学位論文要旨



No 212191
著者(漢字) 塚本,元
著者(英字)
著者(カナ) ツカモト,ゲン
標題(和) 中国における国家建設の試み : 湖南一九一九〜一九二一年
標題(洋)
報告番号 212191
報告番号 乙12191
学位授与日 1995.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第12191号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,太一郎
 東京大学 教授 近藤,邦康
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 佐藤,慎一
 東京大学 教授 馬場,康雄
内容要旨

 本論文は、近代中国における国家建設(ステイト・ビルディング)がいかに進行していったかという視角から中国近代政治史を再把握することによって、辛亥革命以後北伐の開始に至る(1913年から26年)中国政治の歴史的特徴を明らかにしようとするものである。一面においては混乱を極めたこの段階においても国家建設が着実に進行していった過程に着目したい。ここでは、当時の中国の政治構造全体のなかで非常に重要な位置を占める省レベルの政治-具体的には1919年から21年に至る湖南省の政治-を主たる分析対象とし、そこから全中国の問題に迫っていく。また、「省エリート」という、当時の政治勢力をとらえる新たな概念を導入し、これを基軸に湖南の政治勢力のとらえ直しを行なう。

 近年中国をめぐる内外の情勢が大きく変化するのにともなって、日本の学界では新たな近代中国像の構築が緊急の課題となっていると考えられる。しかし、近代中国政治を分析する新たな認識枠組みの提示は、なお必ずしも十分な形でなされているとは言い難い。また、正面から中華民国期の省レベルの政治の現実のあり方を明らかにすることをめざした研究は従来日本では比較的少なかった。そのような学界状況において、「国家建設」と「省エリート」という新たな概念を基軸に、近代中国政治史に従来の研究とは異なる視角を提示しようとする本論文は、大きな意味があるものと考える。また、省レベルの政治のあり方を正面から扱い、しかも、省レベルの分析から全中国の問題に迫っていこうとする点に本論文の大きな特徴がある。

 1917年から26年の中国には、ともに中華民国の正統の中央政府と自己主張する北京政府と広東政府が南北に対峙するという政治的正統性の側面における南北対立と、各省が事実上独立状態にあるという権力政治の側面における中国分裂とが組み合わさった特有の政治構造が存在した。南北両陣営の境界に位置する湖南省の政治は、外部勢力である北洋系勢力(中国の北部から中部にかけての広大な地域を支配していた)と地元の政治勢力である湖南支配層(南方陣営に属した)との対抗関係を基軸に進行していくことになる。

 1918年北洋系勢力は武力によって湖南を直接の支配下に収め、張敬尭政権を樹立した。翌1919年には全国的な五四運動の高揚のなかで、湖南でも反日ナショナリズム運動が大きく盛り上がることになった。この反日ナショナリズム運動の過程において、初めて「非伝統的大衆運動」が展開され、その指導者である「革新的知識人」が歴史に登場してきたことは大きな歴史的意味を持っていた。張敬尭政権が反日ナショナリズム運動に強硬な弾圧を加えたことをきっかけに、19年末省エリートを中心とする湖南支配層は張敬尭政権の打倒を目指す駆張運動を開始した。そして、南北両陣営にまたがって形成された反安徽派大連合に基づいて、1920年6月湖南軍は軍事力によって北洋系勢力を排除することに成功し、張敬尭政権による湖南支配は崩壊した。この湖南における一連の政治的・軍事的闘争は南北対立や安直対立といった全中国的な政治的対立と密接に連動していたのであった。

 湖南への支配を回復した湖南支配層は、第三次譚延政権を樹立した。省エリートの中心人物である譚延が湖南省長兼督軍として最高権力者の地位につくなど、政権の中心は省エリートが占めた。また、その武力的支柱となったのは湖南軍幹部であった。

