とYBa2Cu3O6+x(YBCO)は波数ベクトル空間でそれぞれ非整合(IC)ピーク及び整合(C)ピークが見られ、超伝導状態においてそのICピークが崩れず、残るのに対して、Cピークは強度が弱くなることが明らかにされている。

 これに対してNMRの実験はYBCOにおいては60K系物質と90K系物質で、本質的な違いがあることを示している。これは最初Riceによって指摘され、後に一般的に議論された。即ちKnight Shift K,核磁気緩和率,及びがドーピング領域で異なった振る舞いを示し、高濃度側(以下、H-regionと呼ぶ)ではそれぞれが極大値を持つ特徴的温度TS、TR、TCはほぼ一致するのに対して低濃度側(以下、L-regionと呼ぶ)ではTS>TR>TCの関係式が成り立つ(図1)。

 このような実験的なアプローチに対して理論的には、守谷、Pinesらは現象論的な見地から反強磁性的なスピンゆらぎに重点をおいた理論を展開している。一方BulutとScalapinoは単一バンドHubbard model、Levinらはd-p modelに基ついたミクロな見地からの説明を試みているがいずれも完全なものとは言えない。

 本論文ではt-J modelに基づいた理論的考察を行う。

 このt-J modelはCuO2平面の電子状態を表現するd-p modelから導出された単一バンドモデルであり、高温超伝導体の低エネルギー励起をよく記述するモデルと考えられている。

 t-J modelについても多くの理論的な研究がなされてきた。特にNagaosaとLeeはslave-boson法に基ついてt-J modelによる輸送現象を調べ、一様なResonating Valence Bond(u-RVB)状態が高温超伝導体の常伝導相を記述する有望な候補であることを示した。このRVB理論は強い量子揺らぎにより磁気秩序が壊され、スピンが一種の液的状態になっている場合のスピン系を記述する理論で、Andersonにより1973年に提唱された。slave-boson法による平均場の範囲では電子のスピン自由度と電荷自由度は分離され、それぞれはspinon、holonと呼ばれる準粒子となる。一様RVB状態はこのspinonが大きなフェルミ面を持つ状態であり、実験と整合する。

 本論文の目的はt-J modelの磁気的な性質を明らかにするところにあるが、本研究の主たる動機はSuzumuraらの示したt-J modelの平均場の相図と実験の相図の類似である(図2)。t-J modelの平均場には3つの特徴的な温度TD、(spinonとholonのcoherentな運動が生じる温度)TRVB、(spinonの一重項対の生じる温度)TB(holonがBose凝縮する温度)が現われ、L-regionではTRVB>TBの関係が、H-regionではTRVB<TBの関係がある。それぞれの領域においてTRVBとTBのうち低い方の温度を超伝導転移温度TCとみなすことが出来、実験的に得られているものと同様な相図が得られる。

 我々はこのt-J modelの磁気的な性質をslave-boson法によりRPAに基ついた平均場理論の範囲で調べた。我々はt-J modelを拡張し、実験的に発見されているフェルミ面(典型的にはLSCO型とYBCO型)に合致するように次近接及び次々近接のtransfer integralを取り入れ、Knight Shiftや核磁気緩和率、中性子散乱などの実験に対応する物理量を計算した。

 超伝導相(s-RVB状態)のクーパー対としては分子場近似の解であるd波を採用している。

 t-J modelは以下のように与えられる、

 

 slave-boson法では電子の演算子cisはスピン1/2のフェルミオンの自由度を持つ演算子fisと電荷eのボソンの自由度を持つ演算子biを用いてcis=bi+fisのように表される。この記述法を用いると各サイトに電子が二つ以上存在してはいけない説いう条件は、各サイトにおいて

 

 と表される。このような局所束縛条件はこのままでは解けないので、全系での平均的な条件(大局的束縛条件)で近似する。このとき式(1)に対して考えられる可能な分子場の秩序変数は、及びである。このうちで,を取り、これらが(i-j)のみ依存すると仮定して分子場の連立方程式を自己無撞着に解く。このとき、電子のフェルミ面はspinonのそれであり、式(1)でtijを次近接(t’)及び次々近接(t")のサイトまで取り入れることにより、フェルミ面の形を光電子分光の実験の結果と一致させるようにする。LSCO型ではt’/t=-1/6,t"/t=0、YBCO型ではt’/t=-1/6,t"/t=1/5の値を取り入れた(図3(a)(b))。但し、フェルミ面の形だけ見れば、YBCO型はt’/t=-1/2,t"/t=0のように取ることができる(図3(c):YBCO(II))。

 t-J modelでの動的帯磁率(,)はJの項をRPAで取り扱うことにより得られ、

 

