日本列島周辺にはプレートの収束・発散、火山活動などの多様な地質・地球物理学的立地条件が存在し、深海化学合成生態系の存在が強く期待されていた。申請者らは1986年以降、深海曳航体、潜水調査船、無人探査機などを駆使した一連の調査で、テクトニックに活動的な深海域と、火山活動の活発な浅海域で多くの化学合成生物群集を発見した。そして、各海域における生物群集の分布、群集組成、環境特性、生態的特性ならびに地質学的背景に関する調査を行った。本論はそれら生物群集のうち、深海冷水湧出帯生物群集の例として相模湾、浅海の火山活動に伴う熱水性生物群集の例として鹿児島湾、深海の熱水性生物群集の例として中部沖縄トラフ南奄西海丘の調査結果を基に、主として化学合成生物群集の生態と分布について論じている。本論は5章から構成される。 第1章は相模湾初島沖急崖裾部の水深900〜1200mの等深線沿いに分布する生物群集を調査し、生物群集と地質・地球物理学的背景との関連を強く意識しつつ、分布状態とその特性を精細に記載したものである。シロウリガイとハオリムシを優占種とする群集組成、シロウリガイの巨大な現存量、かれらの生息域海底下の温度異常、海底直上水に含まれる高濃度のメタンは、海底下からの冷水湧出現象を示すものであるとした。従って相模湾初島沖の生態系は、化学合成過程をエネルギー獲得機構とする細菌を基礎生産者とする深海生態系であり、ほぼ同時に発見されたオレゴン沖、ペルー沖および日本海溝などの生物群集を含め、プレート収束域に成立する化学合成生態系と一般化できるとした。 第2章は相模湾初島沖で鍵種となるシロウリガイの生活様式と微環境の観察と、間隙水中の硫化水素濃度を測定し、その生活を支える機構を実証したものである。潜水調査船で操作しやすい半透膜を利用した間隙水採取器を作成し、貝の生息場の内外において、海底直上水および間隙水を分析した。貝の生息場の海底面下10〜20cmに最も活発な硫酸還元層が存在し、そこにおける硫化水素濃度はほぼ0.5mmolkg-2以上であった。すなわち、シロウリガイのサイズ、生活型や行動、硫酸還元層の位置と硫化水素濃度、底質の構造との間に密接な関係があることを実証した。また、シロウリガイの生息に適する硫化水素濃度は0.05〜0.6mmolkg-2程度であるとし、生物の生息パターンから海底での物質フラックスを評価するための基礎データを提出した。 第3章では鹿児島湾の水深約100mにおいて"たぎり"と称される火山性ガスの発泡現象と、それに伴う生物群集の調査を行い、サツマハオリムシの生息場所を発見し、採集に成功した。これはハオリムシの最浅記録というだけではなく、有光層に生息する点で注目に値する。さらに、実験室内の水槽で飼育を継続し、その発生や生活史を追う貴重な系として確立しつつあり、熱水生物の発生から系統を考察したり、幼生の分散機構を解明するための基礎を固めた。 第4章では南奄西海丘の熱水噴出現象とそれに伴う生物群集の調査を実施し、精確な記載を行うと同時に生物地理学を論じた。当熱水域は拡大を開始したばかりのリフト系であり、高濃度の二酸化炭素を噴出する"島弧型"の熱水であった。また、作成した生物相リストから南奄西海丘の生物群集は、1000kmを超す距離的な隔たりと琉球海溝や琉球島弧の存在にもかかわらず、小笠原海形海山や相模湾の冷水湧出帯生物群集との間に形態種レベルで共通するものがあり、マリアナ背弧海盆、北フィジー海盆、ラウ海盆の熱水噴出孔生物群集とはそれよりもやや高次分類レベルで明らかな類縁があることを明らかにした。 5章では互いに隔離した化学合成生物群集間の生物相の直接的な比較や共通性、類縁性を明らかにし、進化についての考察基盤とするため、熱水噴出域と冷水湧出域周辺に生息する各生物群集の鍵種であるメガベントスについて形態分類学的検討を行い、2種のウロコムシ類、1種のシロウリガイ類、4種のシンカイヒバリガイ類および1種類のエゾイバラガニ類を新種として記載した。 以上のように申請者は本研究において、日本周辺に多くの化学合成生態系が存在し、地理的には数十kmから数千kmレンジで、水深では100mから6500mの範囲に分布し、それらの特性も極めて多様であり、かつ時間的に遷移することを明らかにした。各化学合成生物群集における生物とその社会構造の高い類似性は、すべての生物群集の類縁系統関係を示唆すると同時に、多くの新知見をもたらした。われわれは今や形態学や遺伝学的データから種分化や進化を証明する手段を持ち始めた。これら日本周辺の化学合成生態系は、生物の種形成や伝播を明らかにするための極めて良きモデルとなる。ゆえに、本論は最近の重大テーマである化学合成生物群集の伝播機構の解明、進化およびグローバルな生物地理学的考察を行うための基盤を本論文が提出したこととなり、その意義と関連諸分野に与えたインパクトを高く評価できる。また、これらの研究を通じ、申請者が生物学の幅広い分野に充分な学識を持つものであることが確認された。 なお、本論文第1〜5章は太田秀、奥谷喬司、小坂丈予、酒井均、鋤崎俊二、武田正倫、田中武男、藤倉克則、藤原義弘、堀田宏、松澤誠二、三浦知之氏らとの共同研究であるが、常に論文提出者が主体となって解析・考察および記載を行ったもので、論文提出者の寄与が充分であると判断する。 したがって審査委員会は本論文が博士(理学)の学位論文に相当するものと認める。 |