学位論文要旨



No 212197
著者(漢字) 荒幡,克己
著者(英字)
著者(カナ) アラハタ,カツミ
標題(和) 日本農業の経営方式、土地利用方式の形成過程と農政
標題(洋)
報告番号 212197
報告番号 乙12197
学位授与日 1995.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12197号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和田,照男
 東京大学 教授 田中,学
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 助教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 八木,宏典
内容要旨

 日本農業の経営方式、土地利用方式の特質としては、「水田農業が主体であること」が挙げられることが多いが、その形成要因については、日本の風土的特性に起因するものとして半ば固定的に捉えることが通説である。また、このようにその特質が動かし難いものであることを前提として、これまで農政は一貫して米を重視する姿勢を持ち続けてきたという一般的な理解がある。

 確かに、こうした特質の形成要因の相当部分は、日本の風土的特性によって説明され得ることは言うまでもない。しかし、それと同時に、その後の歴史的経過の中では、むしろそれが次第に時を経るに従って強まってきたということも観察される。特に、本稿では、この点に注目したい。

 本稿では、上記のような一般的理解等を無批判に受け入れることに慎重な姿勢を取る。日本農業のこれまでの歩みを、このような特質が当初の日本の風土的特性に起因した所与のものから次第に人為的な影響によって強化され、その結果として今日のような強力な「水田農業が主体であること」という特質が形成された、との見方に立つ。そして、その過程で、農政がこれにどのように関わってきたかに焦点を当てる。特に、日本が近代農政を本格的にスタートさせた明治期の農政の施策を取り上げ、またこれに関連する諸論調を分析し、政策がどのような方向を目指し、実態の農業にどのように働きかけようとしたかを検証した。その結果、得られた結論は次のとおりである。

 明治農政の当初の経営方式、土地利用方式に関する政策目標は、主穀偏重の是正という方向であった。近代農政をスタートさせるに当たって、農政関係者は、それまでの時代を「封建制度による人為的な偏曲によって、米生産に過度に偏り、商品作物等の自由な生産がなされなかった時代」と認識したものと見られる。そして、こうした過去の人為的な偏曲を取払い、本来の姿に戻すことが農政の政策目標と捉えられた。こうした農政における政策目標は、外貨獲得のための輸出産業の主力である商品作物の生産を振興するという点で、国家的な要請からも支持されるものであった。

 こうした農政の基本方向を前提としつつ、具体的にどのようなものを目指していくかに関しては、農政関係者による模索が続けられた。当初、欧米を視察した岩倉使節団は、欧米のうちヨーロッパの「精密なる農業」に、その目指すべき方向についての一つの示唆を受けたようである。また、日本にも人糞等の誇るべき農業技術があること、欧米とて農業の進歩に着手してからまだ日も浅いことなどから、日本農業も十分にこれからの農業改革で欧米に伍して行ける、との自信と希望に溢れていたのが明治農政の出発点であったと言える。

 様々な模索を経て、明治10年代には、目指すべき経営方式、土地利用方式の一つの具体像として、「混同農事」が提唱されるようになった。「混同農事」には、経営方式としての部門間の結合性、土地利用方式としての合理性等、目指すべき理念としての高い目標があった。その実践的な日本型の経営方式、土地利用方式としての模索は、駒場農学校で続けられた。

 政策手法とその手順については、当初は在来農法と泰西農法との双方から学んでいくという姿勢がとられたものと考えられる。この間、農村が活況であったことに加えて、農民の指導者たる老農たちが、合理的精神に富み進歩性があったので、農村は、農業革新の気運に溢れていた。

 明治17年の「興業意見」及び「農政計画図表解説」をもって、明治農政は模索の期間を終えて、進むべき針路を確定し、翌年からその実現に向けての新たな歩みが始まった。その第一歩は、明治18年の「農商工公報」第1号の巻頭を飾る記事「農業は米作のみを恃むべからず」であった。明治初年以来の農政の基本方向であった主穀偏重の是正は、改めて農政が引き続き努力を傾注していくべき施策の前提として、再確認されたものと考えられる。

 しかしながら、その針路は、確定されたとはいえ、一枚岩として合意されたものではなく、次第に、主穀偏重という点で共通な面を持ちつつも経営方式としては大幅な変革に拘わらない現実路線や、在来小農制を固定し稲作の瑣末な改善に終始する保守的な姿勢が支配的となっていったものと考えられる。

 明治後期となると、米自給達成のための米増産が最優先の政策課題とされた。農政は、ただひたすらこの最優先の政策課題に向けてその努力を傾注するのみとなった。そこでは、経営方式、土地利用方式のあり方を問い直す姿勢は、農政から失われたものと見られる。明治農法は、こうした米増産の期待を担って強力に展開された。本来明治農法は、その原形が形成された明治20年前後では、牛馬耕による経営の合理化や乾田化による作付選択肢の拡大等、経営方式、土地利用方式の抜本的な変革に結びつく可能性を有していたが、次第にされは、米増産という国家目的に忠実であることに終始し、稲作のみの瑣末な改良に矮小化された。

