学位論文要旨



No 212205
著者(漢字) 小前,隆美
著者(英字)
著者(カナ) コマエ,タカミ
標題(和) Sc-CyDTAトレーサによる地下水流動調査法に関する研究
標題(洋)
報告番号 212205
報告番号 乙12205
学位授与日 1995.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12205号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中野,政詩
 東京大学 教授 田渕,俊雄
 東京大学 教授 中村,良太
 東京大学 助教授 宮崎,毅
 東京大学 助教授 山路,永司
内容要旨

 本研究の背景となる地下水資源管理の課題は、過剰揚水による地下水障害対策から地下水汚染対策へと移行した。これに伴って、地下水流動解析の課題も、地層の透水性を平均化した透水係数で代表させ流れを均一視した水収支解析から、不均一を前提として汚染物質の挙動を支配する地下水の流向・流速・分散性の実態把握へと進展した。今後、地下水資源は量質両面での総合管理が求められるべきであり、そのためには狭い範囲における流動実態を把握する実用的なトレーサ試験法が必要となる。しかし、塩類や色素のトレーサは環境汚染が問題となるほどの大量投入を必要とし用途も空洞水等に限定される、検出精度が高いRIトレーサの野外利用は社会的制約から実施できない状態にある。これに代わる方法として環境に存在するRIを指標とした本文解析法が研究開発されたが、狭い範囲における流動実態の把握には原理的な限界があった。また、アクチバブルトレーサについてもいくつかの研究があるが、追跡能や取り扱いの特殊性に問題がある。このため、地下水資源管理技術として、実用的なトレーサ試験法の開発が急務となっている。

 このことから、本研究では(1)新しいトレーサの選定、(2)新しいトレーサによる地下水調査法の提示、(3)新しいトレーサによる地下水調査法の有効性の立証を目的とし、以下の9章で論じた。

 第I章では、研究の背景として、実用的なトレーサ試験法の開発の重要性を示し、これまでのトレーサ試験法をレビューし、研究目的を明確にした。

 第II章では、以下のすべての章で行う解析の理論的根拠として、トレーサによる地下水流動解析の理論を整理した。トレーサによる地下水流動解析を必要とする場が均一な間隙分布をもつ地層ではなく、周辺よりも卓越した速い流れが発生している透水構造であることから、一次元の移流分散基礎方程式を採用した。トレーサの流出曲線は、ピーク濃度を分母にとって無次元化した濃度軸と、濃度ピークが出現した水量を分母にとって無次元化した水量軸で表示し、分散パラメータとトレーサの投入パルス長で規定される流出曲線の変化について検討した。また、大口径井戸にトレーサを投入した場合のように、地下水層へ流入するトレーサー濃度が漸減する場合についても流出曲線を検討した。

 第III章では、新しいトレーサとして選定したSc-CyDTAを、トレーサが具備すべき種々の条件について、文献値や室内実験結果から評価した。この物質は、シクロヘキサンジアミン4酢酸(CyDTA)にスカンジウム(Sc)を結合させたもので、20種のキレート剤から化学的安定性や水溶性が高いCyDTAを選定し、実用的条件に基づく103元素、231核種の放射化分析感度の試算からScを選定し化合させたものである。検討の結果、(1)安全性にいては、無毒であること、作業者の放射線被爆が無視できること、(2)追跡能については、化学的安定性が極めて高く水中では安定した1価の陰イオンとなりトリチウムに匹敵する挙動を示すこと、(3)分析感度については、0.01ppbまで分析が可能なこと、(4)取り扱いの容易性については、非破壊分析ができ、汎用機器で測定できること、(5)環境インパクトについては、1〜3gと投入量が少ないこと、(6)経済性については、1.5〜4.5万円/回で済むことなど、一般の放射化トレーサに比較して極めて優れた特性をもつことを明らかにした。

 第IV章では、新しいトレーサが実用性をもつことから、トレーサ試験法を含む地下水調査法を体系化し、提示した。それは、(1)広域における透水性の空間分布を把握するための水文地質情報収集、(2)水理学的にみた地下水体の連続性を把握するための測水調査、(3)地下水の貯留時間解析と水系区分のための同位体水文学的地下水調査、(4)狭い範囲における透水構造の空間分布を把握するための地下構造探査、(5)地質の確認・孔内検層・トレーサ投入/観測孔の設置のための試掘調査、(6)狭い範囲における地層の透水性を計測するための揚水試験や注水試験、そして、(7)地下水の流向・流速・分散状態を把握するためのトレーサ試験、で構成される。従来は実用的なトレーサ試験法が無かったことから、広域の水収支解析結果が与える仮想的地下水流動と孔内検層で計測される流向や流速との大きな相違の説明が困難であったが、ここに、新しいトレーサ試験法が提供できることによって、狭い範囲における地下水流動の実態把握が可能となる。そこで、第V章から第VII章では、新しいトレーサによる地下水調査法を3種の地下水流動に適用し、方法の有効性を野外検証した。