 第三次譚政権下の湖南では、国家建設を目指す様々な改革運動が展開された。これらの運動のなかで最大のものは連省自治運動であった。各省の自治、省政治の民主化、連邦制による中国の統一を三本の柱とするこの連省自治運動は、中国全土が分裂状態にあるという当時の状況に適合的な中国統一(=すなわち国家建設)の現実的方策として、1920年代の初頭には全中国的に大きな支持を集めた。この連省自治運動の全中国での中心となったのは湖南であった。湖南における連省自治運動は、実質的に独立的地位にあるという現状をふまえ、湖南省の自治を前提として湖南省政治の民主化運動、特に湖南省憲法の制定運動を中心に進行していった。運動は省エリートの保守的部分からなる省議会と、省エリートのなかでも最も改革を強く志向する部分と革新的知識人によって構成される長沙公団勢力との対抗を基軸として進行していく。この現実の運動と並行して、湖南では連省自治をめぐる様々な議論が戦わされた。また、譚政権が採用した連省自治の立場は、南北対立から中立の立場に立ちながら同時に北京政府と広東政府とは無関係に全中国レベルでの政治的正統性を確保する手段としての政治的機能をも持っていた。

 他方、第三次譚政権は深刻な省政府の財政難に直面していた。その打開のために打ち出した増税の試みは結局成果を上げ得ず、財政・金融の危機はますます深刻化していった。しかもその過程で、本来政権の有力な支持碁盤であった省議会(及びその背後の在地の地主層)や長沙総商会を中心とする長沙の商人層の政権からの離反を招く結果となった。そして、財政難を主な原因として湖南軍の幹部が政権から離反することにより、1920年11月末第三次譚延政権は崩壊した。国家建設を困難ならしめる要因が当時の湖南に存在していたことは、この省政府の財政難に集中的に現われている。

 第三次譚政権崩壊前後の一連の権力闘争に勝利し1921年初頭湖南省の最高権力者の地位についたのは、湖南軍第一の実力者であった趙恒である。湖南軍幹部の比重の相対的上昇という変化はあるものの、趙恒政権を支える政治構造は第三次譚政権のそれと大筋において共通である。

 この趙恒政権は第三次譚政権に引き続いて連省自治運動を推進し、省政府の強いイニシアティブのもとで湖南省憲法を制定した。その内容は、連省自治のビジョンを忠実に反映したものである。この結果、1922年1月1日から湖南省憲法に基づいて現実に湖南省政治が運営されることとなり、湖南省政治の民主化は大きく前進した。最も急進的な省政治の民主化を主張した長沙公団勢力をも含めて、湖南支配層はおおむねこの湖南省憲法を支持する態度を示している。また、1921年以降湖南労工会の活動に見られるように、革新的知議人は次第に省エリートとは別個に独自に非伝統的大衆運動を組織する傾向を見せていく。

 他方、趙恒政権は成立後直ちに省政府の深刻な財政難の解決という課題に直面した。趙政権は目前の危機をかろうじて回避することには成功したものの、事態の根本的解決にはほど遠く、財政及び金融情勢は次第に悪化していった。また、趙政権は1921年夏、湖北自治運動を支援して湖北への武力介入に踏み切った。しかし、結果的には軍事的に完敗を喫し以後北洋系勢力の強い圧力を受けることになった。

 1922年に始まる湖南省憲法に基づく政治運営は結論的には所期の成果を収めることができず、趙政権は1923年以降改革を阻害する抑圧的な軍人独裁へと傾斜していった。また、連省自治運動は全中国的には、省政治の民主化、連邦制による中国統一に対してはかばかしい成果を収めることができず、1920年代半ばには国家建設の現実的な選択肢としての有効性を喪失したと判断され、湖南でも全国的にも急速にその支持を喪失していった。そして、この後中国政治は国民革命へと向かっていくことになる。

 本論文では次のことが明らかになったものと考える。第一は当時の中国政治全体の構造とそのなかにおける湖南の位置が、湖南における省レベルの政治のあり方を規定する重要なファクターの一つであったということである。同時に湖南省の政治も中国全体の政治状況に様々な形でインパクトを与えている。

