本論文は、近代中国における国家建設がいかに進行していったかという問題を、1919年から1921年の湖南における省レベルの政治を対象とすることによって追究しようとするものである。第一章「問題の基本的視角」によれば、辛亥革命以後国家建設は中国全体について志向されたが、当時の中国において最も実質的な政治単位の一つは省であった。そこで現実の国家建設は、中央政府(北京政府及び広東政府)のレベル以外でも、各省レベルの政治を通して進行することとなったのである。そのような視点から著者は、社会経済的発展水準の上でも、最も生産力の高い沿岸部と生産力の低い奥地との中間にあり、また政治的にも北京・広東両政府の対立(南北対立)の最前線に位置し、その動向が中国全体の政治状況に大きな影響を与えた湖南省をとり上げ、国家建設をめざす改革の試みをめぐって、重要な事件が連続する1919年から1921年の時期に焦点をおいて、省レベルの政治を分析する。 著者によれば、1970年代末以降の近代中国研究の転換に伴って、湖南を対象とする政治史的研究は、アプローチの上でも資料の上でも新鮮さと豊かさを加えつつあるが、湖南の政治全体を対象とし、その解明を通して中国全体の政治を対象とする研究はきわめて乏しい。著者は湖南最大の新聞『長沙大公報』その他1980年代において利用可能となった資料を主要資料として、従来の「革命史」的研究や個別地域的研究の克服をめざす。 著者によれば、辛亥革命から北伐にいたる時期の湖南政治は、外部勢力である北洋系勢力(清末に改革を実行した漢人官僚とその過程で生み出された軍人・文官によって構成され、内部対立をかかえながら全体として北京政府の実権を握っていた政治勢力)と湖南支配層(省エリート・湖南軍幹部・革新的知識人・専門技術官僚)との対抗関係を軸として展開する。すなわち辛亥革命以後湖南省においては、湖南支配層の支持する政権(1912〜1913年第一次譚延政権、1915〜1918年第二次譚政権、1920年第三次譚政権、1920〜1926年趙恒政権)と北洋系勢力の後援する政権(1913〜1915年湯銘政権、1918〜1920年張敬尭政権)とが交互に出現し、1917年孫文らの国民党系勢力が広東に中華民国軍政府を組織するに及んで、これらを支持する湖南支配層と北洋系との政治的・軍事的な南北対立の縮図が見られた。本論文は、湖南における国家建設のための改革がもっとも急進的に進められた1919年から1921年までの時期に焦点をおいて、その歴史的意味を明らかにすることを試みる。 まず第二章「五四運動から駆張運動へ」においては、1919年の湖南における反日ナショナリズム運動としての五四運動が1919年から1920年にかけて、北洋系勢力によって樹立された張継尭政権を駆逐する運動に展開していく過程が分析され、それを通して、湖南における政治改革と中国全体に及ぶ国家建設の構想とがいかに結びついていったかが問題とされる。湖南における日貸排斥運動をはじめとする五四運動のリーダーシップを担ったのは、省議会・省農会・省教育会・長沙総商会等を拠点として北洋系の張政権と対立する省エリートであった。省エリートの実行部隊として湖南学生連合会(中等以上の学校の連絡組織)その他の学生運動団体があった。その中から新しい政治勢力としての「革新的知識人」が登場してくる。これらの「革新的知識人」をも傘下におさめた省エリートが湖南におけるナショナリズムの主体であった。そしてそれは、政治画のみならず、文化面においても改革運動(「新文化運動」)の主体であり、新しいタイプの自発的結社を生み出していった。 五四運動に参加した省エリートの諸団体は、中国代表団がヴェルサイユ条約調印を拒否し、当面の成果を挙げた後、「湖南各公団連合会」をはじめとする連合組織をつくり始め、これが反日ナショナリズムとともに反張継尭政権の立場を明らかにしていく。そして張政権も反日ナショナリズムそれ自体には順応しながらも、省エリート勢力(とくにその実行部隊としての学生運動団体)への対決姿勢を強める。1919年11月末には、反日ナショナリズム諸団体による日貸焼却の試みを阻止する軍隊・警察による実力行使に反発して、学生連合金を先兵とする反張継尭運動が強まり、張政権と省エリート及び革新的知識人との関係は1919年末に決定的に悪化する。ここに省内のみならず、省外の諸勢力とも提携して、省内に駐屯する北洋系の大軍によって支えられた張政権の打倒をめざす「駆張運動」が全面化する。そして「駆張運動」の中から、湖南における政治改革及び自治の確立と中国全体の国家建設とを結びつける「連省自治」のヴィジョンが支持を得ていく。とくに1919年2月から上海で始まった南北和平会議の挫折後、北京・広東両政府と別個に国家建設をめざす連省自治運動が活性化する状況が出現する。