学位論文要旨



No 212186
著者(漢字) 橋本,惇
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ジュン
標題(和) 相模湾・鹿児島湾・南奄西海丘における化学合成生物群集の生態と分布に関する研究
標題(洋) Studies on ecology and distribution of the chemosynthetic communities in Sagami Bay,Kagoshima Bay and the Minami-Ensei Knoll
報告番号 212186
報告番号 乙12186
学位授与日 1995.03.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12186号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,秀
 東京大学 教授 沖山,宗雄
 東京大学 助教授 雨宮,昭南
 東京大学 助教授 白山,義久
 国立科学博物館 室長 武田,正倫
内容要旨

 1977年にガラパゴス沖の大洋底拡大軸上の熱水噴出孔に会合する生物群集が発見された。この生物群集はテクトニックな機構で地中から浸出する物質の化学エネルギーを利用する微生物を基幹とする化学合成生態系であることが明らかとなり、太陽エネルギーに依存しない深海化学合成生態系発見の嚆矢となった。日本周辺では、1984年に相模湾の初島沖の水深1200m地点において、シロウリガイを優占種とする高密度の深海生物群集が潜水調査船「しんかい2000」により発見され、プレートが衝突する圧縮場での間隙水の湧出がその背景であると解釈された。日本列島の東岸はテクトニックに活動的な太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートおよび北米プレートの収束域に位置する。そして、西側には沖縄トラフなど拡大を開始しつつある背弧海盆が存在し、南方にはフィリピン海プレートの東端部に沿って多くの火山弧や海底火山が続いている。さらに、日本自体が活動的な島弧であり、火山活動やそれに伴う温泉が多数存在する。このような日本周辺の多様な地質・地球物理学的背景から、1984年以前には気付かれなかった深海の化学合成生物群集の発見が強く期待された。

 そこで、申請者らは次のような目的と計画の基に本研究を実施した。(1)日本周辺の深海域において化学合成生物群集を広く探索し、高密度で特異な生物群集と地質・地球物理学的背景との関連を明らかにする。(2)それぞれの生物群集と地質・地球物理学的背景について分布状態を詳細に記載し、相互の比較を行う。(3)鍵種の生活様式の観察と微環境を測定し、その生活を支える機構を実証する。(4)互いに隔離した化学合成生物群集の生物地理、拡散機構、類縁関係、進化についての考察基盤として各生物群集の生物相リストを作成する。このため、新種記載も併せて行う。

 1986年以降、マルチナロービームシステム、ディープトウシステム、潜水調査船、無人探査機などを駆使した一連の調査により、日本周辺の熱水噴出孔生物群集や冷水湧出帯生物群集を探索し、テクトニックに活動的な深海域および火山活動の活発な浅海域において、多くの化学合成生物群集を発見した。そして、各海域における生物群集の分布、群集組成、生息環境特性、生態学的特性に関する詳細な調査を行った。本論は、それら生物群集の内、深海の冷水湧出帯生物群集の例として相模湾、浅海における火山活動に伴う熱水性生物群集の例として鹿児島湾、深海の熱水性生物群集の例として中部沖縄トラフの南奄西海丘における調査結果を基に、化学合成生物群集の生態と分布について論じたものである。

第1章相模湾初島沖における化学合成生物群集調査とその特性

 シロウリガイとハオリムシ類を優占種とする化学合成生物群集は、相模湾初島沖急崖裾部の水深900から1200mの等深線に沿うように分布している。群集組成、シロウリガイ生息域海底下の約0.5℃の温度異常、海底直上水に含まれる高濃度のメタンは、海底下からの冷水湧出現象を示すものであり、10kgm-2を超えるシロウリガイの現存量は、一般的な漸深海帯の対応する水深に生息する深海生物群集のそれよりも3桁程高い値である。透過型電子顕微鏡によるシロウリガイの鰓に宿る共生細菌の確認、高濃度の硫黄の存在、硫黄や炭素の安定同位体比の測定結果を考え併せると、相模湾初島沖の冷水湧出帯生態系は、化学合成過程をエネルギー獲得機構とする細菌を基礎生産者とする深海生態系であり、ほぼ同時に発見されたオレゴン沖、ペルー沖および日本海溝などの生物群集を含め、プレートの収束域に成立する生態系であると一般化できる。