 この時期(1919〜21年)の湖南省政治において最も大きな役割を果たしていたのは省エリートであった。すなわち、彼らは第三次譚延政権と趙恒政権において政権の中枢を占めていただけではなく、五四運動や連省自治運動などの改革運動のリーダーシップもまた、おおむね彼ら省エリートの手中にあった。五四運動以降政治の舞台に登場してきた革新的知識人は改革運動における実際行動を担い、運動のもつとも急進的な部分として大きな役割を果たしたものの、大筋では依然として省エリートのリーダーシップのもとで行動していた。この時期の湖南における省レベルの政治を分析する際には省エリートという筆者が導入した概念は大きな有効性を持つものと考える。なぜなら、これによって従来の枠組みよりも明確かつ統一的に当時の湖南省政治のあり方を明らかにすることができたと考えるからである。

 1919年から21年の湖南では、国家建設を目指す様々な改革の試みが実行に移された。そのなかで最大のものは連省自治運動である。この時期の湖南では、現実に政権を担当していた部分をも含めて湖南支配層全体が改革の実行による国家建設を強く志向し、改革を実行に移していったのであった。

 なお、中米日三国の「軍閥」研究に関する研究動向の紹介を行なっている補論の部分は、本論文の学説史上の背景と中華民国史研究における位置付を明らかにするものともなっている。

審査要旨

 本論文は、近代中国における国家建設がいかに進行していったかという問題を、1919年から1921年の湖南における省レベルの政治を対象とすることによって追究しようとするものである。第一章「問題の基本的視角」によれば、辛亥革命以後国家建設は中国全体について志向されたが、当時の中国において最も実質的な政治単位の一つは省であった。そこで現実の国家建設は、中央政府(北京政府及び広東政府)のレベル以外でも、各省レベルの政治を通して進行することとなったのである。そのような視点から著者は、社会経済的発展水準の上でも、最も生産力の高い沿岸部と生産力の低い奥地との中間にあり、また政治的にも北京・広東両政府の対立(南北対立)の最前線に位置し、その動向が中国全体の政治状況に大きな影響を与えた湖南省をとり上げ、国家建設をめざす改革の試みをめぐって、重要な事件が連続する1919年から1921年の時期に焦点をおいて、省レベルの政治を分析する。

 著者によれば、1970年代末以降の近代中国研究の転換に伴って、湖南を対象とする政治史的研究は、アプローチの上でも資料の上でも新鮮さと豊かさを加えつつあるが、湖南の政治全体を対象とし、その解明を通して中国全体の政治を対象とする研究はきわめて乏しい。著者は湖南最大の新聞『長沙大公報』その他1980年代において利用可能となった資料を主要資料として、従来の「革命史」的研究や個別地域的研究の克服をめざす。

 著者によれば、辛亥革命から北伐にいたる時期の湖南政治は、外部勢力である北洋系勢力(清末に改革を実行した漢人官僚とその過程で生み出された軍人・文官によって構成され、内部対立をかかえながら全体として北京政府の実権を握っていた政治勢力)と湖南支配層(省エリート・湖南軍幹部・革新的知識人・専門技術官僚)との対抗関係を軸として展開する。すなわち辛亥革命以後湖南省においては、湖南支配層の支持する政権(1912〜1913年第一次譚延政権、1915〜1918年第二次譚政権、1920年第三次譚政権、1920〜1926年趙恒政権)と北洋系勢力の後援する政権(1913〜1915年湯銘政権、1918〜1920年張敬尭政権)とが交互に出現し、1917年孫文らの国民党系勢力が広東に中華民国軍政府を組織するに及んで、これらを支持する湖南支配層と北洋系との政治的・軍事的な南北対立の縮図が見られた。本論文は、湖南における国家建設のための改革がもっとも急進的に進められた1919年から1921年までの時期に焦点をおいて、その歴史的意味を明らかにすることを試みる。