 で与えられる。ここで、0(,)は自由なspinonの動的帯磁率、及びJq=J(cosqx+cosqy)である。以上の定式化により以下のような結果が得られた。

 まず、常伝導状態(u-RVB状態)ではフェルミ面の違いにより一様帯磁率(=0)の依存性を計算した結果は実験的に知られている、LSCO型のIC構造とYBCOのC構造の違いを示すことが分かった(図4)。LSCO型のIC構造は(,)の=(,)付近のフェルミ面の強いnestingの結果であり、YBCO型の場合,(,)自体はBrillouinゾーンのほぼ全領域にわたって同じ値をとり、むしろ依存性がC構造の性質を決定していることが分かった。更にLSCO型拡張t-J modelのIm(,)に現れるICピークの高さの温度依存性は励起エネルギーの値により異なった特徴を示す(図5)。=0.01Jと=0.05Jの場合は温度が下がるにつれてICピークの高さは増加し、T=TRVBでs-RVBのオーダーパラメーターの形成により減少しはじめる。これに対して=0.1Jの場合はT=TRVB以下でも増加し続ける。これらの温度依存性はTC=TRVBとした場合、Masonらの中性子散乱の実験結果と一致する。彼らは図6で及びでのIm(,)の極大(図では(T)及び(T))がTC以下で同様の温度依存性を示すことから(図6(a))、この系の超伝導の対称性はcleanなd波ではなく、ギャップのないs波であろう、と緒論した。この実験結果に対して、我々は以下のような理由から超伝導の対称性がd波と矛盾しないものであることを示した。(1)d波の場合、低温ではIm(,)がIm(,)より小さくなるのであるが、その一致する温度は不純物等の乱れにより低温側にシフトすること(図6(b))。(2)低温でもでのピークの高さは空間である程度の広がりがあるのに対して、では広がりが極めて狭い構造をしていることが実験での観測される強度を減らしていると考えられる。これらのことからMasonらの中性子散乱の実験結果はd波超伝導を否定するものではないと言える。

図表図1 / 図2 / 図3 / 図4

 一方、YBCO型拡張t-J modelに対するIm(,)の温度及び依存性はTC=TRVBとした場合Rossat-Mignodらの中性子散乱の実験結果とよい一致をする(図7)。これは、(1)Im(,)は常伝導状態(T>TRVB)での小さい領域で対してに直線的に増加し、(2)s-RVB状態(T<TRVB)でスピンギャップ構造が見られる。(3)〜50meVでIm(,)にcut-off構造が生じる。低温でのCピークの濃度依存性はLSCOの場合と同様にの値により、特徴的な温度依存性を示す。これはTranquada等の実験結果と一致する。一方、実験結果との不一致も存在する。(1)スピンギャップのドーピング依存性は実験に比べて小さい。(2)TRVB以下でIm(Q,)の励起エネルギーのピーク(〜20meV)は実験結果(〜50meV)と一致しない。これらのくい違いの原因は現在のところは未解決である。

 Knight Shiftに対応する静的帯磁率(q=0)の温度依存性はPauliのスピン常磁性と同じく常伝導状態(u-RVB状態)では温度依存性がない。これはcorrection factor、C-1(,)=1+0(,)のq=0付近の振る舞いを反映したものであり、これはの強い温度依存性の原因となるq=0付近のenhancement効果と対照的である。これらはH-regionでのLSCO及びYBCOの実験結果と一致している。核磁気共鳴の緩和率については、銅サイトのT1Tは高温領域で明瞭なCurie-Weissの法則を示す。実験と同じくWeiss温度はドーピング濃度に直線的に増加する。

 K,,の温度依存性はTCをTRVB同一視すればH-regionの実験とよい一致を示す(図8)。

図表図5 / 図6 / 図7 / 図8

 これに対してL-regionの場合は現在の平均場の範囲ではK、,の極大値の現れる温度の違いを説明することは出来ないが、TRをTRVBと同一視できる可能性を指摘される。

 このL-regionでの問題は本論文では考察しなかった分子場まわりの揺らぎであるゲージ場や或いは電子-フォノン作用の重要性を示唆している可能性もあるが、それを明らかにするのは今後の課題である。

 以上本論文では平均場の範囲内で拡張t-J modelの磁気的な性質を調べその妥当性と限界を示した。その結果高温超伝導体の多くの性質を理解することが可能になったと同時に様々な問題についても基本的に指摘することが出来た。

審査要旨

 理学修士棚本哲史提出の論文はスレーヴボゾン法と呼ばれる手法にもとづく平均場近似に立脚し、磁気的性質を乱雑位相近似で取り扱って拡張t-J模型の性質を理論的に研究したもので、英文で7章からなる。