張政権は、それを支えた北洋系勢力の内部対立(安徽派対反安徽派)の結果、反安徽派と提携した湖南軍によって駆逐される。そして1920年6月湖南支配層によって擁立された第三次譚延政権が成立する。 第三章「第三次譚延政権」においては、第三次譚政権の下で試みられた新しい湖南建設のためのさまざまの改革がとり上げられる。たとえば長沙の主要諸団体が行った改革運動として、「全国国民大会」開催による国家建設を志向する「湖南全省国民大会」、省エリートの拠点としての省教育会を推薦母体とする教育委員会設置、革新的知識人による労働者組織の結成、白話運動、「ロシア研究会」や「新文化書社」等による社会主義研究等の新文化運動があった。省政府のイニシアティプによるインフラストラクチャー整備や工場建設も積極的に行われた。これら湖南建設のための改革は、中国全体についての国家建設の基礎として位置づけられ、連省自治運動へ収斂していくのである。 連省自治というヴィジョンは、(1)まず各省が北京・広東両政府を含むすべての外部勢力の干渉を排除して自治を行い、(2)各省が省憲法制定をはじめとする政治的民主化を行い、(3)自治と民主化とを達成した各省が集り、連邦制の中国国家を建設するというものである。これは分裂した中国の政治的現実を前提として、これに適合しうる国家建設のヴィジョンとして提示されたものであり、アメリカ合衆国が主要なモデルとして想定されたものであった。南北対立の主戦場となった湖南ではとくに自治への志向(「湖南モンロー主義」)が強く、これが湖南政治の民主化運動、とくに湖南省憲法制定運動と結びついて連省自治運動として展開していく。当時湖南の革新的知識人であった毛沢東なども「湖南共和国」論に立って、連省自治運動に深く関与していた。こうして湖南を急先鋒として、1920年後半から1923年にかけて連省自治運動は、中国全土に拡がった。 しかし第三次譚政権は、省政府支出の80パーセントに近い軍事費の圧迫による財政危機に直面して、それに対処すべき増税や紙幣発行が有力な基盤である省議会や長沙商人層の離反を招き、さらに軍事費支出それ自体の困難により、最も重要な基盤である湖南軍の支持を失ったため、1920年11月第三次譚政権は倒れる。そして湖南軍総司令趙恒が「臨時省長」を兼任する趙恒政権が成立する。 第四章においては1921年4月に正式に発足した趙政権下の湖南省政治が分析される。趙政権を支える政治勢力は、湖南軍の比重は増大したが、その構成は第三次譚政権のそれと変らず、趙政権もまた前政権と同じく連省自治運動を推進した。すなわち省憲法制定によって省自治を確立し、同じように省自治を確立した他省との「連省」によって中国に連邦国家を建設するヴィジョンを掲げたのである。1921年9月に審査を完了し、全省民投票に付された上で、1922年1月1日に公布・施行された湖南省憲法は自治・民主制・軍事費制限をもりこんだものであり、まさに連省自治の基礎であった。そして他省(広東や湖北)の連省自治運動との提携を図り、再び南北対立が湖南に波及することを防ごうとした。1921年9月湖北への出兵が失敗に終り、武力によって連省自治運動を全国化しようとする趙政権の方針が見通しを失ったことがその背景にあった。 しかし趙政権が前政権から引継いだ財政上の困難は依然として深刻であり、趙政権のもっとも重要な基盤が財政上の困難を惹起する最大の構造的要因である湖南軍にあっただけに、趙政権にとって一層深刻であった。このような財政上の困難に対処するには軍縮が必要不可欠であったが、それには湖南軍内部の派閥対立や中国全土にわたる軍事的対立、退役者の生活問題等の障害があった。趙政権は、軍縮によることなく商人層の利益を代表する長沙総商会に依存して財政金融危機を乗り切ろうとしたが失敗し、商人層に大きな損失を及ぼしたことによって、最大の支持基盤の一つを失うこととなった。そして趙政権は次第に湖南軍にのみ依拠する軍事政権の相貌を見せはじめる。 第五章「展望」においては、1922年1月から実施された湖南省憲法の下での政治が概観される。男女平等の直接普通選挙によって新しい省議会が成立し、趙恒が初の「民選省長」に選出された。そして1923年初頭には省憲法に基づく制度的枠組は、大体において完成された。この制度的枠組の中で,個々の労働者団体を統轄する組織として、1922年11月に湖南全省工団連合会(幹事局正総幹事毛沢東)が結成され、労働運動が昂揚した。連省自治のヴィジョンによる中国国家建設の基礎は、湖南省において確実になりつつあるように思われた。 しかるに趙政権は、省憲法の予定した改革を十分に実行することはできなかった。