 まず第二章「五四運動から駆張運動へ」においては、1919年の湖南における反日ナショナリズム運動としての五四運動が1919年から1920年にかけて、北洋系勢力によって樹立された張継尭政権を駆逐する運動に展開していく過程が分析され、それを通して、湖南における政治改革と中国全体に及ぶ国家建設の構想とがいかに結びついていったかが問題とされる。湖南における日貸排斥運動をはじめとする五四運動のリーダーシップを担ったのは、省議会・省農会・省教育会・長沙総商会等を拠点として北洋系の張政権と対立する省エリートであった。省エリートの実行部隊として湖南学生連合会(中等以上の学校の連絡組織)その他の学生運動団体があった。その中から新しい政治勢力としての「革新的知識人」が登場してくる。これらの「革新的知識人」をも傘下におさめた省エリートが湖南におけるナショナリズムの主体であった。そしてそれは、政治画のみならず、文化面においても改革運動(「新文化運動」)の主体であり、新しいタイプの自発的結社を生み出していった。

 五四運動に参加した省エリートの諸団体は、中国代表団がヴェルサイユ条約調印を拒否し、当面の成果を挙げた後、「湖南各公団連合会」をはじめとする連合組織をつくり始め、これが反日ナショナリズムとともに反張継尭政権の立場を明らかにしていく。そして張政権も反日ナショナリズムそれ自体には順応しながらも、省エリート勢力(とくにその実行部隊としての学生運動団体)への対決姿勢を強める。1919年11月末には、反日ナショナリズム諸団体による日貸焼却の試みを阻止する軍隊・警察による実力行使に反発して、学生連合金を先兵とする反張継尭運動が強まり、張政権と省エリート及び革新的知識人との関係は1919年末に決定的に悪化する。ここに省内のみならず、省外の諸勢力とも提携して、省内に駐屯する北洋系の大軍によって支えられた張政権の打倒をめざす「駆張運動」が全面化する。そして「駆張運動」の中から、湖南における政治改革及び自治の確立と中国全体の国家建設とを結びつける「連省自治」のヴィジョンが支持を得ていく。とくに1919年2月から上海で始まった南北和平会議の挫折後、北京・広東両政府と別個に国家建設をめざす連省自治運動が活性化する状況が出現する。張政権は、それを支えた北洋系勢力の内部対立(安徽派対反安徽派)の結果、反安徽派と提携した湖南軍によって駆逐される。そして1920年6月湖南支配層によって擁立された第三次譚延政権が成立する。

 第三章「第三次譚延政権」においては、第三次譚政権の下で試みられた新しい湖南建設のためのさまざまの改革がとり上げられる。たとえば長沙の主要諸団体が行った改革運動として、「全国国民大会」開催による国家建設を志向する「湖南全省国民大会」、省エリートの拠点としての省教育会を推薦母体とする教育委員会設置、革新的知識人による労働者組織の結成、白話運動、「ロシア研究会」や「新文化書社」等による社会主義研究等の新文化運動があった。省政府のイニシアティプによるインフラストラクチャー整備や工場建設も積極的に行われた。これら湖南建設のための改革は、中国全体についての国家建設の基礎として位置づけられ、連省自治運動へ収斂していくのである。

 連省自治というヴィジョンは、(1)まず各省が北京・広東両政府を含むすべての外部勢力の干渉を排除して自治を行い、(2)各省が省憲法制定をはじめとする政治的民主化を行い、(3)自治と民主化とを達成した各省が集り、連邦制の中国国家を建設するというものである。これは分裂した中国の政治的現実を前提として、これに適合しうる国家建設のヴィジョンとして提示されたものであり、アメリカ合衆国が主要なモデルとして想定されたものであった。南北対立の主戦場となった湖南ではとくに自治への志向(「湖南モンロー主義」)が強く、これが湖南政治の民主化運動、とくに湖南省憲法制定運動と結びついて連省自治運動として展開していく。当時湖南の革新的知識人であった毛沢東なども「湖南共和国」論に立って、連省自治運動に深く関与していた。こうして湖南を急先鋒として、1920年後半から1923年にかけて連省自治運動は、中国全土に拡がった。