第2章相模湾初島沖のシロウリガイの生活様式と間隙水中の硫化水素濃度

 潜水調査船で操作しやすい半透膜を利用した簡易型間隙水採集器を作成し、相模湾初島沖のシロウリガイ生息場所の内外において、海底直上水および間隙水中の硫化水素濃度を測定した。この採集器は垂直方向に10cm毎の試料採取が可能である。海底直上水からは0.01mmolkg-1を超す濃度の硫化水素は検出されなかった。しかし、シロウリガイ生息場所における硫化水素濃度は海底面下10cm以深で急激に増大し、ほぼ0.5mmolkg-1以上であり、10から20cmに最も活発な硫酸還元層が存在すると考えられた。シロウリガイの亜成体から成体がほぼ直立する自然の姿勢では、底層水から酸素を摂取する水管の高さが海底面上0から5cmに位置し、硫化水素を摂取するため殻前縁が到達する深さが10から15cmである。このようにシロウリガイのサイズ、生活型や行動、硫酸還元層の位置と硫化水素濃度、底質の構造との間には密接な関係があることが実証された。また、シロウリガイの生息に適する硫化水素濃度は0.05から0.6mmolkg-1程度であることが示された。

第3章有光層におけるハオリムシの発見

 ハオリムシは、深海域における化学合成生物群集を構成する典型的な生物の一つと考えられてきた。しかし、1993年に鹿児島湾の水深82m地点において"たぎり"と称される火山性ガスの発泡現象と、それに伴う生物群集の探索を目的とした調査の際、数千個体のハオリムシ生息場所を発見し、ディープトウTVシステムに取り付けた小型ドレッジによる採集に成功した。鹿児島湾のハオリムシは、世界最浅記録というだけではなく光合成を行いうる有光層に生息するといった点で注目に値する。また、採集したハオリムシは、220日以上にわたり実験室内の水槽で飼育を継続している。熱水噴出孔生物を飼育し、その発生や生活史を追う貴重な系として確立しつつあり、とくに発生様式から系統を考察したり、幼生の分散機構の解明をめざしている。

第4章中部沖縄トラフの南奄西(みなみえんせい)海丘における熱水噴出孔生物群集の分布と生物地理

 1988年から1992年にかけ、奄美大島の西方約140kmに位置する南奄西海丘において、拡大を開始したばかりのリフト系における島弧型の熱水噴出現象と、それに伴う生物群集の調査を実施した。269℃を超し硫化水素とメタンのほか高濃度の二酸化炭素を含む熱水が勢いよく噴出するチムニーも観察された。また、酸性玄部岩質の岩石の割れ目からも熱水は湧出しており、粗粒砂底は広く灰白色変色域で覆われていた。南奄西海丘における熱水噴出孔生物群集は、熱水活動の中心部においてシンカイヒバリガイが優占し、その他ハオリムシ類、多毛類、腹足類、笠貝類、エンセイシロウリガイ、長尾類、短尾類、エンセイエゾイバラガニを含む異尾類および魚類で構成され、周辺の巨岩には夥しい海綿類が着生する。

 南奄西海丘の生物群集は、1000kmを超す距離的な隔たりと琉球海溝や琉球島弧存在にもかかわらず、海形(かいかた)海山の熱水噴出孔生物群集や相模湾の冷水湧出帯生物群集と多毛類、シンカイヒバリガイ類、短尾類などに形態種レベルで共通するものがあり、マリアナ背弧海盆、北フィジー海盆、ラウ海盆の熱水噴出孔生物群集とはそれよりもやや高次分類レベルで明らかな類縁がある。