 銅酸化物超伝導体の発見以来、強相関電子系の研究は新しい局面を迎えた。磁性と超伝導の出現のメカニズム、および金属相における種々の異常な現象に対する理論的研究はいまなお広範にひろがりつつあると同時に、一方でいくつかの根本問題がその中から凝縮されてきている。強相関電子系の理論が採るべき枠組みと基礎の方向が見えつつあるある段階と言ってよい。一方、それとは別に銅酸化物超伝導体に関しては詳細な実験データが蓄積されてきており、実験データに対する定量的な理解をめざした研究も展開されつつある。本研究はこのうちの後者に属する研究と言ってよい。具体的にはt-J模型に対して、スレーヴボゾン法にもとづく近似を行い、その結果得られるRVB(共鳴原子価)状態をもとに、さらに乱雑位相近似(RPA)を行って、銅酸化物高温超伝導体の磁気的性質に関する核磁気共鳴と中性子散乱の実験データをどの程度再現できるかを吟味したものである。

 理論模型としてt-J模型を採用するにあたっては本研究に先立ついくつもの研究があり、強結合展開の立場からその理論的基礎づけは一定程度確立している。一方、スレーヴボゾン法にもとづく近似は銅酸化物超伝導体のいくつかの実験データとの整合性を根拠にした本研究での仮定である。またRPAは、磁性相関を研究するにあたって採りうる最も簡単な近似の一つであり、種々の物理量の実験結果との比較を可能にする。

 以上の近似にもとづいて得られる結果と実験データとを比較して、概ねあるいは部分的に一致の見られるものには次のようなものがある。

 1)La系銅酸化物とY系銅酸化物でのフェルミ面の違いにもどづく、磁気散乱のピークの形の違い。具体的にはLa系でインコメンシュレートなピークを持つことがあり、Y系では常にコメンシュレートである。

 2)おおざっぱに見たときに、一重項RVB状態によってY系に見られる擬スピンギャップの発生を模することができる。特に核磁気共鳴の緩和時間T1からもとめられる(TT1)-1が超伝導転移温度以上でピークを持つ構造を再現し、中性子散乱データでのギャップ構造もある程度再現する。

 3)T1が高温領域でキュリーワイス則に従う温度変化をする。

 一方、現状の実験事実との不一致を示す点をいくつか挙げると、

 4)La系超伝導相でのインコメンシュレートピークの構造と温度依存性について、本研究では顕著な依存性を予測するが実験的には観測されていない。この点については本論文でいくつかの議論がなされているが、不一致に対するじゅうぶんな根拠とはなっていない。

 5)Y系スピンギャップ相での動的帯磁率のエネルギー依存性におけるピークの構造、特に最大ピークの位置がずれている。またドーピング依存性もずれている。

 6)一様帯磁率が低ドーピング領域で示す、擬ギャップ的な構造を再現しない。

 7)一様帯磁率の大きさのドーピング濃度依存性が定性的に反対の傾向を示す。

 8)実験データと比較しようとすると、この理論での対応するドーピング濃度として適当な領域がRPAでの反強磁性不安定点の非常に近くに限定され、この範囲では、実験データに比べて、反強磁性相関が強すぎる。但しこの不一致点については本論文での考察はじゅうぶんではない。

 このうち、本論文提出者の考察によるオリジナルな貢献として2)、3)、5)、6)が認められた。

 全体として本論文は、スレーヴボゾン近似をもとにRPAで計算し得る磁気的物理量をはじめて詳細に調べたものであり、立脚点の持つ限界と妥当性を一定程度まで吟味検討したものとして評価できる。また本論文での考察において不充分な点もある。たとえば、スレーヴボゾン近似にもとづくRVB状態だけが示し得る特徴を抽出し、他の手法と比較した優位性を議論する問題が不充分であることや、実験データとの一定の一致を示した問題の物理的根拠、たとえばキュリーワイス則がどういうメカニズムによって導かれているのかの考察が見られないなど枚挙にいとまがない。

 しかしながら、これらの問題は、本論文の成果をもとに、さらに今後の課題として本論文提出者が将来にわたって明らかにするべきテーマである。以上のような議論をもとに、本研究は今後この方面での研究の進展に貢献できるものと認められ、審査員全員により博士(理学)の学位論文として合格として判定された。

 なお本研究は、指導教官福山秀敏教授、助手河野浩博士、また神戸大学久保木一浩博士との共同研究の部分があるが、主要部分について論文提出者が主たる寄与をなしたものであることが認められた。

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