 第V章では、埼玉県児玉町における旧河道中の地下水への適用例について述べた。旧河道は、農業と浅層地下水汚染の関係を考察するうえでその機能の解明が重要な課題となっている。潜在する旧河道流心部の位置を、19地点での同位体水文学的地下水調査、4測線での電気探査、2地点での試掘調査で確認し、その間110mでトレーサ試験を行った。この実験の目的は、浅層地下水の主要な流路となる旧河道中での流動実態の解明と、選定したSc-CyDTAトレーサの実用性の検証である。揚水試験で得た透水係数から試算した到達所要時間は約140時間であったが、投入7時間後にはフロントが到達し、濃度ピークは10時間後に到達した。その結果、旧河道中の地下水は地層を均一視した場合の14倍と高速であり、浅層地下水による物質輸送の主要経路となっている実態が明らかになった。また、理論曲線と実験値の調和を検討した結果、流動過程の分散状態が解析できた。さらに、本実験によって、0.1ppmという極低濃度投入法の実用性、室内実験の500倍という長距離トレースの可能性が確認された。

 第VI章では、福島県塙町における花崗岩体の割れ目中の地下水への適用例について述べた。岩盤割れ目中の地下水は、中山間地の活性化のための地下水開発や地熱開発、ダムや備蓄基地建設における地盤の安全性評価など、その実態解明が社会的にも技術的にも重要な課題となっている。地質踏査、電気探査、試掘調査で幅約3mの破砕部の存在が推定されている割れ目系を対象とし、割れ目中にほぼ垂直に設けた投入孔と、投入孔から35mと90m下流で割れ目を水平に貫く2本の観測孔の区間でトレーサ試験を行った。この実験の目的は、比較的単純な構造を持つ岩体の割れ目中での分散過程の検討と、割れ目地下水のモデル化の検討である。35m区間では、3つの濃度ピークが出現し理論曲線と実験値がよく一致したことから、水みち的な流動形態であることが示され、90m区間では、ピークの平均流速が35m区間の1/15まで低下し、第2ピークや第3ピークが判別できず、ピーク前後の実験値が異なる分散状態であったことから、割れ目全体にひろがる流れに移行しているものと考えられた。また、この割れ目全体にひろがる流れについては、割れ目を平行板と見立て、トレーサの速度から求めた平均間隙流速を用いて試算した透水性と揚水試験から得られたそれとが一致した。結論として、本実験によって、岩盤割れ目中の地下水が流下過程で水みち的流動形態から割れ目全体にひろがる流れに移行する現象が確認でき、トレーサ利用の効果として岩盤構造解析の可能性を明らかにした。

 第VII章では、岩手県における風化岩盤中の地下水への適用例について述べた。連続性が不明な岩盤中の透水構造は、ダムの施工や安全管理にとって事前に把握すべき重要事項であり、調査法の確立が課題となっている。現地の地質は、古生代の礫岩、砂岩と粘板岩の互層であり、試掘調査によって深度35m付近の砂岩を境に2層の透水部の存在が推定されているが、その連続性は不明であった。トレーサにはSc-CyDTAとトリチウムを併用し、ボーリング孔から河川水で希釈しながら5時間注入し、その後5日間にわたって河川水のみを連続注入しながら最遠170mまでの14地点で26回の採水を行った。この実験の目的は、複雑な透水構造の地盤を対象に、Sc-CyDTAとトリチウムの挙動の比較と、Sc-CyDTAと従来注水トレースの指標とされていた水温、電気伝導度、ラドン濃度等との有効性の比較である。本実験は、近年において唯一のトリチウムの野外利用事例となった。実験結果からは、断層破砕帯が遮水機能を持つことや2層の透水部の連続性が明らかになったほか、選定したSc-CyDTAの追跡能として、流動過程でやや損失が発生するものの解析上無視できる範囲であることと、他の指標に比較して注水の到達を極めて明瞭に示すことが確認された。

 第VIII章では、V VI VII章で展開した3種の野外適用試験結果を総括し、理論的解析の有効性と限界、実態調査法としての実用性を述べた。

 以上の通り、本研究では、新しい地下水トレーサとしてSc-CyDTAを選定し、新しいトレーサによる地下水調査法を提示し、野外適用実験によってその有効性を明らかにした。この調査法を採用することで、(1)最も速い移流速度の計測、(2)流向・平均間隙流速の計測、(3)流動過程での分散状態の解明、(4)水みち的透水構造の解明、が可能となる。今後、この新しいトレーサによる地下水調査法は、地下水資源管理・地域環境管理・農業基幹施設施工管理等に採用され、さまざまな地下水関連技術への貢献が期待される。