第5章熱水噴出域と冷水湧出域周辺に生息するメガベントスおよびその特性

 1984年以来、日本周辺の化学合成生物群集の構成生物としてハオリムシ類、多毛類、二枚貝類、腹足類、異尾類など70種近いメガベントスが報告されており、多くが新種として記載されている。本研究においても、採集サンプルについて形態分類学的検討を行い、2種類のウロコムシ類(Branchipolynoepettiboneae,Opisthotrochopodas japonicus)、1種類のシロウリガイ類(Calypto-gena solidissima)、4種類のシンカイヒバリガイ類(Bathymodiolus platifrons,B.japonicus,B.aduloides,B.septemdierum)および1種類のエゾイバラガニ類(Paralomis jamsteci)を新種として記載した。これらの記載を積み重ねることは、化学合成生物群集間の生物相の直接的な比較や共通性、類縁性を明らかにするため不可欠なものである。

 申請者らの調査を通じて、日本周辺に多くの化学合成生態系が存在し、それらの特性も極めて多様であり、かつ時間的に遷移することが明らかとなった。日本周辺における化学合成生物群集の生息環境、生物組成や生物量はそれぞれ明らかに異なるが、たとえその地質学的背景や生息環境の物理化学的特性が異なっても、そこに生息する生物は高次分類レベルでは共通であり、日本周辺における優占種はシロウリガイ類、シンカイヒバリガイ類およびハオリムシ類である。換言すれば、各化学合成生物群集における高次分類レベルとその社会構造の高い類似性は、本論で述べたすべての生物群集の類縁系統関係もしくは平行現象を裏付けるものである。しかし、われわれは今や形態学や遺伝学的データから種分化や進化に関する直接的な証拠を持ち始めた。日本周辺の化学合成生物群集は、水平距離で数十kmから数千kmレンジで地理的に分布し、水深では100mから6500mの範囲に分布する。従って、これら日本周辺の化学合成生態系が、生物の種形成や伝播を明らかにするためのきわめて良きモデルとなっている。本論は、化学合成生物群集の伝播機構の解明、進化およびグローバルな生物地理学的考察を行うための基盤となろう。

審査要旨

 日本列島周辺にはプレートの収束・発散、火山活動などの多様な地質・地球物理学的立地条件が存在し、深海化学合成生態系の存在が強く期待されていた。申請者らは1986年以降、深海曳航体、潜水調査船、無人探査機などを駆使した一連の調査で、テクトニックに活動的な深海域と、火山活動の活発な浅海域で多くの化学合成生物群集を発見した。そして、各海域における生物群集の分布、群集組成、環境特性、生態的特性ならびに地質学的背景に関する調査を行った。本論はそれら生物群集のうち、深海冷水湧出帯生物群集の例として相模湾、浅海の火山活動に伴う熱水性生物群集の例として鹿児島湾、深海の熱水性生物群集の例として中部沖縄トラフ南奄西海丘の調査結果を基に、主として化学合成生物群集の生態と分布について論じている。本論は5章から構成される。

 第1章は相模湾初島沖急崖裾部の水深900〜1200mの等深線沿いに分布する生物群集を調査し、生物群集と地質・地球物理学的背景との関連を強く意識しつつ、分布状態とその特性を精細に記載したものである。シロウリガイとハオリムシを優占種とする群集組成、シロウリガイの巨大な現存量、かれらの生息域海底下の温度異常、海底直上水に含まれる高濃度のメタンは、海底下からの冷水湧出現象を示すものであるとした。従って相模湾初島沖の生態系は、化学合成過程をエネルギー獲得機構とする細菌を基礎生産者とする深海生態系であり、ほぼ同時に発見されたオレゴン沖、ペルー沖および日本海溝などの生物群集を含め、プレート収束域に成立する化学合成生態系と一般化できるとした。