 しかし第三次譚政権は、省政府支出の80パーセントに近い軍事費の圧迫による財政危機に直面して、それに対処すべき増税や紙幣発行が有力な基盤である省議会や長沙商人層の離反を招き、さらに軍事費支出それ自体の困難により、最も重要な基盤である湖南軍の支持を失ったため、1920年11月第三次譚政権は倒れる。そして湖南軍総司令趙恒が「臨時省長」を兼任する趙恒政権が成立する。

 第四章においては1921年4月に正式に発足した趙政権下の湖南省政治が分析される。趙政権を支える政治勢力は、湖南軍の比重は増大したが、その構成は第三次譚政権のそれと変らず、趙政権もまた前政権と同じく連省自治運動を推進した。すなわち省憲法制定によって省自治を確立し、同じように省自治を確立した他省との「連省」によって中国に連邦国家を建設するヴィジョンを掲げたのである。1921年9月に審査を完了し、全省民投票に付された上で、1922年1月1日に公布・施行された湖南省憲法は自治・民主制・軍事費制限をもりこんだものであり、まさに連省自治の基礎であった。そして他省(広東や湖北)の連省自治運動との提携を図り、再び南北対立が湖南に波及することを防ごうとした。1921年9月湖北への出兵が失敗に終り、武力によって連省自治運動を全国化しようとする趙政権の方針が見通しを失ったことがその背景にあった。

 しかし趙政権が前政権から引継いだ財政上の困難は依然として深刻であり、趙政権のもっとも重要な基盤が財政上の困難を惹起する最大の構造的要因である湖南軍にあっただけに、趙政権にとって一層深刻であった。このような財政上の困難に対処するには軍縮が必要不可欠であったが、それには湖南軍内部の派閥対立や中国全土にわたる軍事的対立、退役者の生活問題等の障害があった。趙政権は、軍縮によることなく商人層の利益を代表する長沙総商会に依存して財政金融危機を乗り切ろうとしたが失敗し、商人層に大きな損失を及ぼしたことによって、最大の支持基盤の一つを失うこととなった。そして趙政権は次第に湖南軍にのみ依拠する軍事政権の相貌を見せはじめる。

 第五章「展望」においては、1922年1月から実施された湖南省憲法の下での政治が概観される。男女平等の直接普通選挙によって新しい省議会が成立し、趙恒が初の「民選省長」に選出された。そして1923年初頭には省憲法に基づく制度的枠組は、大体において完成された。この制度的枠組の中で,個々の労働者団体を統轄する組織として、1922年11月に湖南全省工団連合会(幹事局正総幹事毛沢東)が結成され、労働運動が昂揚した。連省自治のヴィジョンによる中国国家建設の基礎は、湖南省において確実になりつつあるように思われた。

 しかるに趙政権は、省憲法の予定した改革を十分に実行することはできなかった。省憲法の規定では、軍事費は総予算の3分の1以下、教育費は30%以上となっていたが、そのような予算を編成することは、軍縮の実行がない限り、事実上不可能であった。湖南軍に依拠する趙政権にとっては、軍縮は実行不可能であった。予算編成の自由度が軍事費支出の硬直化によって強く制限されていた趙政権は、「連省自治」を実現するために必要な改革能力を欠いていたのである。他方趙政権が1922年以降、労働運動、反日ナショナリズム運動、農民運動など様々の改革運動を武力で弾圧して、湖南軍以外の支持基盤を失い、北洋系勢力に傾斜する軍事政権的性格を強めるにしたがって、連省自治運動それ自体も活力を低下させていった。全国的には、1923年以降国共合作による国民党の改組の結果、「連省自治」に代って、軍事力による統一を志向する「国民革命」のヴィジョンが急速かつ広範に浸透していった。北洋系勢力の傘下にあった趙政権に対して武装反乱を起こした湖南軍幹部の唐生智が国民革命軍に参加したことをきっかけとして、1926年7月に国民革命軍による北伐が開始された。このことは、中国における国家建設が新たな段階に入ったことを意味するものであった。