審査要旨

 地下水は,自然生態系を特徴づける環境要素の一つであり,農業利用など人間活動にとって貴重な水源である。この地下水の流動は広域にわたる地下深層の探査という性格上なかなか把握しにくいところであり,とくに流速の正確な把握については,放射線障害防止法施行以後の放射性同位元業の野外におけるトレーサー利用制限もあって,困難を来たしてきたところであった。

 本論文は,そこで,環境を汚染することのない,かつ速い地下水流速の探査が十分正確に行えるようなアクチバブルトレーサーを探索し,これをトレーサーとして用いた総合的な地下水流動の調査法を確立しようとしたものであり,9章より構成されている。

 第1章は,序論であり,研究の目的や課題,それに既往の研究の評価を述べている。

 第2章は,トレーサーによる地下水流動解析の理論について解析し,トレーサーを必要とする地下水流動は流速の大きい流れであり,そこでのトレーサーの移動は移流によるものが卓越しているが,拡散および水力学的分散によるものも重要な成分であり,また井戸へのトレーサーバルスの投与の仕方に依ってもトレーサー観測波形が影響をうけることを明らかにしている。

 第3章では,アクチバブルトレーサーの利用が,他のトレーサーと比較して,安全性,追跡能,分析感度,取扱いの容易性,環境へのインパクト,経済性等のあらゆる点で秀でていると分析し,中でもシクロヘキサンジアミン4酢酸にスカンジウムを結合させたSc-CyDTAが水中で安定でありトリチウムと同様の挙動を示し,地層中での吸着損失が少なく,バックグラウンドも低く,適切な放射化特性を持ち,分析感度が0.03gという優れた性能を持つことを明らかにした。そして,投入量1ないし3g,放射化条件としてJRR-2炉気送管で5×1013n/cm2s,照射時間20分,冷却時間2日,測定条件としてGe半導体検出器で1,000秒,測定精度として計数誤差3.5%以下,計数率50cpmとした野外使用基準を提唱している。

 第4章では,このトレーサー試験法を含む地下水調査法として,1)資料による水文地質情報収集,2)井戸群における測水調査,3)環境同位体測定による水系・滞留調査,4)物理探査による地下構造調査,5)試掘による地質検層調査,6)井戸における揚水・注水試験,7)トレーサーによる地下水流況調査,それぞれの意義と相互の関連を分析し,広域から局所的な地下水までを対象に,かつ水収支から実態の解明まで目的に応じた調査法の体系を組み立てている。

 第5章では,上記の調査法の適用として,低平地の旧河道中に存在する深さ約3.6mの地下水を取り上げ,環境同位体測定による水系把握,電気探査による地下構造把握,2地点の試掘による地質把握をおこない,2gのSc-CyDTA投入による110m間のトレーサー試験を実施し、旧河道の流路を確認するとともに,この地下水の流速が時速11mという高速であり,これが汚染物質の地域的な拡散を早める物質輸送の主要経路となっていることを明らかにした。

 第6章では,山地の花崗岩体の割れ目の中に存在する深さ約5mの地下水に適用し,地質踏査,電気探査,試掘調査をおこない,同様のSc-CyDTA投入による35m間の試験で流速65m/h,90m間の試験で流速4.3m/hを観測し,大きな割れ目中の流速は極めて大きなものであるが,平均化された花崗岩中の透水特性としては透水係数が0.035cm/sであり,その平均流路は岩体の2.6%を占める0.013cmの幅の割れ目であることを明らかにした。

 第7章では,中山間地の地下構造が複雑な風化岩盤中の深さ約50mの深層地下水に適用し,約20mから170mの距離に散在する14の周辺観測井内の水位,水温,電気伝導度,ラドン濃度を観測する河川水注水試験と平行して,Sc-CyDTAトレーサー試験をおこない,Sc-CyDTAだけが明瞭な到達ピークを示し,これにより流向の把握が可能であったことをのべ,このトレーサーの優秀性について再確認している。

 第8章では,トレーサーによる地下水流動の理論的解析の有効性と限界および実態調査法としての実用性を検討し,第9章は結論である。

 以上を要するに,本論文は,地下水の流況を把握するためのアクチバブルトレーサとしてのSc-CyDTAの有用性を詳細に検証し,これを用いた地下水調査法の体系を新たに構築しながら特異な地下水の流動を解明したもので,農業地水学,農地工学,農業水利学,それに地下水学の学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって,審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判定した。

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