 第2章は相模湾初島沖で鍵種となるシロウリガイの生活様式と微環境の観察と、間隙水中の硫化水素濃度を測定し、その生活を支える機構を実証したものである。潜水調査船で操作しやすい半透膜を利用した間隙水採取器を作成し、貝の生息場の内外において、海底直上水および間隙水を分析した。貝の生息場の海底面下10〜20cmに最も活発な硫酸還元層が存在し、そこにおける硫化水素濃度はほぼ0.5mmolkg-2以上であった。すなわち、シロウリガイのサイズ、生活型や行動、硫酸還元層の位置と硫化水素濃度、底質の構造との間に密接な関係があることを実証した。また、シロウリガイの生息に適する硫化水素濃度は0.05〜0.6mmolkg-2程度であるとし、生物の生息パターンから海底での物質フラックスを評価するための基礎データを提出した。

 第3章では鹿児島湾の水深約100mにおいて"たぎり"と称される火山性ガスの発泡現象と、それに伴う生物群集の調査を行い、サツマハオリムシの生息場所を発見し、採集に成功した。これはハオリムシの最浅記録というだけではなく、有光層に生息する点で注目に値する。さらに、実験室内の水槽で飼育を継続し、その発生や生活史を追う貴重な系として確立しつつあり、熱水生物の発生から系統を考察したり、幼生の分散機構を解明するための基礎を固めた。

 第4章では南奄西海丘の熱水噴出現象とそれに伴う生物群集の調査を実施し、精確な記載を行うと同時に生物地理学を論じた。当熱水域は拡大を開始したばかりのリフト系であり、高濃度の二酸化炭素を噴出する"島弧型"の熱水であった。また、作成した生物相リストから南奄西海丘の生物群集は、1000kmを超す距離的な隔たりと琉球海溝や琉球島弧の存在にもかかわらず、小笠原海形海山や相模湾の冷水湧出帯生物群集との間に形態種レベルで共通するものがあり、マリアナ背弧海盆、北フィジー海盆、ラウ海盆の熱水噴出孔生物群集とはそれよりもやや高次分類レベルで明らかな類縁があることを明らかにした。

 5章では互いに隔離した化学合成生物群集間の生物相の直接的な比較や共通性、類縁性を明らかにし、進化についての考察基盤とするため、熱水噴出域と冷水湧出域周辺に生息する各生物群集の鍵種であるメガベントスについて形態分類学的検討を行い、2種のウロコムシ類、1種のシロウリガイ類、4種のシンカイヒバリガイ類および1種類のエゾイバラガニ類を新種として記載した。

 以上のように申請者は本研究において、日本周辺に多くの化学合成生態系が存在し、地理的には数十kmから数千kmレンジで、水深では100mから6500mの範囲に分布し、それらの特性も極めて多様であり、かつ時間的に遷移することを明らかにした。各化学合成生物群集における生物とその社会構造の高い類似性は、すべての生物群集の類縁系統関係を示唆すると同時に、多くの新知見をもたらした。われわれは今や形態学や遺伝学的データから種分化や進化を証明する手段を持ち始めた。これら日本周辺の化学合成生態系は、生物の種形成や伝播を明らかにするための極めて良きモデルとなる。ゆえに、本論は最近の重大テーマである化学合成生物群集の伝播機構の解明、進化およびグローバルな生物地理学的考察を行うための基盤を本論文が提出したこととなり、その意義と関連諸分野に与えたインパクトを高く評価できる。また、これらの研究を通じ、申請者が生物学の幅広い分野に充分な学識を持つものであることが確認された。

 なお、本論文第1〜5章は太田秀、奥谷喬司、小坂丈予、酒井均、鋤崎俊二、武田正倫、田中武男、藤倉克則、藤原義弘、堀田宏、松澤誠二、三浦知之氏らとの共同研究であるが、常に論文提出者が主体となって解析・考察および記載を行ったもので、論文提出者の寄与が充分であると判断する。

 したがって審査委員会は本論文が博士(理学)の学位論文に相当するものと認める。

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