 以上が本論文の要旨である。なお本論文には、中国・アメリカ・日本における「中国近代軍閥」研究の動向を概観し、将来の研究の方向を示唆する「補論」が付されている。

 本論文の長所は以下の点である。第一に、本論文は辛亥革命から北伐にいたる中国の近代史を国家建設の過程としてとらえ、その一段階を湖南省を中心とする連省自治運動の台頭と挫折の過程を通して分析したものであり、全国レベルの政治史と省レベルの政治史との密接な結びつきを明らかにすることによって、一つの新しい近代中国史像を提示している。すなわち国民党-共産党の一党制国家に代りえたかもしれない、近代中国のもう一つの選択肢として連邦制国家の現実的可能性を実証的に明らかにしている。国民党あるいは共産党支配の成立史が主流であった従来の近代中国政治史研究に対して、著者の研究は独自の存在理由をもつ。また、武力統一・中央集権という上からの道に対する省の民主化と自治、連邦制という下からの道の可能性を追究した著者の研究は、中華人民共和国の今後の政治民主化の方向を展望するための重要な示唆を与える。

 第二に、著者は湖南省政治の分析に当って、辛亥革命期から1920年代にいたる時期の主導的な政治主体を指示する概念として、清末の「新政」を推進した立憲派を源流とし、省自治と国家建設とを同時に志向する「省エリート」概念を導入し、それによってこの時期(とくに1919〜1921年の時期)の湖南省政治を整合的に説明している。「郷紳」や「ブルジョア」や「軍閥」の概念によっては十分に説明しえない、この時期の湖南省政治を貫く改革志向がこの概念の導入によって説明可能となっている点は評価すべきであろう。

 第三は、とり上げたテーマに関して、著者が参照した資料文献の網羅性である。『長沙大公報』をはじめとする、現在利用可能なほとんどの基本資料に当り、また先行研究をほぼ漏れなく丹念に追跡している。とくにアメリカの中国研究の成果を十分に摂取し、独自の形で活かしているといえよう。

 しかし、もちろん本論文にも短所がないわけではない。第一は、概念の整理が必ずしも十分ではない点である。たとえば「国家建設」という場合の「国家」とは何かの吟味が十分に周到になされているとはいえない。本論文の基本テーマが中国における「国家建設」であるだけに、「国家」概念の検討は必要な作業であろう。また「国家建設」の概念を「革命」と区別して使っていることは理解できるが、「国家建設」の概念がどこまでを蔽いうるのか、たとえば土地、改革はその中に含まれるのかが明らかではない。「省エリート」についても、「国家建設をめざす改革と密接不可分の存在」と特徴づけているが、そのことの意味は必ずしも分明ではない。

 第二に、湖南省政治を分析の対象としながら、湖南省の地域的独自性が十分に表現されているとはいえない。そのことは、いいかえれば湖南省と他の省(たとえば湖北省)との比較が方法的になされていないということでもあろう。湖南省憲法の下で行われたといわれる「男女平等」の「普通選挙」についても、たとえば識字率その他との関連で、その実態に即した叙述が望ましい。

 しかし以上のような短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、辛亥革命以降北伐にいたる中国政治をその多元的重層構造に即してとらえるために、省レベルの政治を当面の対象としながら、それを全国レベルの政治と結びつけて理解しようとした野心的な試みであり、従来の研究の成果とは異なる斬新な近代中国史像を提示したものである。本論文の学界への貢献は小さくないと認めることができる。

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