自然界で我々が目にする様々な空間構造は、大別して2つのタイプがある。一つは結晶や線型な波、孤立波等、定常的で規則的な物である。これらは特徴化が簡単で解析が容易であり、伝統的な物理概念の主役を担ってきた。もう一つは、乱流、液体、微粒子、等であり、秩序構造の存在は認められるものの、非定常で不規則であるがために特徴化が難しく、平均化された量を計算する事以外には解析が容易ではなかった。そのために、これらの秩序が存在する事すら時として忘れられがちである。カオスが再発見されてから30年位になるが、カオスに対する一つの期待は、不規則な秩序構造を記述しさらには理解する鍵を与えてくれるのではないか、という事である。
この論文では、多自由度のハミルトン力学系における秩序の自己形成がカオスを用いる事によって可能である事を、例を用いて示す。例としては、大域結合を持つ保存系のcoupled map latticeをとる。ここでは粒子が集団を形成して運動するクラスター的秩序相が見られる。
論文では、まずハミルトン力学系におけるカオスを紹介し、その解析手法をまとめた。次に、これまで主に関心が集まっていた、古典統計力学の基礎としてのハミルトン力学系のカオスの振る舞いに関する仕事を紹介した。その後、本論に入り、熱平衡では捉えられない運動形態として、coupled map latticeでのクラスター運動について、数値的データをもとに議論を展開した。その結果、ハミルトン系でもカオスをうまく使う事により秩序運動が可能である事が分かった。以下、もう少し詳しく述べる。
モデル 1次元N粒子系のcoupled mapで大域結合をもちsymplecticであるものとして、粒子i(=1,2,…,N)の座標xiと運動量piの時間発展が次式で定義されるものを考える。
K>0では引力の、K<0では斥力の長距離相互作用を持つ。この系は、図に示す様に、|K|が小さい時には初期条件により、粒子間の相関がほとんど無い相(無秩序相)あるいは非常に強い相(秩序相)の2通りの運動形態を持つ。K>0(引力)の場合には秩序相では粒子が1つの大きなクラスターを作って運動する。
図表図1:秩序相での運動 / 図2:無秩序相での運動 系の軌道不安定性を特徴付けるリヤプノフスベクトルが正の値を持つ事に依り、秩序相・無秩序相ともにカオスである事が分かった。系が多自由度であるために、ふたつのカオス状態は相空間内で繋がっている。その結果、系は秩序相と無秩序相の間を時間的に行き来する事になる。秩序相に滞在する時間の分布はべき的であり、特徴的な滞在時間スケールというものは存在しない。一方、無秩序相への滞在時間分布は指数的であり、無秩序層から秩序層への移行過程は乱数で駆動される系と本質的に等しい。
リヤプノフ数そのものから系がカオスであるか否か以外の情報を得るのは難しく、そのために測ってもあまり意味がない量とも考えられるが、リヤプノフ数の揺らぎの振る舞い、および、リヤプノフ数に属する固有ベクトルを吟味する事により、系の動的な振る舞いに対して有意義な情報を引き出す事が出来る。まず、固有ベクトルからは、系全体の軌道不安定性をクラスター秩序構造の運動の不安定性という巨視的な不安定性と、内部粒子の相対運動に関する局所的な不安定性に分離する事に成功した。次に、リヤプノフ数の揺らぎの性質を調べる事により、秩序層ではべき的な長時間相関があるが、無秩序層ではそれが無い事が分かった。
さらに、秩序構造の相空間内での分布の様子を直接測定する事により、この秩序構造は、KAMトーラスや周期軌道の階層の残骸にトラップされている事が分かった。これまで記してきた様に、他のデータから調べられた性質も、秩序層がKAMトーラス近傍のカオス領域の性質を強く持っている事を支持している。
まとめると、秩序相・無秩序相の違いは結局は相空間の中に2種類の異なる性質のchaotic seaが共存している事から来る。秩序相側はハミルトン系の自己相似的な相空間構造を反映したものであり、もう一方はほとんどホワイトノイズ的なものである。その様子は次の表にまとめられる。
2種類のカオス領域 秩序層・無秩序層それぞれの性質が分かったので、それらの間の遷移課程を調べてみた。系がある状態から別の状態へ遷移する際に、それが熱的な揺らぎが重なって起きるのかそうではないのかを考えてみたい。もしも熱揺らぎが主な要因であれば、高次元の配位空間にポテンシャル関数を考えてそのバリアを超える確率をボルツマンウェイトで評価する事が出来よう。一方、系の内部で相関が強い場合にはその様な方法が採れない事が予想される。
ここでは構造遷移の際の協同性を見る手法をテストしてみた。K>0の場合にクラスターが崩壊する過程での、各粒子ごとのリヤプノフベクトルを見てみる。これは、系の不安定性が増大する方向を調べている事になるので、揺らぎが協同的なものかそうではないものかを判断する事が出来ると考えられる。結果は非協同的であった。これは、クラスター→乱雑という、秩序→無秩序の遷移であるためと考えられる。水や微粒子の様に、複数の秩序相を顕著に持つ系でその秩序相たちの間の遷移過程を調べてみると良いかも知れない。
この研究で用いた手法では、どれか1つの特性量の1つの値(例えば平均値)で系を判断すると言うよりは、その量の相空間内での分布の様子を調べる事を重視した。いわば、相空間を解剖してダイナミクスとの関連を調べるというこの手法は、primitiveではあるが強力である。
この論文では、ハミルトン系のカオスで秩序形成が可能である事を示した。これは2つの意味で新しい。まず、ハミルトン系の振る舞いとして新しい事。ハミルトン系の振る舞いとしてこれまで良く知られていたのは1/f揺らぎ的な長時間相関を持った運動と、熱平衡状態である。空間的な秩序構造をもった運動は両者どちらにも含まれない。また、秩序形成を保存系の枠内で論じたという点も新しい。もう一つは、「カオス」と「秩序」という、一見正反対の性質を統合した運動を発見し、その運動が可能である理由を理解した事。この運動の本質は、異なる性質を持った複数のカオス状態の共存にある。一つのカオス状態が相空間全体を占める場合には、系の運動は概ね一様で対称的な乱雑な物になりがちである。が、複数のカオス状態を共存させ、それぞれに系がしばらく留まる様になっている場合には、カオスによって対称性を破った状態が存在し得る。
今後の課題としていくつか挙げられる。まず、高次元のハミルトン系のダイナミクスを理解する方法を更に開拓する事、秩序状態が複数あるような系で、構造転移のダイナミクスを探る事、具体的な系への応用を考える事、などがある。天体力学系への応用はすでに一部試みられ、楕円銀河の回転対称性が破れている事の説明として提案されている。