 明治後期農政の帰結は、「副業の奨励」である。一見それは副業部門である畜産や園芸等の商品作物が重視された政策であるかのような錯覚を受ける。しかし、そこには、米を「主」とし、それ以外を「副」とする序列が明確化されたという意味合いを持つことを見逃してはならない。「副業の奨励」という政策目標の提示こそ、逆説的に「主穀偏重の是正」という明治初年以来の農政の基本方向が終焉したことの証明に他ならない。

 明治農政は、当初、日本農業の特質である「水田農業が主体であること」を是正しようとして大いなる試みをしたが、結果としてその是正はできなかったものと考えられる。更に後半は、農政が、是正どころかむしろその逆に、一層この特質を助長する方向へと機能したものと考えられる。

 また、合理的土地利用方式については、明治農政は、畑地での輪作を基礎とした土地利用方式に関する在来農法の蓄積と西洋の輪栽式農法の双方を視野に入れて、日本型の土地利用方式を模索した。しかし、農政及び農民は、その変革のエネルギーを次第に失い、結局単なる米麦二毛作中心の土地利用方式が奨励されるに留まることとなってしまったようである。

審査要旨

 日本農業の経営方式・土地利用方式の特質を「水田農業が主体である」とし、それが日本の風土的特性に起因するものであると固定的に捉えることが通説になっている。また、その特質が動かし難いものであることを前提に、これまで農政は一貫して米を重視する姿勢を持ち続けてきたとされている。しかし、本論文ではこのような特質が当初の日本の風土的特性に起因した所与のものから、次第に人為的な影響によって強化され、その結果として今日のような強力な「水田農業が主体である」という特質が形成されてきたとの立場に立ち、そのような視点から日本が近代農政をスタートさせた明治期の農政をとり上げ、これに関連するこれまでの研究を批判的に検討し、政策がどのような方向を目指し、実態の農業にどのように働きかけようとしたのかを、新しく探索した豊富な農政資料に基づいて検証したものである。

 以下、論文の構成に即して評価を加えながらその内容を簡潔に述べる。

 まず、明治農政の当初の政策目標は、主穀偏重の是正という方向を目指したものであったという。当時の農政関係者は、それまでの時代を「封建制度による人為的な編曲によって、米生産に過度に偏り、商品作物等の自由な生産がなされなかった時代」と認識していた。こうした過去の人為的な偏りを取り払い、本来の姿に戻すことが農政の政策目標と考えられた。しかし、具体的にどのようなものを目指していくかに関しては、模索が続けられた。当初、欧米を視察した岩倉使節団は、欧米のうちヨーロッパの「精密なる農業」に、その目指すべき方向の示唆を受けた。そして様々な模索を経て、明治10年代には、目指すべき経営方式・土地利用方式の1つの具体像として、「混同農事」が提唱されるようになった。「混同農事」には経営方式としての部門間の結合性、土地利用方式としての合理性等、目指すべき理念としての高い目標があった。その実践的な日本型の経営方式・土地利用方式の模索は、駒場農学校で続けられた。

 一方、政策手法とその手順については、当初は在来農法と泰西農法との双方から学んでいくという姿勢がとられた。この間、農村が活況であったことに加えて、農民の指導者たる老農たちが、合理的精神に富み進歩性があったので、農村は農業改革の気運に溢れていた。

 明治17年の「興業意見」及び「農政計画図表解説」をもって、明治農政は模索の時期を終えて、進むべき針路を確定した。その第一歩は、明治18年の「農商工公報」第1号の巻頭を飾る記事「農業は米作のみを恃むべからず」であった。

 しかし、その針路が確定されたとはいえ、それは農政の一枚岩として合意されたものではなく、次第に、経営方式の大幅な変革に拘らない現実路線や、在来小農経営を固定する稲作の末梢な改善に終始する姿勢が支配的となっていった。明治後期になると、米自給達成のための米増産が最優先の政策課題とされ、農政は、ただひたすらこの政策課題に向けて努力を傾注するのみとなった。そこでは、経営方式・土地利用方式のあり方を問い直す姿勢は、農政から失われたものと見られる。むしろ明治農法は、こうした米増産の期待を担って強力に展開された。本来明治農法は、その原型が形成された明治20年前後では、牛馬耕による経営の合理化や乾田化による作付け選択肢の拡大等、経営方式・土地利用方式の抜本的な変革に結びつく可能性を有していたが、次第にそれは、国家目標の中にのみ込まれ、稲作のみの改良に矮小化された。

 明治後期農政の帰結は、「副業の奨励」であった。一見それは副業部門である畜産や園芸等の商品作物が重視された政策であるかのような錯覚を受ける。しかし、そこには、米を「主」とし、それ以外を「副」とする序列が明確化されたことを意味する。「副業の奨励」という政策目標の提示こそ、逆説的に「主穀偏重の是正」という明治初年以来の農政の基本方向が終焉したことの証明であった。

 以上、要するに本論文は新しく探索された豊富な農政資料に基づき、明治期を中心とする日本農業の経営方式・土地利用方式の形成過程と明治農政の展開について解明したものであり、学術上、応用上寄与するところ少なくない。

 よって審査委員一同は、本論文は博士(農学)を授与するに価値あるものと認めた。

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