省憲法の規定では、軍事費は総予算の3分の1以下、教育費は30%以上となっていたが、そのような予算を編成することは、軍縮の実行がない限り、事実上不可能であった。湖南軍に依拠する趙政権にとっては、軍縮は実行不可能であった。予算編成の自由度が軍事費支出の硬直化によって強く制限されていた趙政権は、「連省自治」を実現するために必要な改革能力を欠いていたのである。他方趙政権が1922年以降、労働運動、反日ナショナリズム運動、農民運動など様々の改革運動を武力で弾圧して、湖南軍以外の支持基盤を失い、北洋系勢力に傾斜する軍事政権的性格を強めるにしたがって、連省自治運動それ自体も活力を低下させていった。全国的には、1923年以降国共合作による国民党の改組の結果、「連省自治」に代って、軍事力による統一を志向する「国民革命」のヴィジョンが急速かつ広範に浸透していった。北洋系勢力の傘下にあった趙政権に対して武装反乱を起こした湖南軍幹部の唐生智が国民革命軍に参加したことをきっかけとして、1926年7月に国民革命軍による北伐が開始された。このことは、中国における国家建設が新たな段階に入ったことを意味するものであった。 以上が本論文の要旨である。なお本論文には、中国・アメリカ・日本における「中国近代軍閥」研究の動向を概観し、将来の研究の方向を示唆する「補論」が付されている。 本論文の長所は以下の点である。第一に、本論文は辛亥革命から北伐にいたる中国の近代史を国家建設の過程としてとらえ、その一段階を湖南省を中心とする連省自治運動の台頭と挫折の過程を通して分析したものであり、全国レベルの政治史と省レベルの政治史との密接な結びつきを明らかにすることによって、一つの新しい近代中国史像を提示している。すなわち国民党-共産党の一党制国家に代りえたかもしれない、近代中国のもう一つの選択肢として連邦制国家の現実的可能性を実証的に明らかにしている。国民党あるいは共産党支配の成立史が主流であった従来の近代中国政治史研究に対して、著者の研究は独自の存在理由をもつ。また、武力統一・中央集権という上からの道に対する省の民主化と自治、連邦制という下からの道の可能性を追究した著者の研究は、中華人民共和国の今後の政治民主化の方向を展望するための重要な示唆を与える。 第二に、著者は湖南省政治の分析に当って、辛亥革命期から1920年代にいたる時期の主導的な政治主体を指示する概念として、清末の「新政」を推進した立憲派を源流とし、省自治と国家建設とを同時に志向する「省エリート」概念を導入し、それによってこの時期(とくに1919〜1921年の時期)の湖南省政治を整合的に説明している。「郷紳」や「ブルジョア」や「軍閥」の概念によっては十分に説明しえない、この時期の湖南省政治を貫く改革志向がこの概念の導入によって説明可能となっている点は評価すべきであろう。 第三は、とり上げたテーマに関して、著者が参照した資料文献の網羅性である。『長沙大公報』をはじめとする、現在利用可能なほとんどの基本資料に当り、また先行研究をほぼ漏れなく丹念に追跡している。とくにアメリカの中国研究の成果を十分に摂取し、独自の形で活かしているといえよう。 しかし、もちろん本論文にも短所がないわけではない。第一は、概念の整理が必ずしも十分ではない点である。たとえば「国家建設」という場合の「国家」とは何かの吟味が十分に周到になされているとはいえない。本論文の基本テーマが中国における「国家建設」であるだけに、「国家」概念の検討は必要な作業であろう。また「国家建設」の概念を「革命」と区別して使っていることは理解できるが、「国家建設」の概念がどこまでを蔽いうるのか、たとえば土地、改革はその中に含まれるのかが明らかではない。「省エリート」についても、「国家建設をめざす改革と密接不可分の存在」と特徴づけているが、そのことの意味は必ずしも分明ではない。 第二に、湖南省政治を分析の対象としながら、湖南省の地域的独自性が十分に表現されているとはいえない。そのことは、いいかえれば湖南省と他の省(たとえば湖北省)との比較が方法的になされていないということでもあろう。湖南省憲法の下で行われたといわれる「男女平等」の「普通選挙」についても、たとえば識字率その他との関連で、その実態に即した叙述が望ましい。 しかし以上のような短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、辛亥革命以降北伐にいたる中国政治をその多元的重層構造に即してとらえるために、省レベルの政治を当面の対象としながら、それを全国レベルの政治と結びつけて理解しようとした野心的な試みであり、従来の研究の成果とは異なる斬新な近代中国史像を提示したものである。本論文の学界への貢献は小さくないと認めることができる。 |